バイロンの娘エイダ・ラヴレス

結婚記念に描かれた20歳のエイダ

米国防総省が使用するコンピューターのプログラミング言語「エイダ」にその名を残すエイダ・ラヴレス(Augusta Ada King, Countess of Lovelace)は、19世紀に活躍したロマン派の詩人バイロンの娘だ。
科学が著しい発展を遂げた時代に、愛情を満足に受けることが叶わず、父親ゆずりの芸術性と母親ゆずりの数学の才能に引き裂かれたエイダ。
今回は、「世界初のプログラマー」と呼ばれるようになったエイダの苦悶の生涯をたどる。

●サバイバー●取材・執筆/ 本誌編集部
【参考文献】ベンジャミン・ウリー 著、野島秀勝・門田守 訳『科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘』法政大学出版局、別冊歴史読本『英王国恋物語』新人物往来社 ほか

父との20年越しの初対面

1835年12月、サリー県にある長閑な村オッカム。村の高台に建つイタリア様式の邸宅の大広間は、奇妙な静けさに包まれていた。時折、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音が、やけに大きく耳に響く。
暖炉の前には、凪いだ水面を思わせるような静かな表情でたたずむ、一人の若い女性の姿がある。本当に何も感じていないのか、それとも荒れ狂う激情を心の奥底に押し隠しているのか…。隣に寄り添う夫と、彼女の『監視』役を任されている医者は、緊張した面持ちでその様子をうかがっていた。女性の視線の先にあるのは、布で覆われた一枚の絵。暖炉の上に飾られたその絵は、彼女の母親から贈られた20歳の誕生日祝いとクリスマス・プレゼントを兼ねた品で、先ほど邸宅に届けられたばかりだった。
彼女にとって、この絵との対面は待ちに待った瞬間だった。レスターシャーにある幼少期を過ごした屋敷の暖炉の上に飾られていたが、分厚い布で覆い隠されており、一度も実際に見たことはない。20年の歳月を経て、いま初めてベールが剥がされようとしていたのである。彼女は己の目に「彼」が映し出されたとき、一体どのような感情に襲われるのか、自分でも想像できなかった――。
この女性の名前は、のちのラヴレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング(通称エイダ・ラヴレス、英語読みではラヴレイスとなる)。そして秘されてきた絵は、生後5週間で別れたエイダの父親、類まれなる詩才と数多の女性たちとの恋で名を馳せた詩人バイロンの肖像画であった。放蕩者だった父親の血を一滴も残さずに抜き取り、理性的で合理的な人間となるよう、母親により厳格に教育・管理されてきたエイダ。その苦闘の生涯をたどる前に、まずは彼女の両親が出会った日までさかのぼってみよう。

頭がい骨で乾杯する男

エイダが初めて目にした25歳の父バイロンの肖像画。
アン・イザベラ・ミルバンク(通称アナベラ・ミルバンク)は1792年5月17日、イングランド北部ダラム郊外にて、準男爵の一人娘として誕生した。両親は娘の教育に金銭を惜しまず、ケンブリッジ大学の教授を家庭教師として雇い、同大の学生と同様のカリキュラムを組むように指示したという。そのため、アナベラは刺繍や音楽、ダンスといった貴族の淑女が身につけるべき嗜みではなく、哲学、科学、数学などを学習。こうした教育は彼女に広い知識をもたらす一方、強い自尊心も育てることになり、頭も心も無類に固い女性へと成長していった。
一方、ジョージ・ゴードン・バイロンは1788年1月22日、ロンドンで陸軍大尉の父と後妻のあいだに生まれた。バイロンの父は「気狂いジャック」という異名をとるほど酒癖が悪く、浪費家としても有名だった。家庭内ではけんかが絶えず、多額の借金を残したまま、バイロンが3歳のときに放浪先のフランスで死去。以後、精神疾患を患う母とともに、スコットランドで慎ましく暗い幼少期を過ごした。
事態が一転するのは、バイロンが10歳を迎えたときのこと。男爵の大伯父が亡くなり、バイロンのもとへ爵位が転がり込んできたのである。バイロンは所領のイングランド中部ノッティンガムシャーの邸宅「ニューステッド・アビー」に移り、ロンドンの寄宿学校、そしてケンブリッジ大学へと進学した。しかし残念なことに、数々の抑圧から解放された彼は、一気に「父親の血」を目覚めさせてしまう。学業を顧みずに世界中を放浪し、学友たちとニューステッド・アビー近くの墓地から発掘した頭がい骨でワインをあおって馬鹿騒ぎ。男女問わず多くの浮名を流し、賭博にも手を染めた。ところが、1812年に出版した詩編『チャイルド・ハロルドの巡礼』が発売から3日経たずに完売すると、世間の評価は一変。整った容貌と相まって、バイロンは一躍社交界の花形となる。
アナベラとバイロンが初めて顔をあわせたのは、この1812年に開かれた、ある社交パーティーでの席のことである。

