面白過ぎる英国史 〈新説〉ヘンリー8世、2番目の妻アン・ブリンは誰に殺されたのか 【前編】
6人の妻をめとったヘンリー8世(Henry VIII 1491~1547)と、2番目の王妃となったアン・ブリン(Anne Boleyn 1501頃~1536)。

■アン・ブリンはイングランドが生んだ怪物ヘンリー8世2番目の妻だ。男児を産めないまま高齢となった最初の妻を追い出し、代わりに王妃の座に就いた。ところが自身もまた男児に恵まれず、戴冠からわずか3年後に処刑された。アン・ブリンは国民に嫌われ、宮廷内でも敵だらけだった。そのため死後も「指が6本あった」「断頭後もしばらく喋っていた」等々、アン・ブリンを「希代の悪女」に貶めようとする逸話がいくつも後付けされた。しかし彼女は巷間で言われるほどの悪女だったのだろうか。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

アン・ブリンは待望の男児を流産したことで夫の怒りを買った上に、やたらと政治に口出しすることで王から疎まれ、王に愛人ができたこともあって邪魔となり、処分されたとする説が有力だ。1536年1月7日に最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンが死去すると、ヘンリーとアンは「邪魔者は消えた」と祝杯をあげ、踊った。1月29日、アンは待望の男児を流産した。そしてアンはそのわずか3ヵ月半後の5月19日に処刑される。

3ヵ月半。前妻の死に祝杯を挙げ、手を取って踊った夫婦の関係が完全崩壊するだけでなく、妻を処刑するほど憎むに至るにはあまりにも時間が短い。筆者はどうしてもこの3ヵ月半が心に引っ掛かり続けていた。そこでこの時、2人の間に何が起こったのかを知るべくロックダウン中に資料と格闘した。その結果、アン・ブリンを死に追いやった人物の姿がはっきりと浮かび上がってきた。

アンはこの人物にはめられ、殺された。エリザベス1世の母、アン・ブリン最期の3ヵ月を明らかにし、死後に貼られた「希代の悪女」という不名誉なレッテルを剥がす作業に挑んでみることにした。

運命のフランス行き

国民にも愛された、ヘンリー8世の最初の妻、キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon 1485~1536)。

アン・ブリンが処刑されるまでの約35年の人生を丁寧に語るとどうやっても与えられたページに納まらない。そのため今回はアン・ブリン最後の流産から処刑までの約3ヵ月に重点を置いて語りたい。アンがヘンリーと結婚するまでの経緯に関しては先に掲載した『ヘンリー8世どろ沼離婚劇』でご確認頂けたらと思う。

アン・ブリンは1501年頃に生まれた。ブリン家は元々ノーフォークの自営農家だったが曾祖父がロンドン市長となり、国王からナイトの称号を得た。アンの父トマスは第2代ノーフォーク公の長女エリザベス・ハワードと結婚。大貴族と姻戚関係となったことで宮廷への出仕が始まった。


フランソワ1世(Francis I 1494~1547)。

アンは12歳の頃、フランス駐在大使を務めていた父トマスの計らいで神聖ローマ帝国領ネーデルランドの提督の元に出仕するため大陸へと渡った。一方、関係強化のためヘンリー8世は妹メアリー・チューダーをフランスのルイ12世に嫁がせた。この際、アンの姉であるメアリーが侍女として渡仏。アンも合流した。結婚からわずか3ヵ月で高齢のルイ12世が死んだ。未亡人となったメアリー・チューダーはイングランドに帰国したが、アンはその後7年間フランスに残り、ルイ12世の娘クロードの侍女として仕えた。ルイ12世の死去で縁戚のフランソワ1世が即位した。アンが仕えたクロードはその前年、19歳だったフランソワと結婚し、夫の即位によって王妃となった。

フランス仕込みの貴婦人

© Krzysztof Golik

フランソワ1世とは後に「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれるほど文芸やアートを庇護した人物で、ダ・ビンチなどの芸術家を手厚く保護した。居城となったブロワ城=写真上=はイングランドの野暮ったい宮殿や城塞と異なり、当時ヨーロッパ随一と言われたルネサンス様式の名城だった。

フランソワ1世の姉で文人でもあったマルグリット・ド・ナヴァル(Marguerite de Navarre 1492~1549)。

アンはここで歌や踊り、洗練されたファッション感覚、そして宮廷での恋愛術等を身に着けていく。アンが仕えたクロード王妃は政治や外交に興味を示さず、大衆の前に出ることも嫌った。そのためフランソワ1世の母、ルイーズ・ド・サヴォア、そしてフランソワの実姉、マルグリット・ド・ナヴァルがクロードに代わって若い国王を支えた。この当時のフランスはフランソワ1世と母、姉の3人が権力を掌握し「聖なる三位一体」と国民から称えられた。特に姉のマルグリットは高い知性を備え、作家としての豊かな才能も授かっていた。カリスマ性に富んだマルグリットは広く国民に尊敬された。枢密院にも頻繁に顔を出し、国政の意思決定にも関与した。


