【征くシリーズ】Holiday

2009年11月19日 No.601

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リーズ城を征く

The Loveliest Castle in the World

リーズ城を征く

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

世界で最も美しい城

1520年5月21日、きらびやかな装束に身を包んだイングランド国王ヘンリー8世は約4000人の従者をしたがえてグリニッジを出発した。目的地はフランスのカレー近郊の大平原であり、そこでフランス国王フランソワ一世との会見の場が持たれていた。歴史上「金襴の陣」と呼ばれる出来事である。王妃キャサリンも千人以上の行列を従えて後に続き、このふたつの大行列は、ドーバー海峡への途上にあるリーズ城で一時歩を休めた。
城は、ヘンリー8世が王妃キャサリンのため、当時の強国フランスのどの城にも引けをとらないよう大規模な拡張工事を施しており、5000人近くの兵士や従者が城周辺の敷地を埋め尽くす光景は圧巻だったに違いない。イングランドがいかに壮大で洗練されているかをフランスに見せつけるためにはどうすべきか――、湖面に映るリーズ城を睨みながらヘンリー8世が考えたかどうかは定かでないが、世紀の一瞬ともいえる会見の足がかりとしてリーズ城は最適の場所といえた。
英仏の親睦を深めるという名目の「金襴の陣」であったが、実際にはフランス侵攻を目論んでいたヘンリー8世にとって、ドーバー海峡に近いリーズ城は対フランスへの前線の一部といえ、攻撃、防衛の点からも十分な条件を備えた重要な軍拠点であった。そのためか、ヘンリー8世がリーズ城を居住とすることはなく、フランス侵攻が失敗に終わり、大陸で唯一のイングランド領であったカレーを失うと、その存在価値も一気に下がり、王はこれを側近に譲り渡している。こうして、300年にわたって王族の手を渡ってきた城の歴史にはピリオドが打たれた。
リーズ城の起源は9世紀に遡り、もともとはノルマン征服以前のサクソン人が所有していたものだった。1090年、ウィリアム2世がヘイスティングズの戦いでの功績を称え、従弟であるノルマン貴族に与え、12世紀になって石造りに建てかえられた。王族の所有となったのは13世紀のエドワード1世の治世で、王妃エレナーに献上され、王宮となった。その後、エドワード1世の後妻のマーガレット王妃に寡婦産(未亡人が相続する夫の財産)として譲渡されてからは、未亡人となった王妃が所有権を持つという慣習が始まり、エドワード2世のイザベラ王妃、リチャード2世のアン・オブ・ボヘミア王妃、ヘンリー4世のジョーン・オブ・ナヴァール王妃、ヘンリー五世のキャサリン・オブ・ヴァロア王妃などが所有および居住したため、「貴婦人の館」の異名を持つ。これら王妃のうち3人がフランスの王女だったため、フランス王室らしい室内装飾が施されるなど、中世を通して優雅さと気品に満ちた城だったことが伝えられている。
「ヨーロッパの名城はそれぞれに壮麗で美しい。テムズに映えるウィンザー城、川辺に建つウォーリック城やラドロウ城、海辺のコンウェイ城やカナーフォン城、ロワールのアンボワーズ城、水際のエグ・モルト城、カルカソンヌ城、クーシー城、ファレーズ城、ガイヤール城。どれも美しく、賞賛に値する。しかし、シダが黄金色に染まり、かすかに青い霧が木々にたなびく秋の宵、湖水に抱かれて建つリーズ城の美しさにはかなわない。その眺めはこの世で最も美しい」
かつて古城研究家のコンウェイ卿(1679―1732年)はリーズ城をこのように描写した。これが所以となり、今もリーズ城は「the loveliest castle in the world世界で最も美しい城」という惹句で語られている。実際リーズ城を訪れると、世界一と言い切ってしまうのは大袈裟な感もあるのだが、ヘンリー8世が行った大改築後のリーズ城は、確かにヨーロッパ随一の名城であったに違いない。ただ、その当時の名城の大部分は失われる運命をたどった。