左から、バイロンの妻アナベラ、バイロン、義姉オーガスタの肖像画。

崩壊の足音

貴族階級の未婚の男女にとって、社交パーティーは結婚相手を探す絶好のチャンスだが、アナベラとバイロンも1812年の社交シーズンの「注目株」だったようだ。とくにアナベラは、子爵である伯父が所有する多大な土地財産の推定相続人となっていたうえに、父はメルバーン子爵(のちにヴィクトリア女王に寵愛された首相メルバーン子爵の父)の妻の兄という、強力な縁故も持っていた。男性にとって、いかに「魅力的な物件」であったかが推察できるだろう。
アナベラのユーモアを欠いた尊大な態度は、バイロンの好みではなかった。しかし世にもてはやされる男性の目に留まる知性が、自分にはあると自負していたアナベラは、バイロンと積極的に言葉を交わし、急速に惹かれていった。他方、バイロンは彼女を聡明だと思うものの、それ以上の感情は抱かなかったようである。むしろアナベラのことを「哲学者 四角四面」と呼び、「僕らは決して交わることのない2本の平行線」と手紙で述べている。それゆえに、バイロンがアナベラとの結婚を決意したことには、驚きを隠せない。もしかしたら自身の借金返済と、当時戯れに関係を持った「気違いカーロ」ことキャロライン夫人の執拗な愛から逃れるため、力を借りたメルバーン子爵夫人(アナベラの叔母)との交換条件が「アナベラとの結婚」だったのかもしれない。
アナベラは自分を安売りしたくなかったのか、バイロンの求婚を一度は拒絶する。だが翌年から文通をはじめ、1814年秋に2度目のプロポーズを受諾。翌年1月2日、ダラム近郊にあるミルバンク家の邸宅「シーハムホール」で挙式した。このときアナベラは22歳、バイロンは26歳だった。

「危険な関係」と復讐の女神

幸福の絶頂で、確信していた未来が消え失せ、その人生がどす黒い影を帯びていくとは、一体誰が想像しえただろうか。
ロンドンに戻ると、バイロンは怒りっぽく辛辣で気まぐれな夫へと突如変身した。酒に溺れ、アヘンを服用し、さまざまな女性と夜を過ごす。なかでもアナベラがどうしても許容できなかったのは、バイロンの4歳年上の異母姉オーガスタとの関係だった。