フランソワ1世の母、ルイーズ・ド・サヴォア(Louise of Savoy 1476~1531)。

そしてもう一つ。フランス滞在中のアンが巨大な影響を受ける出来事があった。宗教改革だ。大陸に渡る前のアンは熱心なカトリック教徒だった。ところがルターから始まった宗教改革の嵐は周辺国にも飛び火し、フランスではカルヴァン派が一大勢力となっていた。ルター派もカルヴァン派もいずれも教会ではなく聖書を重んじる点で共通し、福音派と呼ばれた。アンは密かに福音派の書物を読み、感化されていった。

1522年、アンは父トマスに呼び戻され、イングランドに戻ることになった。英仏海峡を渡るアン。その姿は誰の目にもフランス貴婦人と映った。アンはフランス国王の母と姉が政治や外交面で存在感を示し、それぞれが重要な役割を果たしている姿に感銘を受けていた。そして密かにカトリックから福音派へ。この2点が後にアンの運命を大きく左右することになる。

帰国したアンは父の計らいでヘンリー8世の妻、キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として宮廷入りした。キャサリンは少なくとも7回妊娠した。しかしほとんどが死産か夭逝し、成人したのはのちにメアリー1世となる女児だけ。そんな中キャサリンは妊娠が望めない年齢に差し掛かっていた。ヘンリー8世は継承者に男児を渇望した。なぜか。

チューダー朝はランカスター家の傍流だった。そのため本家の中にこれを面白く思わない者が多かった。ヘンリー8世は女性が君主ではこの難局は乗り切れない、女王の配偶者に王室を乗っ取られるかもしれないという恐怖に常に囚われていた。そのためヘンリーは最期まで男児にこだわり続けた。

アン・ブリン王妃誕生

バチカンとの折衝に失敗し、失脚したトマス・ウルジー(Thomas Wolsey 1473~1530)。

そんな時、ヘンリー8世の前にフランス宮廷の香りをプンプンと漂わせたアン・ブリンが現れた。色浅黒くやせ型で、ダークな瞳と髪を持つアンは決してヘンリーのタイプではなかった。しかし最新のフレンチドレスに身を包んでエレガントに舞い、フランス宮廷仕込みのウィットに富んだ話術を操るアンにヘンリーは惹かれた。すぐに恋文と共にジュエリーなどのギフトを届け始めたが、アンはこれらをことごとく突き返した。

アンは「愛人はイヤ。王妃にするのなら立派な男の子を産んで差し上げます」とヘンリーを巧みに翻弄した。お預けを食わされたヘンリーはアンに一層のめり込んだ。そしてキャサリンを棄てる決意をした。ところがカトリックは離婚を許さない。ヘンリーはローマ教皇への説得工作を肉屋の息子で枢機卿のトマス・ウルジーに丸投げした。ところがウルジーは教皇の説得に失敗した。アンはウルジーを罵倒した。ヘンリーはウルジーの役職を解き、財産を没収して追放した。さらに翌年、処刑ありきの裁判に召喚したが、ウルジーはヨークからロンドンに向かう道半ばに病死した。自殺したとする説もある。

イングランドの宗教改革を推し進めたトマス・クロムウェル(Thomas Cromwell 1485~1540)。

ヘンリー8世はウルジーの部下であった鍛冶屋の息子トマス・クロムウェルを秘書に据え、打開策を練らせた。ヘンリーは大貴族の介入を異常なまでに警戒していた。そのため肉屋や鍛冶屋といった下層階級出身の人材をそばに置いた。必然的にウルジーやクロムウェルは貴族たちから卑しまれた上に敵視された。クロムウェルはルター派の人間であり、福音派という共通点からアンと意見が合致した。アンらは禁書とされていた福音派の書籍を密かに輸入し、それをヘンリーに読みきかせた。そこには「神の下で信者は平等。神と信者を繋ぐものは聖書」とあり、神の代理人という教皇の存在を否定する一文があった。ヘンリーはこの部分だけを切り取って都合よく解釈した。

アンが妊娠した。出産前にアンと結婚しなければ生まれて来る子は愛人の子とされ、王位継承権が得られない。ヘンリーは急ぎフランスのフランソワ1世と会い、バックアップの約束を取り付けた。そしてローマ教皇の説得を諦め、キャサリンとの婚姻を無効とし、アンとの結婚を強行した。ヘンリーはローマ教皇から破門された。そのためヘンリーは自らをトップに据えるイングランド国教会の創立へと突き進む。

1533年6月1日、ウエストミンスター寺院でアンの戴冠式が大々的に行われた。国民の反応は冷ややかだった。中には「売春婦が」とツバを吐く者もいた。そしてこの日から約3年後、アンは処刑台へと上ることになる。一体何があったのか。いよいよ次週、アン・ブリン謀殺劇の核心に迫る。

――後編に続く

週刊ジャーニー No.1186(2021年4月29日)掲載