型破りなヴィクトリアン淑女 明治初期の日本を旅した旅行家イザベラ・バード 後編

〈前編のあらすじ〉幼少時からの虚弱体質を改善するために始めた旅行だったが、異国の文化に深く触れる喜びに魅了され、その旅は次第に「探検」といえるレベルに到達。開国から間もない日本にも大きな興味を抱いたイザベラは、まだ外国人の国内移動に厳しい制限があった1878年(明治11年)、ついにその「未踏の地」に単身降り立った。良妻賢母として家を守ることが女性の美徳とされたヴィクトリア朝時代に、旅行家として世界を巡った英国人女性イザベラ・バードの生涯の後半生を送る。

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代・本誌編集部

未踏の地へ こだわりを突き通す

長い鎖国ののちに将軍が消え、江戸から東京に名前が変わり、元号が明治になった日本。外からの影響でどんどん国は変貌していったが、欧米の人々にはとっては日本はまだまだ遠くて謎めいた国であり、新旧の(または間違った)情報が錯綜していた。

そんな時代に日本にやってきたイザベラのこだわりは、国外からの人間がまだ足を踏み入れていない内陸部を旅して、「リアルな日本」を観察すること。当時、外国人が居住・商売することが許されていたのは海沿いの開港場だけで、政府の許可がないと内陸部に入ることはできなかったのだ。そのために、イザベラはハリー・パークスやアーネスト・サトウといった日本に知己のある英国の外交官らの協力を得て、「健康、植物調査、学術研究」の名目で行動制限のない通行証を手に入れ、事前情報がほとんどないルートも含め果敢に旅を遂行した。

困難もさらっと乗り切る 冷静沈着さ

「Unbeaten Tracks in Japan」に描かれた、イザベラ自筆の東海道沿いの村から眺めた富士山の様子。観察眼だけでなく、スケッチ力も抜群だったことがうかがえる。

イザベラはエディンバラを出港した後、米国~カナダ~中国と船を約40日かけて乗り継いで、1878年5月20日に横浜に到着。6~9月まで約4ヵ月かけて東京・日光・新潟・東北・北海道(蝦夷)までを廻った。鉄道はまだ都市部の限られた区間しか走っておらず、移動の選択肢は徒歩か、荷馬、籠、人力車。船も使ったものの、イザベラは内陸路にこだわり、現地の人々が通常は船で移動するルートでも敢えて険しい陸地を選んだこともあった。日本各地の灯台建設を指揮した英国出身の土木技師リチャード・ブラントンが作った日本地図が頼りだったものの、イザベラが望んだ経路が「未踏」だっただけに、この地図にはまだ載っていないことも多かった。

イザベラの旅に同行したとされる、日本人通訳の伊藤鶴吉。イザベラは47歳、伊藤はまだ18歳だった。

天候に悩まされながら山道を進み、峠や川を越え、険しい道では車夫のために人力車を降りて歩き、時には川の増水や土砂崩れで足止めされ、またある時には馬の背から振り落とされもした。雨宿りする場所もなくずぶ濡れになって凍えるなど、かなりハードな毎日だったが、道中の記録をまとめた「Unbeaten Tracks in Japan」(1880年)を読むと、彼女はそうした苦労も楽しそうに綴っている。若い日本人通訳を一人つけただけの外国人女性が奥地を旅しても、無礼な扱いや強奪行為にはただの一度も遭わずに済んだことを他人事のように感心したりと、なかなか肝の座った女性だったことは間違いない。

ただ、どこにいっても人々の好奇の目に晒され、プライバシーがなかったことには閉口した。宿の障子に開いた数々の穴からは変わるがわる人の目が覗き、宿の主人や使用人はしきりに部屋を訪れ、宿の外に人だかりができて警察が出動することもあった。