幼少時のエイダ。
オーガスタは、バイロンにとって理想の女性だったに違いない。朗らかで茶目っ気があり、平凡だけどよく笑う。アナベラとは対極に位置する人物だったと言えよう。アナベラはオーガスタを本当の姉のように慕ったが、徐々にバイロンとのあいだに自分が入り込むことができない「親しさ」があることに気づく。そして耳にしたのが、2人の近親相姦疑惑に加え、1814年に誕生したオーガスタの末娘が「バイロンとの子」という噂であった。正直なところ、この噂の最初の出所はバイロンにかつて捨てられたキャロライン夫人であり、信憑性が高いとは言いがたい。だが、もし「危険な関係」が事実ならば、バイロンが自分に残酷な理由が納得できる…。アナベラは、これを真実と信じた。いや、そうすることによって、おそらく自分の受ける仕打ちを理論的に意味づけようとしたかったのだろう。
1816年1月、アナベラは5週間ほど前に生まれた娘のエイダとともに、両親がいるレスターシャーの屋敷へ居を移す。これが彼女とバイロンの永遠の別れとなった。同年4月、近親相姦や同性愛(当時は死刑に値する犯罪だった)といったスキャンダルにより社会的信用を失ったバイロンは、アナベラからの別居同意書(生涯離婚はしなかった)にサインした後、英国をあとにした。
このときから、アナベラの苛烈な復讐劇の幕があがった。バイロンに対する自分の記憶や他の人々の証言を記録し、バイロンからの手紙も収集しては、彼の堕落ぶりを広め続けた。とくにオーガスタ宛の手紙はすべて検分して克明に写し取り、返信もほとんどさせなかったという(これらの資料は「ラヴレス文書」として現在も保管されている)。バイロンは36歳でギリシャにて熱病にかかり、瀉血が原因であっけなく世を去った。

バイロンとアナベラが結婚した邸宅
シーハムホール・ホテル&スパ

ダラム近郊の町、シーハムの海岸線にたたずむ「シーハムホール」は、バイロンの妻アナベラの実家、ミルバンク家が所有する邸宅のひとつであり、1815年1月2日、バイロンとアナベラが結婚式を挙げている。現在はジョージア朝の伝統とモダンな快適さを併せ持つ5つ星ホテルとなっているが、挙式した部屋は「バイロン・ルーム」と名付けられ=写真下、会議などで使用する多目的ルームとなっている。

Seaham Hall Hotel & Spa
Lord Byrons Walk, Seaham, County Durham, SR7 7AG
Tel: 0191 516 1400 www.seaham-hall.co.uk

孤独な虜囚生活

チャールズ・バベッジと、「階差機関」の一部の設計図。現在、サイエンス・ミュージアムで開催中のミニ・エキシビション「Ada Lovelace」にて、実物を展示中(2016年3月末まで、入場無料)。
さて、母娘二人三脚での生活が始まるかと思いきや、お気に入りの温泉や海辺の保養地めぐりに忙しい母に代わり、エイダは祖母の手で育てられた。愛情深い祖母に懐きながらも、エイダは物心ついたときから、自分が監視されているのを感じていた。そして何より不思議に思ったのが、暖炉の上に覆いをかけて飾られている絵だ。エイダは母と一緒に庭を散歩していたとき、一度だけ尋ねてみたことがある。
「どうして私にはパパがいないの?」
そのときの母の顔は今でも時折夢に見るほどに恐ろしく、エイダが二度とこの話題に触れることはなかった。それは以前、「どうして、私をファーストネームの『オーガスタ』ではなく、セカンドネームの『エイダ』って呼ぶの?」と質問したときと同じ表情で、自分の名や暖炉の上の絵は、おそらく父に由来するものなのだろうと理解したのである。しかし、7歳のときに祖母が亡くなると、その絵も倉庫に片付けられてしまう。ミルバンク家において、忌まわしいバイロンの名は「禁句」であった。
家庭教師による教育がはじまると、アナベラは初めてエイダに関心を示した。ところが、耳にする娘の様子は「興味のある授業以外ではわがままで、注意力も散漫。ただ想像力は人一倍優れている」というものであった。アナベラはその報告を聞き、大きな不安がこみ上げてくる。「もしやバイロンの気質が表に出はじめているのだろうか? 絶対にあの男のような人間にしてはいけない…」。想像力の発達を抑制し、自制心のある理知的な性格に育つよう徹底的に管理し、数学や科学を学ばせることを決める。
13歳になったエイダは、孤独の中で日々を過ごしていた。教育に携わる4人の家庭教師は、母が信頼する独身の友人たちで、「魔女集団」のようだった。数人で常にエイダに張りつき、監視していたという。余計なことを吹き込まれないように、使用人や同じ土地の住人とも親しく会話を交わすことは禁止されていた。相変わらず母は屋敷に戻らず、時折思い出したように届く手紙だけが、心のよりどころだったであろうことは想像に難くない。
皮肉なことに、そうした虜囚生活は、かえってエイダの空想力をたくましくしていった。窓から空を飛び回る鳥を眺めては、自由に飛行する自分を思い浮かべたのだろう。ある日、突拍子もないことを思いつく。「私が『伝書バト』のようになれば、馬車よりも遥かに早くお母様の手紙を取りに行けるわ!」。彼女は早速、巨大な紙製の翼の設計にとりかかる。屋敷内に実験室を用意し、ロープ、滑車、クレーンといった用具一式もそろえた。鳥の翼を研究するために解剖学、空を知るために天文学も学びはじめたのだった。
ところが、勉学への興味は唐突にやんだ。謎の病魔に襲われたのである。最初は「はしか」だと思われたものが、やがて彼女の目と手足まで広がっていき、目はほぼ光を失って手足は麻痺。一日の大半を横たわって過ごす生活となってしまった。医者からは精神的な病と診断され、これ以後、エイダは生涯を通して身体的不調や精神的発作に悩まされることになる。

