
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 1851年5月1日、世界初となる国際博覧会「ロンドン万博(The Great Exhibition)」が、ハイドパークに新設されたクリスタル・パレスにて開幕した。大阪万博(4月13日~10月13日)の開催を間近に控えた今回は、この記念すべき第1回万博についてお届けする。
大英帝国の栄華を見せつけたい
18世紀半ばから始まった産業革命により、19世紀後半が近づく頃には「世界の産業リーダー」の地位にのぼり詰めていた英国。1830年には世界初の旅客輸送用の蒸気機関車がリヴァプール~マンチェスター間で開通し、それ以降、英国中に鉄道網が張り巡らされ、他国に類を見ない発展と繁栄を誇っていた。そうした中で、英国の驚異的な業績を国内外に大々的に披露する場として1851年に開催されたのが、史上初の試みとなる「万国産業製品大博覧会」であった。

そもそものきっかけは、フランスで定期的に開かれていた国内産業博覧会(French Industrial Exposition)の盛況ぶりに、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公が感銘を受けたことだった。フランス革命後、王侯貴族の美術品コレクションの国有化が進み、一般公開されるようになったが、同時にそれ以外の様々な物品を集めて展示する博覧会もパリで開催され、年々規模を拡大させていた。1843年に王立芸術協会(Royal Society of Arts)の会長に就任したアルバートは、このパリの博覧会よりも大規模で、「産業大国」としての英国の力を誇示することができる「国際的なイベント」を開きたいと思案。そうして思いついたのが、ロンドン万博である。
アルバートは1850年1月、万博を推進するための王立委員会(Royal Commission for the Exhibition 1851)を創設。翌年5月の開幕を目指し、一気に動き出した。
最先端技術が詰まった、壮麗な建物を
世界が注目する大イベントにするには、巨大で壮麗、かつ近代的なデザインの「誰もが息をのむ」ような会場を建造する必要があった。公募した設計コンペには250件もの応募があったものの、どれもパッとしない。王立委員会のメンバーで独自に設計に取り組んだりもしたが、完成には莫大な費用が見込まれるために断念せざるを得なかった。すでに開幕予定日まで1年を切っており、アルバートは焦っていた。
そこに彗星のごとく現れたのが、ダービーシャーにあるデボンシャー公爵家の邸宅「チャツワース」の主任庭師で、同邸宅のために数々の革新的なガラス張りの温室を設計、特許も得ていたジョセフ・パクストンだ。当時は窓以外でガラスを建築材料として使うことはほとんどなく、鉄柱とガラスだけで造られたチャツワースの温室は最先端を走っていた。
壮大なガラス張りの建物で万博が開かれたら、世界各国の人々の度肝を抜くに違いない――。アルバートは、パクストンのデザインを即採用。会場の建設場所は、バッキンガム宮殿に程近いハイドパークに決めた。


建設工事がスタートしたときには8月に入っていたが、5000人以上の作業員が惜しみなく動員された結果、わずか9ヵ月後の翌年4月に予定通り完了する。長さ564メートル、高さ33メートルの3階建てで、使用されたガラス板は30万枚近くにも及んだ。
唯一当初のデザインから変更された箇所は、建物の中央部分の屋根であった。立地には3本の楡(ニレ)の木が生えており、それらを伐採することに対して大きな反対運動が起きたのだ。パクストンは中央部分を高いアーチ型の屋根に変え、木々を建物内に入れ込むことで問題を解決。温室を手がけてきた彼だからこそ、浮かんだアイディアだと言える。そして、木々のそばには8メートルもの高さの噴水も設け、来場者が休憩できる「リフレッシュメント・エリア」を設営。まるでクリスタル造りの宮殿のような佇まいに、やがて「クリスタル・パレス」と呼ばれるようになる。
参加国は25ヵ国以上、でも…

さて会場が完成したら、次は展示物だ。アルバートは、クリスタル・パレスの西側を英国とその植民地の展示スペースに、東側をその他の外国に割り当てて対比をわかりやすくし、英国産業の優位性を示そうと考えた。さらに英国の展示品は、化学・医療部門、機械部門、毛織物などの製造品部門、美術・工芸部門といった大まかなカテゴリーに分け、部門ごとに審査を行って賞を授与するなど、競争による技術の向上も目論んだ。ロンドン万博には25ヵ国以上が参加したものの、英国の展示が半分以上を占め、次いでフランスと米国に多くのスペースが割かれていた。
陶磁器や銀細工、時計といった工芸品、彫刻、古代遺物、家具、絹・織物、楽器など10万点を超える品々が一堂に集められたが、好奇心旺盛な人々の注目を集めたのは、やはり蒸気機関や巨大なエンジン、科学機器等の卓越した最新技術や、どういう仕掛けになっているのか想像もつかないような動く機械だった。会場内では、紡績から布の完成まで綿生産の全工程を見せる実演も行われており、連日ものすごい人だかりだったという。


ちなみに余談だが、この第1回万博から中国は参加していたが、日本が初参加したのは第4回のパリ万博(1867年)からである。
アルバートポリスの誕生
開幕式に出席したヴィクトリア女王は「人生で最も偉大で輝かしい日のひとつ」と語り、1851年5月1日~10月15日までの5ヵ月半の会期中に、なんと34回もクリスタル・パレスを訪れている。
「失敗に終わるだろう」と訴えた反対派もいたし、貧困層が暴徒化してクリスタル・パレスを破壊するのではと恐れた人もいたが、実際には何も事件は起きず、順風満帆に閉幕した。この万博は英国の栄華をただ見せつけるためだけでなく、植民地支配による「帝国主義」に肯定的なイメージを与え、支持を広めることも目標のひとつであった。そのため、アルバートは誰もが入場できるようにしたいと考え、平日は入場料を格安にするなど、多くの国民が足を運べるようにしたことが功を奏したと言える。結局、当時の英国の全人口の3分の1に相当する、600万人以上が来場する大盛況となったのだった。
また、万博は経済的にも大成功を収め、現在の2000万ポンド以上に相当する黒字をたたき出している。アルバートはクリスタル・パレスの建設地に近いサウス・ケンジントンの一帯を「芸術・文化地区」とし、ヴィクトリア&アルバート博物館、自然史博物館、科学博物館、ロイヤル・アルバート・ホールなどの設立に収益を当てた。この地域一帯は、別名「アルバートポリス(Albertopolis/アルバートの街)」と呼ばれている。
わずかに残る面影
ロンドン万博の成功に触発されたフランスのナポレオン3世が、4年後の1855年にパリで第2回万博を開いたことで、これ以後、今日まで万博が世界各国で開催されていくのであるが、クリスタル・パレスはその後どうなったのであろうか?

クリスタル・パレスは一時的な仮設施設であったため、万博の終了後はすぐに解体された。しかし、建物の保存を強く望む声が上がり、ロンドン郊外のシドナム・ヒルに再建されることが決定。パクストンによって3階建てから6階建てに、規模も1・5倍に増築されて、1854年にコンサートホールや植物園、水族館、古代遺跡ギャラリー、ショッピングモールなどを内包する「文化複合施設」として生まれ変わった。

一時期は観光名所として再び脚光を浴びたが、1870年代になると人足は途絶え、やがて破産。第一次世界大戦中は軍事施設として使われるも、1936年に発生した火災で全焼してしまった。クリスタル・パレスが建っていた場所は現在、クリスタル・パレス・パークと呼ばれ、公園内には当時のテラスや階段、彫像などが点在している。


週刊ジャーニー No.1387(2025年4月3日)掲載