
●サバイバー●取材・執筆・写真/本誌編集部
■ コベントガーデンで理髪店の息子として生まれたターナー。「英国を代表する画家」として知られる彼だが、その人柄は短気で気取りとは無縁、寡黙でぶっきらぼうながらも子どもに優しく、進取の気性に富むという、まさに生粋の「下町っ子」だった。生誕250周年を記念して今回は、画家ターナーを育んだコベントガーデンでの日々に迫る。
下町理髪店の息子


ターナーは1775年4月23日、コベントガーデンのメイデン・レーン21番地で理髪店を営む、働き者の父ウィリアムの長男として誕生。曾祖父(ジョゼフ)と祖父(マロード)と父(ウィリアム)の名前をすべて足した、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーと名付けられた。
父親はデヴォンの出身で、ロンドンで身を立てようと上京し、メイデン・レーン21番地に理髪店を開業。1973年8月29日に店の近くにあるセント・ポール教会で、肉屋の娘メアリーと結婚した。結婚当時のウィリアムは28歳、メアリーは34歳と彼女の方が6歳上の「姉さん女房」であり、結婚2年目で授かった息子が、いずれ画家となるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーである。ターナーは生後3週間が過ぎた5月14日、両親が挙式したセント・ポール教会で洗礼を受けた。


ターナーの生まれ育ったコベントガーデンは現在同様、パブやレストラン、劇場、野菜市場、賭け屋などが混在する、ロンドンきっての繁華街であり、劇場へ向かう紳士淑女、夜の街に立つ売春婦、スリなど、多様な人間が入り乱れる場所だった。とくに1666年に発生したロンドン大火によって、東部の市場(マーケット)が焼失すると、コベントガーデン・マーケットは「ロンドン最大の市場」として商人や買い物客で賑わい、父親の経営する理髪店は大忙し。息子に構っている時間などなかった。
一方、母親はいったん怒り出すと制御不可能になる、やっかいな気性の持ち主だった。父を大声で口汚く罵り、そんな母の姿に恐怖と嫌悪を感じたターナーは、母の「怒りの発作」が始まると、両手で耳を塞いで近所の家に駆けこんだ。やがてターナーが生まれた3年後に誕生した妹が、5歳になる前に亡くなったことで、母の精神状態はさらに悪化。息子の世話も十分にできなくなったため、10歳で母方の親戚に一時引き取られている。その後も母親の体調が悪くなるたびに、各地の親戚の住まいを転々としなければならなかった。
商売上手な父の助力
そんな温かく穏やかな家庭とは縁遠い生活の中で、ターナーが興味を持ったのが「絵」であった。寂しさを紛らわすためだったのだろう。学校へ行く道すがら壁や道端に黙々と落書きをしていたターナーは、やがて本格的に「絵描き」になろうと考えはじめる。
写真がまだなかった時代、画家は大工や理髪師と同様に、きちんと需要のある職業だった。客あしらいが上手く商魂たくましい父親は、ターナーが美術に興味を持ったことを喜び、息子が描いたスケッチやドローイングを店内の壁に何枚かピンで留め、「うちのせがれは将来、絵描きになるんですよ」と客に吹聴。1枚1~3シリングと値段をつけて、販売するようになる。そして、当時は現在のサマセットハウス内にあったロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の教授が散髪に来たときには必ず、息子の話をしながら壁に貼ったドローイングを示し続けた。
こうした父親の協力のもと、ターナーは常連客だった教授の推薦を得て1789年、弱冠14歳にしてロイヤル・アカデミーの付属美術学校に入学したのであった。息子が絵の制作に没頭できるようにと、父親は店の向かいのメイデン・レーン26番地を借りて、ターナーに与えている。
舞台の背景画で得たヒント
ターナーは、漠然と肖像画家になることを夢見ていた。貴族や富豪から依頼を受け、彼らの邸宅を出入りする肖像画家は、画家の中でも花形職。しかし、肖像画家になるには必須である洗練された振る舞いや社交性、愛想の良さが、彼には決定的に欠けていた。短気でケンカっ早く、粗野でぶっきらぼう、身なりも気にしない。「高尚」とは言い難い下町言葉で話すターナーは、当然ながら肖像画家には向かない。それは自分でも理解していた。
そうした中で自身の進む道のヒントとなったのが、オックスフォード・ストリートにある大衆劇場「パンテオン」でのアルバイトである。ターナーは付属学校に通いながら、授業の後はパンテオン劇場で舞台の背景を描いた。メロドラマに相応しい、嵐で荒れる海や暴風雨の荒野といったドラマチックな風景画は、その後の彼の作品傾向の原点となった。
さらに、この劇場が火災に見舞われたことも大きな影響を与えた。煙が立ちのぼり、燃え上がる劇場をその場で描き続けたターナーは、夢中になるあまり10日間も無断休学している。自分が人物よりも、火や水、風、光といった自然や、火事、嵐などの自然現象に惹かれることに気づいたのである。