科学への目覚め


1843年、キングス・カレッジ・ロンドン内にあったジョージ3世ミュージアムにて、「解析機関」が公開されたときの様子。
治療のためにロンドンを転々としていたエイダだが、17歳になるころには身体の症状も落ち着きを見せてくる。
1833年、ロンドンの社交界では数学者のチャールズ・バベッジの自宅兼仕事場で行われる「夕べの集い」が、大きな話題となっていた。これは、当時42歳を迎えようとしていたバベッジの仕事の成果を発表する場で、社交界デビューを控えるエイダは初めての公の場として、この集いに出席した。今回の目玉は、「階差機関(Difference Engine)」と呼ばれる世界初の自動計算機の試作品だった。数本の頑丈な真鍮の柱と、上下2枚の金属板のあいだには、たくさんの歯車がある。歯車の周縁には数字が刻まれており、レバーをまわすと、歯車と数字が動く仕組みだ。招待客はこの「考える機械」と呼ばれた驚異的な発明品に度肝を抜かれたが、エイダの身体を走り抜けたのは、衝撃ではなく啓示であった。
「これこそ、私の進むべき道だわ!」
想像したことのない新しい世界に、かつて飛行を夢見た少女の胸は高鳴った。父の不在も、孤独な幽閉生活も、謎の病気も、すべてここにたどり着くための定めだったのかもしれない…。エイダは数学や科学の研究に再び打ち込みはじめた。
時代はエイダに味方する。産業革命により科学技術が急進的な発展を遂げており、研究対象には事欠かなかった。当時「科学の女王」と讃えられていた数学者のメアリー・サマヴィルと知り合ったエイダは、彼女の協力で入手した蒸気機関に関する論文を書き写したり、蒸気機関車や映写機を見学したりと、知識を蓄えていく。やがて尊敬するバベッジとも連絡を取り合うようになった。1835年7月には、サマヴィルの息子の友人で、11歳年上の第8代オッカム男爵ウィリアム・キングと結婚。エイダは19歳だった。

父が遺した愛情

この結婚はロマンチックな愛情によるものではなく、利害が一致した結果であった。エイダは母の監督下から解放されたかったし、ウィリアムにとっても、彼女がいずれ相続する豊富な資産を別にしても、非常に魅力的な――まさしくバイロンの血を受け継ぐ女性だった。社交的で、ときには馴れ馴れしく、ときには底抜けに明るい性格、滝のように流れ落ちる豊かな黒髪と潤んだ大きな目は男性を引きつけた。
また、キング家の邸宅の書棚には、バイロンの著作集が収蔵されていた。エイダは生まれて初めて、誰にも監視されずに父の作品を手にすることができるようになる。ある朝、彼の著作を読んでいたエイダはひとつの詩を目にし、ページをめくる手を止めた。