リーズ城で開催される会議やイベントの参加者のために提供される寝室。21室あり、写真は新城にある「胡桃(クルミ)の部屋」(写真左)
城内最大の「ヘンリー8世の宴会場」。「金襴の陣」を描いた絵画が掛けられ、ラトーによる漆黒の黒檀の床や見事な彫りの施された天井の張りなど、中世の趣が深い部屋。(写真右)

城を救った莫大な遺産

16世紀に王族の手を離れた後のリーズ城は、20世紀に至るまで貴族階級である城主の手を渡っていくのだが、城には常に維持費と相続費の問題がつきまとっていた。城主の多くは資産家であったものの、その莫大な費用に売却や譲渡を余儀なくされ、その度に城内の資産が売りさばかれることも少なくなかった。
1920年代に入ってからも、リーズ城は重い相続税を理由に売りに出され、買手が2年以上もつかないまま、放置されていた。25年に、米紙『ニューヨーク・ワールド』の発行者、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが下見を行っているものの、住居として堪えうる状態に修復するのに当時の通貨価値で最低約4000ポンド(現14万ポンド=約2000万円強)かかると査定され、やむなく手を引いている。
時代が変われば変わるほど、城の存続は厳しさを増すばかりで、城は、英国中に散在する廃墟の城と同様、ただただ風化していくのを待つばかりに見えた。
そこに救世主のごとく現れたのがオリーヴ・セシリア・パジェット――。後に「ベイリー夫人」としてリーズ城の歴史に欠かせない存在となる人物だ。
オリーヴが初めてリーズ城を訪れたのは1926年。3歳と6歳になる娘2人と、再婚したばかりの夫アーサーと新生活を始めた直後の頃だった。アーサーはリーズ城のあるメイドストン周辺の土地を相続しており、それがオリーヴとリーズ城を引き合わせるきっかけとなった。由緒ある古城を住まいにするというアイディアは、当時のブルジョアのステータス・シンボルでもあり、この夫婦もご多分に漏れず、リーズ城に目をつけていたのである。
リーズ城をひと目見たときからその壮麗さに心奪われていたオリーヴは、26年にリーズ城を18万ポンド(現630万ポンド=約9億5000万円)で購入。城全体の修復には10万ポンド(現350万ポンド=約5億3000万円)が必要と推定されていたが、彼女はその値にいとめをつけなかった。
新聞王ハーストでさえ手を出さなかった曰くつきの物件を若干二十六歳の若妻が射止めることができたのには、彼女の類まれな蓄えによるところが大きい。
オリーヴは、大英帝国一等勲士(GBE)を受勲し、優れた実業家として知られる英国人の父アルメリックと、米国の大財閥ホイットニー家の祖を築いたウィリアム・ホイットニーの令嬢ポーリーンとの間に、1899年アメリカで生を受けた。
アルメリックは81年にアメリカに移住し、ポーリーンの母方の伯父らとともに石炭会社や鉄鋼会社の設立に参加。85年に結婚し、1901年、オリーヴが生まれてまもなく英国に帰国している。もともと裕福な家庭に生まれ、金銭的には何の不自由もなく育ったオリーヴだが、その後も財運の女神に終始守られ、求めずとも豊かな富が流れ込んでくるような一生を送った。
というのもオリーヴは、1916年に母が亡くなった際、とてつもなく莫大な遺産を譲り受けたからだ。この遺産は単に母のものだけでなく、母が亡くなる直前に父方の伯父から譲り受けていた財産も含まれていた。この伯父は世界最大ともいわれる石油会社の創設者で、アメリカの長者番付に常に名を連ねるほどの資産家だった。彼は子供を持たなかったため、姪のポーリーンに財産を託し、その400万ドル(現1億ドル=約94億円)ともいわれる遺産がポーリーンの死により、そっくりそのまま娘のオリーヴとその妹ドロシーに二分されたのだった。
こうして、オリーヴは当時英国で最も富裕な人と知られ、生涯にわたり、労働により生計を立てる必要などなく、あり余る資産のもと悠々自適に過ごした。そして、自分の愛するもののために際限なく、その資産を注ぎ込んだのである。リーズ城の修復とリーズキャッスル財団の設立による城の永久保存――、40年に及ぶそのプロジェクトが、彼女が夢中になれるものであり、生きがいとなったのだ。

