
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 「人魚姫」や「マッチ売りの少女」、「赤い靴」など、誰もが一度は読んだことのあるアンデルセン童話。生きるための知恵や教訓が込められ、ハッピーエンドで終わるグリム童話に比べて、アンデルセンが紡ぎ出した物語は死を迎える悲しい結末が多い。今回は、今年没後150年を迎えるアンデルセンについてお届けしたい。
欠乏と貧困の暗い影

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは1805年、デンマークの都市オーデンセで誕生。オーデンセは北欧神話の最高神オーディンの名前を由来とする、デンマーク最古の都市のひとつで、小さいながらも17世紀にはデンマーク王国の首都であったこともある地だった。そのため、大都市のコペンハーゲンでは廃れてしまった古い慣習や迷信が色濃く残る、閉鎖された町でもあった。

アンデルセンの父親は靴職人、母親は洗濯婦として働いていたものの、家庭は非常に貧しかった。また、父方の祖父は精神病を患って狂死、祖母は病的なほどの虚言癖を持っており、さらに母方の親類は売春宿を営むなど、子どもの生育環境としては最悪の部類でもあった。貧困、精神的不安、社会の最下層民として侮られる生活…。現実から逃避するように、アンデルセンは幼い頃から芸術や夢の世界に埋没することで、つらい毎日をやり過ごすしかなかった。
父親は小学校しか卒業していなかったが、読み書きが一切できない母親の代わりに、毎晩「アラビアン・ナイト」や聖書、ルズヴィ・ホルベア(デンマーク・ノルウェーの近代文学の創設者と言われる作家)の物語を読み聞かせていた。アンデルセンは両親のいない昼間は救貧院へ行き、年配者たちが語る古い民話に耳を傾けた。そうした中で、彼をもっとも魅了したのが町に唯一ある劇場だった。時折、コペンハーゲンからの旅回り劇団が公演を行っており、こっそりと潜り込んでは演劇を楽しんだ。いつか自分もあんな風に舞台に立ちたい…。夢と願望は、日々膨らんでいった。
ところが11歳のとき、父親も祖父と同じように精神を病んで亡くなってしまう。すると生活費を稼ぐために、母親は町の男たちを自宅へ招いて身体を売りはじめ、やがてアルコール依存症に陥る。母との暮らしはアンデルセンの心をさらに追い詰めていき、彼女の再婚を機に、コペンハーゲンへ旅立つことを決断。若干14歳のことだった。
のちに、彼は故郷での生活を「欠乏と貧困だらけの、重たい、暗い時代」と手紙につづっている。
祖母から受け継いだ妄想癖
首都コペンハーゲンに出てきたアンデルセンが真っすぐ向かったのは、王立劇場だった。資金もツテも何もなかったが、舞台役者になる夢と野望だけは胸にいっぱい詰まっていた。

ただ、31歳の肖像画を見てもわかるように、アンデルセンは決して容貌に恵まれた人物ではなかった。腕と脚は長くて細く、ひょろりとしたバランスの悪い体型、顔は面長で鼻が大きかった。当時声変わり前であった「高い声」は彼の自慢だったが、その「美声」も「天使のような」などと称賛されることはなく、「甲高い耳障りな」と陰で嘲笑されていた。
それでも自信を持って上京したのは、妄想癖のあった祖母が繰り返し語っていた「私は貴族の血を引いているのよ」という言葉を妄信していたからだ。アンデルセンは「自分は取り替えられた貴族の血筋の子」だと周囲に話し、暗い故郷を抜け出して華やかな都会へ出れば、その血筋に見合った幸福を得られると信じていたのである。祖母から受け継いだ妄想力が、数々の童話を紡ぎ出す源となったことは疑いようがないだろう。
役者、バレエダンサー、オペラ歌手など幅広く挑戦したが、当然ながらどれも挫折し成功しなかった。しかし、どうしても劇場に携わる仕事がしたかったアンデルセンは、最後の足掻きで劇作家としての腕を試すことにする。結局これも無駄に終わったのであるが、幸運なことに、王立劇場の支配人が彼の豊かな想像力と詩のセンスに目を留めたことから、人生が大きく好転していくことになる。
この支配人の学費援助によって、アンデルセンは学校へ通えることになり、最終的にはコペンハーゲン大学を卒業。人付き合いが苦手で、出生の違いなどから嘲笑を浴びたり、疎外感を味わったりと以降も苦難は続いたものの、やがて童話作家として国際的な名声を得るようになっていった。
死は苦しみからの解放