かわいい我が子よ!
お前の顔は母親似だろうか?
エイダ! 我が家 我が心の一人娘は?
最後に見たお前の青い目は、
微笑んでいた
別れ別れになったあのときには
今のような別れではなく、
まだ一縷の望みがあったのだ
(『チャイルド・ハロルドの巡礼』第3詩篇より)

エイダの頬を一筋の涙が零れ落ちていった。彼女のもとに母から贈り物の絵が届き、ついに父の顔を見ることが許されたのは、この5ヵ月後である。
この絵との対面の瞬間について、エイダの様子が記述された書物は残されていない。つまり、監視役として送られていた医者にしても、アナベラに報告するほどの醜態をエイダは晒さなかったのだろう。エイダの中に呪われるべき血の片鱗がないことが確認されたのだ。でも、本当にそうだったのだろうか? その答えが判明するのは、もう少し先のことである。

プログラマーの誕生


1838年、夫がラヴレス伯爵位を受爵し、伯爵夫人になったころのエイダ。
神経麻痺を患って以降、エイダは自分の身体に対して、一時たりとも安心感を抱いたことはなかった。3人の子どもを無事に出産したものの、2人目を生んだ後にコレラを発症。これが引き金になったようで、一定のサイクルで数ヵ月にわたって寝たきり状態を繰り返すようになった。
さらに、母が厄介事を運んでくる。近親相姦の末に生まれたとされるバイロンとオーガスタの娘が、未婚で子どもを抱えたまま、フランスで肺結核にかかったという報であった。母親のオーガスタと上手くいっていなかったこの娘は、なんとアナベラに助けを求めたのである。アナベラは自分の優位性を確認しようとフランスへ渡ったが、ある意味、この娘の方が「うわて」であった。衰窮した哀れな姿を見たアナベラは、彼女を英国へ連れ帰った。憎い女の娘を完全な支配下に置いた満足感と、少しの同情心が混ざり合った結果だったと推測できる。アナベラはエイダにも「哀れな義姉」と親しくするように伝えてきた。結婚後、父について詳細に調べていたエイダは、突然の内実暴露にも驚かなかったが、精神状態は悪化し、うつ病が深刻化していった。熱に浮かされたように科学の世界に没頭し、夢中になりすぎて昏倒することもあった。
1842年にバベッジがイタリアで行った、階差機関を改良した解析機関(Analytical Engine)の公演内容について、フランス語の論評が発表された。英国の科学雑誌『テイラー科学論集』は、英訳記事を掲載しようと翻訳者を探したところ、名が挙がったのがエイダである。責任重大な仕事の依頼に、彼女は師弟のような関係となっていたバベッジに相談。すると彼は、こう答えた。
「解析機関の構造や機能について、自分なりの詳細な注釈をつけたらどうだい?」
エイダにとって、これは大きな挑戦となった。当時、この驚異的な機械について本当に理解できている研究者はいなかった。それを説明するには、数学の概念のほか、機械工学や計算機の相互的関係にまで立ち入らなくてはならない。バベッジに協力を仰ぎ、病で研究を中断させながらも翌年、エイダは記事を完成させた。注釈は翻訳した本文の2倍の分量になり、「研究論文(メモワール)」と呼ばれることになる。65ページにおよぶ論文は好評を博し、また世界初の解析機関のプログラム・コードが解説されていたことから、のちにエイダは「世界初のプログラマー」と呼ばれるようになる。

プログラミング言語 エイダとは?