「探検」の荷物は 賢く準備

日本旅行の悩みは、ノミと食べ物だった。休憩や宿泊先の床には常にノミの大群がいて、うっかり座ることもできない。そんな時に役立ったのが、軽い棒にキャンバス地を張った折り畳み式簡易ベッドだ。2分で組み立てられ、高さは76センチ。ノミもさすがにそこまでは飛べなかった。この簡易ベッドは、他の外国人調査隊にも羨ましがられている。また、慣れない日本家屋で座るための折り畳みの椅子、ゴム製浴槽、雨よけの油紙製のカバーがついた柳行李、人力車用の空気枕、蚊帳など、奥地に向けて必要なものは準備万端。ただし、荷造りは軽く。4ヵ月の旅に備えたイザベラの荷物はたったの50キロであった。

パンやバターは外国人がいる地域でしか手に入らないし、缶詰の肉やスープ、ワインなどをしっかり持っていくように助言されたが、身軽を目指したイザベラは、牛肉ブイヨン、レーズン、チョコレート、少々のブランデーなど厳選した食料のみを持参した。案の定、旅先ではタンパク質の入手には苦労し、お供の日本人通訳がイザベラのためにトリ肉を調達しようとしても、「卵が目的なら良いが、殺して食べるのなら売らない」と農家にしばしば拒否されている。そのため、北海道ではとれたての鮭の切り身や鹿の肉を焼いて食べることができ、イザベラは歓喜した。

ちなみに、北海道ではこれから内陸探検旅行に出発するというフランス人とオーストリア人の3人連れ一行と出会ったのだが、彼らの食料やワインを満載した何頭もの荷馬を見たイザベラは心の中で「あんな大荷物では失敗するわね」とつぶやいている。そして予想通り、のちに彼らが実地調査に見事に失敗したことが判明するのだった。

蝦夷で アイヌと心を通わす

イザベラが描いたアイヌの長老。

イザベラが北海道を目指したのは、アイヌ民族が目的だった。当時は明治政府による北海道開拓方針や日本人との強制同化政策で、アイヌの人々が古来の習俗を禁じられたり、日本語や文字を強制されたりと、アイヌ民族の文化や社会が追いやられていた。

イザベラは幌別、白老、室蘭、有珠、礼文華、長万部とたくさんのアイヌ村を訪れて、人々と親しく接した。中でも平取のアイヌ村では首長に招かれ、手厚いもてなしを受けている。詳しく話を聞こうとするイザベラに対し、アイヌたちは自分たちが何かを話すと日本の役人に怒られるのではないかと心配し、首長の年老いた母親にも警戒されたが、最終的には宗教や文化、風習、言葉などについて話を聞いている。それは、首長の息子のケガを手当てしたり、重い気管支炎で苦しむ女性に持参した貴重な薬や牛肉ブイヨンを飲ませて回復させたりしたことで、イザベラ自らが信頼を勝ち取った結果であった。深く感謝され、外国人には見せたことがないというアイヌの神を祀ったお堂にも案内されている。

イザベラにとってアイヌ民族は風呂にも入らない酒好きな未開人ではあったが、正直で礼儀正しい彼らをとても好きになった。敬虔なキリスト教徒だった彼女は、アイヌの人々は異教徒ではあるものの、子どものように素朴なのだから「ぜひ神に救ってもらいたい」と願うまでに至っている。

こうして、イザベラの最初の旅は終わりを告げた。残りは東京滞在と京都・大阪・伊勢巡りをして、12月19日、総計約7ヵ月の日本滞在を終え、帰国の船に乗り込んだ。「Unbeaten Tracks in Japan」には人々の暮らし、風景、建築物、木々や草花などが外国人の視点を通して事細かに描かれており、郷土史、植物学、地質学などの視点からも貴重な文献となっている。

