型破りなヴィクトリアン淑女 明治初期の日本を旅した旅行家イザベラ・バード 前編

■「隔離」や「PCR検査」という言葉も知らず、なんの気兼ねもなく気楽に海外へ行けたのは今や昔。旅の喜びを知ってしまった身には、昨年からの出口の見えない混乱はストレスでしかないが、乗り越えられない困難はないはず。こんな時には、まだ女性の活動への制約が厳しかった19世紀のヴィクトリア朝時代に、英国を飛び出して旅を謳歌した女性旅行家から元気をもらおう! 我々の自由の日々も、もうすぐ戻ってくると信じて…。

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代・本誌編集部

イザベラ・バード 何がすごいのか

満州の旅行中に、民族衣装を身にまとったイザベラ。

イザベラ・ルーシー・バードは、ヴィクトリア朝時代に旅行・紀行作家として活躍した女性だ。1878年(明治11年)には、なんと日本にも訪れており、東京から北海道(蝦夷地)までを踏破している。

1831年10月15日にヨークシャーで生まれ、1904年10月7日にスコットランドのエディンバラで亡くなったので、ヴィクトリア女王が英国を統治していた1837~1901年の期間と、ほぼかぶる。この時代の女性には、外で働く夫を支えながら子どもをしっかりと育てる「家庭の天使」としての役割が期待されていたことを思うと、家庭に留まるどころか母国を飛び出して単身で旅を重ねていた彼女は、かなり珍しい存在だっただろう。

72歳で生涯を終えるまでにイザベラが訪ねた国や地域は、カナダ・米国(当時23歳)、オーストラリア・ニュージーランド・ハワイ・ロッキー山脈(41歳)、日本・香港・中国・韓国・ベトナム・マレー半島とシンガポール(47歳)、インド・チベット・ペルシャ・中東クルディスタン・トルコ(57歳)、再び中国・韓国(66歳)、そして最後の遠出となったモロッコ(71歳)などなど、実に、南米大陸以外の大陸を網羅している。しかも呑気なラグジュアリー旅行ではなく、当時としては「冒険」や「探検」ともいえる、ときには命の危険も伴う旅。そして英国に戻ってからは必ず、詳細に旅の記録をまとめて、紀行本として出版していた。「女性」という冠がなくとも、名実ともに旅行家としてトップクラスに属する人物だったのだ。

1893年には、旅行紀行本の出版などの功績が認められてヴィクトリア女王に謁見が許され、英国地理学会では女性として初めて特別会員に選出されている。

まだ誰も見たことのない 日本を見たい!

米軍人マシュー・ペリーの下田来航で日本の鎖国が終わったのが、幕末の1854年(安政1年)、明治政府が外交方針として改めて開国を決定したのが1869年(明治2年)。開国から1899年までは外国人は日本に入国はできたものの、訪日外国人の誘致を国策の一環とするようになったのは明治後期からだ。

ゆえに、イザベラのように明治初期に日本に実際に足を踏み入れ、その光景を目にする機会を得られた外国人はごくわずか。しかも当時は、外国人の行動や国内の移動には制約があった。「(外国人が)居住し商売をすることができるのは、横浜、長崎、東京、神戸、大阪、函館、新潟に限られて」いて、また「『開港場』から半径25マイル(約40キロ)を超えたら『通行証』すなわち政府の発行する正式な許可なしに旅行することはできない。しかもこの通行証は期間と道筋を指定しないと下りない」と、イザベラは著書に書き記している(※)。

しかし、こうした制限があったことで、逆にイザベラの好奇心はかきたてられたのかもしれない。女ひとりでの日本行きには周囲の反対の声もかなり大きかったが、まだ誰も見たことのない開国後の「リアルな日本」の姿を見るという固い決意、それを行動に移す強さをイザベラは持っていた。

本文中の※は、イザベラ・バードの著作『Unbeaten Tracks in Japan』の翻訳本、『イザベラ・バードの日本紀行(時岡敬子訳・講談社)』からの抜粋)

病弱娘 旅行の楽しさに目覚める

イザベラは、英国国教会の聖職者の長女として誕生した。父親は元々は弁護士だったが、赴任先のインドで最初の妻と長男を病気で亡くし、失意のうちに英国へ帰国。キリスト教に生きる光を見出して、2年後に38歳で聖職の道に入った。牧師補として最初に赴任したのがヨークシャーで、そこで2番目の妻ドーラと出会い、2人は結婚。やがてイザベラを授かっている。次に転任したメイデンヘッドでは息子が生まれたものの、すぐに死亡。そして、彼が体調を崩したのを機に、今度はチェシャーの田舎の村タッテンホールへ転任となり、そこでイザベラの妹ヘンリエッタが生まれた。

緑に囲まれたタッテンホールで、イザベラとヘンリエッタ姉妹は、庭や牧草地を駆け回ってのびのびと育ったが、なぜかイザベラは幼い頃からずっと身体が弱く、両親を心配させた。18歳の時には背骨の近くに腫瘍ができ、手術で除去したものの、その後遺症で慢性的な背中の痛みにも悩まされるようになった。イザベラの苦痛を和らげるべく、一家は毎年夏には涼やかなスコットランドで過ごすようになるのだが、この家族旅行でイザベラは「旅の楽しさ」を知ることとなった。