1980年12月10日、米国防総省はエイダの功績に敬意を表し、新しいコンピューター・プログラミング言語を「エイダ(Ada)」と名づけた。MIL規格番号(MIL-STD-1815)は、彼女の生年にちなんでおり、発表日はエイダの誕生日であった。「Ada」は多彩な言語機能と高度な言語体系を持ち、航空機のボーイング777や、F-22戦闘機=写真=の制御ソフトウェアは「Ada」によって書かれているという。飛行に憧れた少女の夢は、150年を経て叶ったと言えるのかもしれない。

母との決別


バイロンとエイダの眠る、聖メアリー・マグダレン教会。最期まで「バイロン卿夫人」を名乗り続けたものの、娘の葬儀には出席しなかったとされるアナベラは、ロンドンのケンザルグリーン墓地に眠る。
1850年、34歳になったエイダは、バイロン家代々の邸宅であったノッティンガムシャーのニューステッド・アビーを夫と訪れる。ここはバイロンがワインを満たした頭がい骨を片手に馬鹿騒ぎした場所であり、死の数年前に借金返済のために手放していた。館はバイロンの寄宿学校時代の級友に買い取られ、バイロンの肖像画や胸像はもちろん、寝室でさえ当時のままに保持されていた。エイダはこの館に足を踏み入れたときの感動を、母にこう書き送った。
「ここを訪れたのは、私の人生において最良のことでした。この場所について抱いていた途方もない、荒涼とした思いは消え失せました。今は古くからの由緒あるこの場所を、私の父、祖先たちすべてを心から愛しています」
エイダから母への挑戦状と言ってもいいだろう。人生の大半を母に操られて生きてきたが、一生続くかと思った催眠状態から揺り起こされたのだ。アナベラはショックを受け、エイダを責め立てる手紙を次々と送りつけるが、エイダは揺るがなかった。義姉の騒動から母とは疎遠になっていたが、母娘が決定的に道を違えた瞬間であった。
翌1851年、解析機関をベースにした自動機械のゲームを考案すると同時に、ゲームの勝率を定式化しようと試みていたバベッジに、エイダは協力を申し出る。そして自分の中の「もうひとつの面」に対する恐怖が消え、心が求める情熱に身を任せることを決めたエイダは、親しい友人たちを集め、数学を用いて勝率を計算しながら競馬場に繰り出す。案の定、競馬の魅力にはまった彼女は多額の負債を抱え、やがてグループ内の一人と情事にも溺れるようになる。ついにバイロンの血が姿を現したのであった。損失は3200ポンド(現在の50万ポンド、約8000万円)にのぼり、エイダは代々受け継いできた宝石を売却、愛人も離れていった。
さらなる黒い影がエイダを襲う。子宮がんである。1840年代後半から突然の発作や激痛で倒れることが増えていたが、うつ病を患っていたこともあり、アヘンチンキ治療しか施されておらず、発覚したときには末期だった。1852年11月27日、ロンドンの自宅にて瀉血治療により死去。享年36、奇しくも父と同じ年齢での死だった。エイダは死の床で、「自分の亡骸は父の傍らに葬ってほしい」と頼んだという。夫はこの言葉を守り、ニューステッド・アビー近くにある聖メアリー・マグダレン教会のバイロン家代々の地下納骨堂に葬られた。
世界が大きく変貌した時代に、父と母の才能と愛憎に翻弄されたエイダは、まさに旧時代と新時代を体現した女性だったと言えよう。幸福とは言い難い人生を送ったエイダだが、後世になって、その業績は高く評価されるようになった。そのきっかけとなったのが、現代のコンピューターの基礎をつくったと言われる数学者のアラン・チューリングである。第二次世界大戦時に、ドイツの暗号機「エニグマ」を解読し、1936年に自動計算機の模型「チューリング・マシーン」を考案した彼は、エイダの論文を読み、解析機関のプログラム・コードを100年前に生み出していた彼女に感心したという。スキャンダルまみれのバイロンの娘としてではなく、現代におけるコンピューターの発展に貢献した人物として、エイダはいまや世界中でその功績が認められている。


週刊ジャーニー No.922(2016年3月3日)掲載

今回は、