イザベラをめぐる男たち

自由を求めるイザベラの最初の理解者は父だったが、彼女の支えになった男性は、ほかに2人いた。

そのうちの一人は1872年、41歳の時に出会っている。ハワイでの旅でイザベラは馬にまたがって火山の頂上まで登ったり、現地の住民にもあまり知られていないような遠隔地を訪ねて原住民と生活を共にしたりして、自然に深く接する面白さを知り、自らの精神も解放した。そして、この後に続けて向かった米国コロラド州のロッキー山脈国立公園で大恋愛をすることになる。相手は武骨な山岳ガイドで、顔にはグリズリー熊に襲われた大きな傷があった。荒々しい性格の反面、夜は自作の詩を読むような繊細さもあり、イザベラはギャップ萌えしたのかもしれない。2人で標高4345メートルのロングスピークに登って夜空に輝く月を眺めた頃が恋のピークだったが、結局、彼から結婚を申し込まれた時点で「まともな女性なら結婚しない男」とふと我に返り、泣く泣く別れた。この恋については、著書「A Lady's Life in the Rocky Mountains」(1879年)に詳しく書かれている。

それに比べて、もう一人は堅実な男性だった。1880年、日本の旅行記録を無事に出版したイザベラを大きな悲しみが襲う。仲の良かった妹ヘンリエッタが病気で亡くなったのだ。心にぽっかり穴の空いた傷心のイザベラは1年後、妹の担当医だった10歳下の医者と結婚する。ちなみに、結婚の条件は「旅へ出たくなったらいつでも出かけて良い」だった。おそらく医師として、イザベラの体調は精神的に枯渇した時に悪化することに気づいていたのだろう。時代背景を考えてもかなり理解のある夫だったが、結婚から5年後に44歳の若さで病死してしまった。

最後まで好きな道を

夫の死をきっかけに旅の目的を考え直したイザベラは、医療を学び、今度は宣教師として出かけていくようになった。牧師だった父の足跡を辿ったとも言えよう。この時点で既に還暦に近い年齢であったが、インドを皮切りにアジアや中東などへ精力的に足を延ばしている。亡くなる数ヵ月前に訪れた最後の旅先はモロッコで、ハシゴを使わなければ馬に乗れないほど身体は弱っていたものの、そこでも先住民のベルベル人たちに混ざって過ごした。

73歳の誕生日が目前に迫った1904年10月7日、イザベラはエディンバラの自宅で息を引き取る。中国への再旅行を計画している最中だった。亡くなる直前までひたすらに好きなことを全うしたイザベラの人生であった。

イザベラの通訳兼ガイドを務めた伊藤鶴吉

▲佐々大河 「ふしぎの国のバード」(KADOKAWA)は、現在も連載中。コミック本は8巻まで刊行。

日本奥地旅行の成功には、通訳を務めた弱冠18歳・伊藤鶴吉の存在も大きい。通訳の募集には多数の応募があり、なかでも伊藤は推薦状も持たずにやって来た。身長147センチの小男、がに股、頑丈そう。最初は彼を信用できず気に入らなかったイザベラだったが、「私の英語が彼にはわかり、私も彼の英語がわかる」という理由で採用した。

伊藤は日本に関するあらゆる質問に答え、乗り物や宿の手配、食料の調達、ベッドの組み立て、貴重品の管理など、お世話係としても大活躍。親子ほどの年の差があるイザベラに対しては遠慮のない物言いで、イザベラも憂さ晴らしに「宿屋と結託してピンハネしている」「信心深くもないのに寺で熱心に祈っている」などと悪口を日記に書き込んだ。しかし、イザベラが伊藤を頼りにしていたのも確かで、別れの朝にはお互いに別れを惜しんだという。

ちなみに現在、イザベラの日本旅行記を原作とした漫画が月刊誌「ハルタ」で連載中。イザベラと伊藤が同年代になっていたり、伊藤が「イケメン」設定になっていたりと、フィクションを交えて描かれているものの、彼女の道中をわかりやすく知ることができる。

週刊ジャーニー No.1219(2021年12月16日)掲載