
■ 第67話 ■島原の乱終わって鎖国
▼1637年に勃発した島原の乱って何? 何となく天草四郎率いるキリシタン系の農民が起こした一揆、みたいなイメージがあるけれど、実際はかなりヤバイ大戦争だった。もともとは松倉勝家領の島原藩(長崎)と寺沢堅高領、唐津藩の飛び地、天草諸島(熊本)で、飢饉で米がとれないというのにおかまいなしの過酷な年貢取り立てや、激烈なキリシタン弾圧などが重なり、怒った領民が両藩に対して起こした反乱だった。たかが百姓の鎮圧に幕府は十数万の兵を送り込んだ。なんで?
▼島原と天草には共通点があった。天草はかつて小西行長というキリシタン大名の領地だった。関ケ原では西軍側で戦って負け、処刑された。天草も有馬晴信というキリシタン大名の領地だったがスキャンダルで領地を追われ、その後処刑された。替わって領地に入って来たのが先の松倉勝家と寺沢堅高という絵にかいたような暴君たちだった。島原の乱は農民漁民、手工業や商業まで、町民全体が立ち上がった一揆だが、実際には有馬家や小西家に仕えていたキリシタンの浪人が多かった。中には脅されてキリスト教徒にされた人も多かったが、今度は反対にキリスト教を棄てろと脅される。その時の情勢次第で振り回され続けた領民たちが気の毒でならない。
▼一揆軍は島原半島の原城に立て籠った。その数3万7000と言われる。幕府軍は原城を包囲して持久戦に持ち込み、食料が尽きるのを待った。密かに城を出て海岸線で食料を探していた者を殺害し、胃の中を調べると海藻しか入っていなかったという。そのため幕府軍は城内の食料が底をつきかけていることを知った。

▼キリシタンの多い一揆軍はポルトガル海軍が助けに来てくれると最後まで希望を抱いていたという。しかし来なかった。ポルトガルが反幕府軍の加担をしたとなれば戦後、幕府と衝突するのは不可避。宣教師らはキリスト教徒たちを見殺しにした。ところがそこに1隻の外国船がやって来た。籠城中のサムライたちは「ポルトガルが援軍に来たぞー」と手を打って喜んだ。ところが次の瞬間、船に積まれた砲が原城に向けてズッコンバッコン火を噴いた。飛んで来る砲弾を避けながらサムライたちが目をこらして船を見ると、舳先にはオランダの国旗がはためいていた。幕府がオランダに依頼したものだった。内戦に外国の力を借りるなんて、幕府も酷い。それにしてもキリスト教徒がキリスト教徒に大砲ぶっ放すってどゆこと? オランダはプロテスタント。ポルトガルはカトリック。異教徒は人にあらず。ヨーロッパの血で血を洗う宗教抗争が九州にも持ち込まれた。城の中にいたキリシタンサムライたちも「なんだかなー」と嘆きながら死んでいったことだろう。
▼最後は幕府軍が総攻撃を仕掛け、籠城していた3万7000人はほぼ全員が根絶やしにされた。ほんの一握り、逃げ延びた人たちが離島に逃れて隠れキリシタンとなった。幕府は未だに宣教師を送り込んで来るポルトガルやスペインを危険視。交易は「布教しません」と誓ったオランダに乗り換えた上で鎖国に踏み切った。ポルトガルもスペインもオランダも日本もみんなズルい。もちろんイングランドはずば抜けてズルいんだけどこの時はまだ後発過ぎて、日本にズルさを発揮できなかった。ザビエルが来てから90年。ようやく日本はポルトガルとスペインを日本から駆逐した。エガッタエガッタ。小躍りしながら次号に続く。チャンネルはそのままだぜ。
週刊ジャーニー No.1187(2021年5月6日)掲載
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