1920年代らしいデザインの美しい靴の数々が収納された靴箱(写真左)
ベイリー夫人が少女時代に身につけていたドレス(写真中央上)
ベイリー卿(右)と結婚した日のベイリー夫人。1931年撮影。(写真中央左)
トレードマークとなっていたパイプを手にしたベイリー夫人の肖像画。(写真中央右)
ブーダンがデザインしたベイリー夫人の寝室。鳥好きな彼女のために、随所に鴨や鷹など、中国の赤絵による置物が配されている。ブルーの色調が静謐さを漂わせる。(写真右)

英国のトップサロン

30人程度の食事が可能なダイニングルーム。こちらもブーダンのデザインで、マントルピースの上には夫人が集めた中国製磁器が飾られている。(写真左)
上空から見たリーズ城。堀に囲まれた姿が素晴らしい(写真右)
念願の古城を手にしたオリーヴは、自らの審美眼を試す絶好のチャンスを得て心躍らせたに違いない。自分好みの「マイホーム」になるよう、修復にあたってはさまざまな設計案、改築案を積極的に出したという。
若かりし頃にフランスで教育を受け、フランス文化に精通していた彼女は、当時国際的に活躍していたパリの建築デザイナーであり、室内装飾家のアルマン・アルベール・ラトーArmand-Albert Rateauをこの大修復の監修役に起用する。ラトーはフランスのファッションブランド「ランバン」を設立したジャンヌ・ランバンと親交が深く、ランバンの私邸の装飾や、ランバンが愛娘のために作ったという香水「アルページュ」のボトルデザインでも知られる。1920年代当時、粋で上品な文化の発信地といえば未だパリで、パリのトップデザイナーを起用することは「一流」のしるしでもあったのだ。
こうして、長く放置され幽霊屋敷と化していたリーズ城は、中世に漂わせていたフランスらしい優雅さを蘇らせ、息を吹き返していく。基礎構造から改造され、中世の国王や王妃の居住であったグロリエット(東屋)も補修され、1928年の6月には大方の工事が終了した。オリーヴは娘二人と妹のドロシーと、城での生活をスタートさせ、娘たちはポニーに乗って駆けたり、堀で泳いだりと、ロンドンにある邸宅とは桁違いののびのびとした生活を楽しんだ。
まもなく、エイドリアン・ベイリー卿という3度目の夫とも出逢い、オリーヴは「ベイリー夫人」として語られることになる。
国会議員であったベイリー卿の広い人脈は、リーズ城に多彩な顔ぶれの来賓をもたらし、政界や財界、芸能界からゲストを招いた毎週末のパーティーは、メディアを賑わせるようになった。政治的なことには一切興味のなかったオリーヴだが、一躍サロンの女主人として名を馳せ、リーズ城の名もまた、英国上流階級のトップサロンとして知られるところとなる。
週末の宴に招待された30名ほどの招待客は、金曜の夜か土曜の朝に車かチャーター便で到着し、土曜の朝食後はテニスやゴルフ、スカッシュ、乗馬、堀でのボートやスケートを楽しんだ。午後8時からの晩餐は、たいがい噂話や自慢話などで盛り上がり、食後にはダンスやカードプレー、フィルムショーなどに興じたという。
招待客の中には著名な政治家はもちろんのこと、ウィンザー公爵エドワード王子とウォリス・シンプソンや、ケント公ジョージ、ルーマニア王妃などを含む王族の他、ベイリー夫人が映画ファンだったことから、チャーリー・チャップリンやジェームズ・スチュアート、ロバート・テイラーなどの銀幕のスターたち、歌手や作家などが含まれていた。
ベイリー夫人の、フランス仕込みの身のこなしや趣味の良さがゲストたちに受けたのは言うまでもない。