「どこかへ船旅に出て転地療養を」と医者に強く勧められた彼女は、1854年、23歳の時に結婚式のためにカナダに行くという従姉妹に同行することを決めた。おそらく医者は、のんびりした保養の旅を念頭に置いて助言したのだろうが、異国の文化に触れる喜びに魅了されたイザベラはカナダと米国を思う存分に漫遊。計7ヵ月もの長旅をがっつりと楽しんでから英国へ戻っている。意外なことに環境の変化が効いたのか、出発した時よりもずっと元気になり、初めての紀行本となる『The English Woman in America』(1856年)を書き上げた。そうして、女性旅行作家の卵が誕生したのである。

イザベラの能力を培った父

さて、実はイザベラがカナダ行きを決めた時、父は彼女に「なるべく長い間、外の世界を見てくるように」と、100ポンド(現在の約1万2000ポンド相当)を旅費として渡している。当時の牧師家庭としては太っ腹な額だが、「自由に生きてほしい」という期待の現れでもあったのだろう。とても教育熱心な父親だったようだ。

タッテンホールでは牧師となっていた父は、イザベラを自分の馬に一緒に乗せて担当教区内を回るようになった。イザベラの担当医からのアドバイスがきっかけだったが、おかげで、イザベラは幼少期から乗馬を学ぶ機会を得て、1年後には父と並んで自分の馬を歩かせるようになっている。小さな娘が将来、異国の辺境の地で牛や馬、ラバ、ヤクなど、さまざまな動物に乗ることになろうとは思いもよらなかっただろうが、イザベラにとって乗馬技術の習得は後年に大きく役立った。

さらに、父との外出でイザベラは、物事を仔細に観察し、それを言葉にする力も培っている。博学の父は、乗馬での外出時に目についたあらゆるものにイザベラの注意を向けさせた。遠くに見える牧草地、野原、道端の植物、作物、農家や酪農場、工場など、それぞれの用途を説明した後、必ずイザベラにさまざまな質問をした。のちにイザベラは、友人から「そんなに正確な観察力をどうやって身に付けたのか?」と聞かれて、「父親が会話の中でたくさんのことを質問してくれたから」と答えている。こんな畑は作物がどうだとか、水車の水量が少ないとか多いとか、出会った動物や教区民について事細かに説明する父との会話の積み重ねの中で、イザベラは距離や空間を測ったり、季節の兆候や人々の働いている様子を記録したり、作物の変化に気づいたり、働く人々の様子から労働の目的などを知ったり…といった能力を自然に身に付けていったのだった。

イザベラの著書には、見たものや体験したことがつぶさに記録されている。しかも、それらは色や形などの視覚的な表現と、長さや高さなど具体的な数字の両方によって支えられており、それが読む人の想像をかきたて、また納得させるのである。

「思い立ったが吉日」 驚くべき行動力

日本の工部省と内務省で、国土測量・地図作成、気象観測、地震観測、建築営繕を指揮したコリン・マクヴェイン(後列中央)とその妻や子どもたち(前列中央)。
© Hideo Izumida

イザベラが日本旅行を思い立ったきっかけは、スコットランド出身の学者で英国政府の要職を務めていたジョン・フランシス・キャンベルが出版した一冊の本だった。『My Circular Notes(私の周遊記)』(1876年)と題された本は、彼が日本を含む世界一周の旅の記録として出版したもので、イザベラはそれを読んで大いに刺激を受けたのだ。

1873年にロッキー山脈での旅を終えてから3年が過ぎており、そろそろ旅心が騒いでいたのであろう。明治政府のお雇い外国人技術者だったコリン・マクヴェインとその妻が、7年近い職務を終えて故郷スコットランドのエディンバラへ戻っていると耳にすると、日本の情報を求めてすぐさまマクヴェイン夫妻のもとへ向かった。

夫妻は40代半ばを過ぎた小柄な英国女性が、ひとりで日本行きを望んでいると知ってさぞ驚いたことだろうが、快く彼女に協力し、日本でイザベラが頼れる知人や友人を紹介したという。その甲斐があって、幕末から明治初期まで18年間も駐日英国公使を務めたハリー・パークスや、1862年から累計25年間も日本に滞在したアーネスト・サトウなど、日本に知己のある英国の外交官らの協力をとりつけることにも成功。ついに1878年(明治11年)4月、横浜を目指してエディンバラから船で旅立っていった。これから1ヵ月半におよぶ船旅を経てたどり着く未踏の地を思い、イザベラの胸は大きく高鳴っていた。

イザベラが日本の旅行をまとめた本

『Unbeaten Tracks in Japan』 (1880年刊行)

1878年5~12月の日本旅行中に、イザベラが英国の妹へ宛てて書いた手紙を中心にまとめた紀行本。タイトルの通り、当時はまだ外国人には「未踏(unbeaten)」だった東北地方の山間部や北海道のアイヌ村などへ、日本人の通訳ひとりを伴っただけで向かった。英国人らしいユーモアを交えた苦労話や、鋭い観察眼でとらえた当時の人々の様子や風景が興味深い。

1880年に全2巻で出版され、その後に要約版が1巻で再出版された。日本語では「日本奥地紀行」「日本の未踏の地」など、異なるタイトルで翻訳本が複数刊行されている。

週刊ジャーニー No.1218(2021年12月9日)掲載