さて、アンデルセンの童話は、どれにも彼自身が投影されているのが特徴だ。
アンデルセンが「自分の生涯の反映」と評した「みにくいアヒルの子」(1843年)は、一羽だけ見た目が異様なことでいじめられてきたアヒルの子が、あまりのつらさに家族のもとから逃避。しかし、他の群れや人間にも虐げられて生きる気力を失くし、殺してもらおうと白鳥の群れに近づく。だが、いつの間にか大人になっており、自分がアヒルではなく美しい白鳥であったことに気づいて幸せになる――というストーリーだが、これは言うまでもなく、自分の容姿コンプレックスや孤独感、暗い故郷からの旅立ち、新しい地での挫折、そして作家としての成功を描いたものである。

また、人魚の悲恋物語である「人魚姫」(1837年)には幾度もの失恋体験、想い人の前では「呪い」がかかったかのように上手く話せなくなるジレンマ、幸せと冒険を求めて閉鎖された世界から飛び出し、でも憧れた新しい世界では受け入れてもらえない苦しみや屈辱、そして死による悲嘆からの解放――が込められている。彼にとって死は解放であり、幸せになれる唯一の方法だった。
これは「マッチ売りの少女」(1845年)に、とくに顕著に現れている。暖をとろうと、売り物のマッチに火をつけたときに現れる少女の祖母の姿は、アンデルセンの祖母への強い思慕に繋がっている。マッチの燃えかすを抱え、口元を幸せそうに微笑ませて息絶える少女は、まさに「死ねば、この苦しみから解放されるのでは…」と常に考えていたアンデルセンらしい終わり方と言える。
悩まされた多くの恐怖症

死を焦がれるかのような思想の一方で、アンデルセンは多くの恐怖症を抱えており、死ぬことに強い恐れを抱いてもいた。
とくに祖父と父親が発狂死していることから、自分もいつかそうなるのではないかと生涯を通して不安が消えることはなかった。ほかに犬恐怖症や、豚に寄生しているトリヒナ(旋毛虫)に感染することを心配して、豚肉は一切口にしなかった。また、火災で逃げ場を失くして焼死することに恐怖を覚え、いつでも建物の窓やバルコニーから逃げ出せるように、長いロープを持ち歩いていた。
さらに、眠っている間に亡くなったと勘違いされて、埋葬されてしまったという男性の噂話を耳にしてからは「生き埋め恐怖症」にもなり、寝る前に必ず「私は死んでいません」と書いたメモを枕元に置いていたという。晩年はベッドの上で、「息を引き取ったことを確認した後、血管を切ってほしい」と懇願し、棺の中で息を吹き返す可能性に怯えていた。

幼少期に受けた母親からの影響で、大人の女性との「成熟した恋」が苦手だったと言われているアンデルセン。同性愛者だった可能性も指摘されているが、真実はわからない。アンデルセンは生涯独身のまま、1875年8月4日、コペンハーゲン近郊の自宅で肝臓ガンにより死去。享年70だった。
アンデルセンは自身の葬儀について、「私の棺の後を歩くのは、ほとんどが子どもたちだろうから、葬送曲は小さな歩幅でも拍子が合うような曲にしてほしい」と頼んでいたが、実際の葬儀はデンマーク王室メンバーも参列するほどの壮大なものだった。
グリム童話 vs アンデルセン童話

アンデルセンとグリム兄弟は、実は同時代に活動している。アンデルセンはコペンハーゲン大学を卒業した後、ヨーロッパ各地を旅しながら童話を執筆しはじめ、1837年に出版した「人魚姫」で一躍有名人になったが、その後はドイツに長く滞在していた。一方、ドイツ出身のグリム兄弟は、数人の兄弟たちで童話刊行に携わっていた。なかでも主に長男ヤーコプ(1785~1863年)と次男ヴィルヘルム(1786~1859年)=上=が活躍し、「グリム兄弟」といえば、この2人を指すことが多い。
両者の違いは、勤勉な学者肌のグリム兄弟たちが集めた民間伝承をまとめたものがグリム童話であるのに対し、アンデルセン童話はすべてアンデルセンが創作したオリジナルであるという点だ。グリム兄弟よりも20歳ほど年下であるアンデルセンは、ドイツに滞在中、すでに名声を得ていたグリム兄弟を訪ねている。
グリム童話
- ◦ かえるの王さま/The Frog Prince
- ◦ ラプンツェル/Rapunzel
- ◦ ヘンゼルとグレーテル/Hansel and Gretel
- ◦ シンデレラ/Cinderella
- ◦ 赤ずきん/Little Red Riding Hood
- ◦ ブレーメンの音楽隊/Town Musicians of Bremen
- ◦ 白雪姫/Snow White
アンデルセン童話
- ◦ 親指姫/Thumbelina
- ◦ 人魚姫/The Little Mermaid
- ◦ 裸の王様/The Emperor's New Clothes
- ◦ みにくいアヒルの子/The Ugly Duckling
- ◦ 赤い靴/The Red Shoes
- ◦ マッチ売りの少女/The Little Match Girl
週刊ジャーニー No.1384(2025年3月13日)掲載