フランス仕込みのもてなしの達人

城内の中でも最も古い部分のひとつである中庭。
もともと13世紀に作られたものに改装に改装を
重ね、20世紀にラトーにより螺旋階段のある
木骨の仕切りが加えられた。
ウィンストン・チャーチルの義理の娘であり、数々の不倫騒動を起こしたことで名高いパメラ・チャーチル・ハリマンは、ベイリー夫人の娘と同級生であり城の常連客で、後に著作の中でこのように記している。
「その当時の行儀の悪いゲストたちに比べると彼女(ベイリー夫人)はきわめて節度があるタイプで、口が堅く、控えめな方だった。財産家の男性たちに媚びなくとも、彼らをとりこにする媚薬のような特別な力を持っていた」
彼女はことのほかメディアに取り沙汰されることを嫌ったため、彼女の人となりを今に伝える記述や写真は皆無に近いが、出しゃばったところがなく聞き上手な彼女は、会話がとぎれたり、退屈になり始めたりすると適当な話題で盛り上げ、ゲストたちは心地よく寛ぐことができ、彼女を「もてなしの達人」と誉めそやしたという。
一方、美人で身のこなしが優雅だが、同時に人を寄せ付けない威厳のようなものをもち合わせており、時に人を萎縮させるような高圧的な態度にでることもあった。きわめて几帳面で、日記をかかさず付け、サロンに誰が来て何を食べ、いつ帰ったかなどを記録し、出費に関しても細かく従事に報告させていたという。
パーティーの達人でありながら、同時に人見知りが激しく、気難しい面のあるベイリー夫人を公私ともに支えたのが、大蔵政務次官であったデイヴィッド・マージェソンDavid Margessonと、政務秘書官であり、後に情報相や文部大臣も務めるジェフリー・ロイドGeoffrey Lloydであった。ベイリー卿とは、息子を産んでまもなくすれ違い生活となっており、ベイリー夫人は相談事はすべて、この2人に持ちかけ、彼らも家族のように彼女を支えた。
また、この頃からリーズ城の内装を手がけ始めたフランス人室内装飾家のステファン・ブーダンStphane Boudinとも強い信頼で結ばれ、城をより美しくするための「共同作業」は、30年にも及んだ。

リーズ城のシンボル「黒鳥」は、
ベイリー夫人により初めてイングランドに
持ち込まれた。
ブーダンは、豪奢なルイ14世・ルイ16世スタイルなどで知られる家具メーカー、メゾン・ジャンセンのオーナーであり、ホワイト・ハウスの内装を手がけたことで有名な、当時のインテリア界の大御所であった。ともに完璧主義の2人は意気投合し、各々の部屋について、床、壁の色調、家具、細部の装飾などが吟味され、さらに各々の部屋が全体として調和を奏でるよう計算し尽くされた。
美術品の蒐集は以前より趣味としていたが、これ以降は、どの階のどの部屋のどこという明確な配置を念頭に置いた上での「宝探し」が始まったのである。アンティーク家具、絵画、タペストリー、陶磁器など、ヨーロッパ中を探し回り、値段交渉術なども身につけ、ベイリー夫人は「手ごわいバイヤー」としても名を広めていく。

