gudaguda_title.jpg

■ 第39話 ■ リンカーンはそんな偉くない!?

▼1853年、浦賀に黒船やって来て図々しくも幕府に開国を迫った。日本は翌年、日米和親条約を結び、ここに215年続いた日本の鎖国は終わった。同時にこれ以降、幕末の動乱が始まり、江戸幕府は崩壊へと向かう。この時、倒幕側についたのがイギリスであり、幕府側をバックアップしたのはフランスだった。あれ、先陣切ったアメリカはどこ行った?

▼大老井伊直弼が1860年3月、桜田門外で暗殺された。日本の一大事だった。大老って言うからじいさんかと思ったら満44歳だった。同年11月、アメリカでは共和党のリンカーンが大統領に選出された。アメリカの一大事が幕を開けた。何が一大事だったのか。リンカーンは奴隷制度の拡大反対を唱えていた。この時、米南部の11州は綿花プランテーションで成り立っていて奴隷制度を推進していた。ところが北部の23州では産業革命も成熟し、商工業が基幹産業となっていた。米国産の工業機械を守るため、北部では保護貿易が叫ばれていた。ところがプランテーションで収穫される綿花はほとんどがイギリスへの輸出用であったため南部では自由貿易が求められた。それだけなら良かったが、アメリカが西海岸に向かって開拓を進めることで新しく出来た州が北部側の自由州となるか、南部側の奴隷州となるかで激突した。奴隷制度拡大に反対するリンカーンが大統領に選出されたことで南部11州が連邦政府を脱退し、合衆国(USA)に対抗してアメリカ連合国(CSA)を作った。1861年、ついに2国は激突した。南北戦争の始まりだ。

▼安価な綿糸に頼るイギリスは初め、南部を支持。フランスも同調した。戦争初期の段階では少数派の南軍が優勢だった。当初リンカーンが唱えていたのは新しく出来た州に奴隷制度が拡大することに反対するという立場で奴隷制度自体を否定してはいなかった。ところが奴隷制度を批判的に描いた「アンクルトムの小屋」がベストセラーとなり北部で奴隷制反対の声が高まるとこれに乗じて戦略を変更。奴隷解放路線に舵を切り、国際世論に訴えた。

リンカーンですけど、何か?

▼1963年1月1日、リンカーンは奴隷解放を宣言。英仏は「南部を支持すんの、やばくね?」と寝返った。リンカーンの狙いは的中した。なんか、みんなズルい。同年、南北戦争最大の激戦地となったゲティスバーグで北軍が勝利を収めると、同地を訪れたリンカーンはかの有名な「人民の~、人民による~」演説を行った。これ以降形勢は逆転し、南北戦争は開始から4年後の1865年に北軍の勝利で終結、合衆国が分裂する危機は回避された。戦死者は両軍あわせて62万人。これは第2次世界大戦での死者のほぼ2倍という。そのリンカーンも南北戦争終結直後、凶弾に斃れ、暗殺された最初の米大統領となった。戦争が終わって不要となった大量の銃火器は日本にも運ばれ、戊辰戦争や西南の役で使用された。世界史と日本史は深く繋がっている。

▼イギリスが奴隷制度を禁じたのは砂糖商人ら奴隷農業チームと新興の商工業連合チームのマウントの取り合いが原因だった。アメリカの奴隷制度廃止も北の商工業チームと南の奴隷農業チームの勢力争いから生まれた。決して純粋に奴隷のことを思ってのことではなく政治利用だった。こうして大国による奴隷制度は消滅に向かったが、黒人への差別はそのまま残り、現在に繋がっている。これで初夏に始めた奴隷のお話にようやくおさらばできるぜ。でも、チャンネルはそのままだぜ。

週刊ジャーニー No.1159(2020年10月15日)掲載

他のグダグダ雑記帳を読む