父と子の強い絆
卒業後のターナーは、絵の題材を探して英国各地を旅した。自然豊かなカントリーサイドや海辺へ足を運び、1799年には24歳で念願のロイヤル・アカデミー準会員に選出され、順調に出世街道を邁進していく。
ちなみに、一番上のキリッと正面を見据えた自画像は、この準会員選出時のもので、貴族や裕福な家庭の出身者が大半を占めるアカデミー会員たちに負けないように、「アカデミシャン」らしく少々誇示して描かれたものである。
ターナーはこれを機に、コベントガーデンを離れる決意をする。実は、パンテオン劇場でのアルバイトで仲良くなった旧友(同劇場のピアニストで早世した)の妻と再会し、恋愛関係になっていたのだ。苛烈な母親を精神病院へ入院させた後、4人の子どもを育てる未亡人の恋人とともに、ターナーはハーレー・ストリート64番地へ転居。6人での「疑似家族」生活を送りはじめた。2人の関係は10年以上続き、娘も2人授かったものの、ターナーは生涯結婚することはなかった。彼にとって「モンスター・マザー」だった母親の影響は凄まじく、思い悩む父親の姿をずっと見ていたため、結婚や女性に縛られることに対する恐怖感を拭い去ることができなかったのである。ほかにも交際した女性はいたが、すべて結婚を求めない「未亡人」だった。
1804年に母親が精神病院で息を引き取ると、父親は理髪店をたたみ、ターナーがハーレー・ストリートの近くにオープンした自身の作品を展示・販売するギャラリーを手伝い、最後まで影でターナーを支え続けた。母との縁は浅かったが、父と息子の絆は非情に強く、容姿も振り二つであった。父親は小柄でずんぐりした体型で活力に溢れ、赤ら顔で鷲鼻だったというが、これは晩年のターナーの姿そのままである。
1829年に84歳で死去した父親は、コベントガーデンのセント・ポール教会に埋葬された。失意のどん底に落ち、長く喪失感に苦しんだターナーは、父と一緒にコベントガーデンで眠ることを希望していたものの、ロイヤル・アカデミー副会長を務め、「国民的画家」にまで上り詰めてしまった彼の墓は、その意に反してセント・ポール大聖堂につくられている。


❶ 21 Maiden Lane
1775年4月23日に、ターナーが産声を上げた場所。1階では父親が理髪店を営んでいた。
❷ St Paul's Church(The Actor's Church)
1773年に両親が挙式した教会。ターナーも生後3週間を迎えた日(1775年5月14日)に、ここで洗礼を受けた。父親が埋葬されている。
❸ 26 Maiden Lane
ターナーが美術学校時代に暮らした場所。1799年まで10年近く過ごした。
❹ Royal Academy of Arts(現・Somerset House)
当時のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツと付属学校は、サマセットハウス内にあった。1800年に今の旧バーリントンハウスへ引っ越している。
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週刊ジャーニー No.1383(2025年3月6日)掲載