城よ、永遠に

「ソープ・ホールの部屋」と呼ばれる、
重厚感にあふれた部屋。
イタリア大理石製のマントルピースは
ピータバラのソープ・ホールから買い取ったもの。
「メシャム・パイプ」がトレードマークとなるほど喫煙愛好家だったベイリー夫人は、第二次世界大戦後、呼吸器を患い、体力も衰え、城の行く末を懸念し始める。娘や息子など、個人に譲ると莫大な相続税が発生し、維持費もままならないまま、カジノやカントリー・クラブなどに改造される憂き目にあうのは明らかだった。城を半永久的に遺すためにはどうすべきか――、ベイリー夫人はマージェソンとロイドを相談役に最善の方法を模索した。
城では、第二次大戦時にはロイドの管轄のもと、秘密裏に「石油軍事省」が組織され、兵器や安全システム開発の場となり、また軍病院としても機能した。ベイリー夫人はそのように城を、過去の遺産としてただ観賞されるだけでなく、実際に使われ、「活きた場」となるよう次世代に遺したいと思っていた。そのためにはナショナル・トラストに寄贈するのではなく、独自に非営利財団を設立し、開放する必要があった。こうして財団の設立準備が進められ、同時に庭園や鴨池などの整備など、城の一般公開に向けたさらなる改築が行われた。
財団設立を間近に迎えた約20年後の1974年夏、75歳のベイリー夫人は、ロイドに付き添われ南仏への療養に出かけていた。この頃のベイリー夫人は酸素マスクをあてがわれ車椅子で移動という瀕死に近い状態であった。そしてロンドンに戻ってまもない9月9日、リーズ城を訪れることなくして逝ってしまう。
財団設立の遺志はロイドに受け継がれ、彼が「リーズ城財団」の初代会長となり、場を取り計らった。城は財団の所有となり、そのため贈与税を免れ、相続税50万ポンドを支払うのみで済んだ。彼女の遺産400万ポンドと有志からの寄付金140万ポンド、ロンドンの私邸やバハマの別荘、家財などの売却から捻出された40万ポンドも補填され、それらが財団の資金となった。 
同年、早々に庭園が一般公開され、翌年には城も含めた開放がなされた。同時に企業によるセミナーや講演会会場としても頻繁に利用され、「快適な場」としての評判を高めていったリーズ城は、77年、その安全性と機能性が評価され、G7財務相会合の会場として選ばれ、翌年には中東和平会議も行われている。 国際的な医学セミナーや芸術・文化イベント、さらには、世界各国の首脳たちによる会談の場にできれば、というベイリー夫人の夢がかなえられたのである。

16世紀には王妃キャサリンの寝室として、20世紀にはベイリー卿の寝室として
使われていた部屋だが1960年代にベイリー夫人の寝室として改装された。
リーズ城が、類まれな財産家であり、優れた審美眼を備えたベイリー夫人という人物に見初められ、蘇ったことはきわめて幸運なことだったといえよう。これにより、城は王宮だった中世の頃の品格と威厳を恒久的に持ち続けることができたのだ。
歴代の城主の誰よりも長く城に住み、エドワード3世やヘンリー8世に匹敵する国王級の大改築を城に施したベイリー夫人――。メディアに取り上げられ、世間の注目を浴びることを頑なに拒んでいた彼女ではあるが、その誇るべき功績に光をあてずにはいられない。

2400本の櫟(いちい)の木を植えて作られた迷路。中央には全体を一望できる小高い丘があり、出口を見つける手がかりになる。なかなか手ごわいので帰りの時間が迫っているときなどは入らないほうが賢明! 右は地底世界を表現した洞窟。

「Culpeperの庭」は17世紀の城主カルペパー家にちなんで名づけられた。春夏は多様な花々で色づく。(写真上)
子供のためのアスレチック&遊び場。(写真下)

1988年にオープンした鳥舎。鳥をこよなく愛していたベイリー夫人はドイツ、オランダ、ベルギーなどのヨーロッパ諸国はもちろん、南アフリカ、マダガスカル、オーストラリアまで自身で買い付けに出かけ、100種もの鳥を集めた。エリザベス皇太后がわざわざ見に訪れたというオーストラリア産のインコやオウム、カンムリ鶴などが見られる

鴨池には珍鳥を含め、さまざまな水鳥が放し飼いにされて、訪問者の目を楽しませている。(写真上)
ゴルフ場へはプレーする場合以外入らないこと。ボールが飛んでくる可能性もあり危険。 (写真下)

Travel Information

※2017年4月20日現在

リーズ城の地図

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リーズ城の地図
Leeds Castle, Maidstone, Kent ME17 1PL
www.leeds-castle.com

4~9月のオープン時間

城:午前10時30分~午後5時30分(入場は午後5時まで)
庭園:午前10時~午後6時(入場は午後4時30分まで)

10~3月のオープン時間

城:午前10時30分~午後4時(入場は午後3時30分まで)
庭園:午前10時~午後5時(入場は午後3時まで)

チケット

大人 24.90ポンド/子供(4~15歳) 16.90ポンド

アクセス

電車:ロンドン・ヴィクトリア駅からAshford方面行きでBearsted駅下車。所要1時間。駅からはシャトル・バスあり(4~9月のみ)
車:ロンドンからは所要約1時間、M20でジャンクション8下車

■取材協力
Visit Guernsey(www.visitguernsey.com
Aurigny Air Services (www.aurigny.com