エフィー・グレイ
当代随一の文化人として知られたジョン・ラスキン(左)の妻でありながら、ラスキンの友人であった画家ジョン・エヴァレット・ミレイ(上)と恋に落ちたエフィー・グレイ(右)。
今回は、ヴィクトリア朝時代の著名な2人の男を翻弄し、前代未聞の一大スキャンダルとして世間を騒がせ、女王をも怒らせたという女性、エフィーを紹介しよう。

【参考資料】『John Everett Millais:A Biography』G.H.Fleming著、Constable London/『ジョン・エヴァレット・ミレイ展』木島俊介・監修、朝日新聞社/『英国王国恋物語』新人物往来社ほか

女王に嫌われた女

ロンドンのテムズ河畔、ミルバンクに建つ英国立美術館テート・ブリテン。
同館でもっとも人気の高い絵画のひとつが『オフィーリア』だ。オフィーリアとは、シェークスピアの代表作『ハムレット』に登場する人物としてお馴染みのはず。恋人のハムレットに捨てられたうえに、父親も殺害されて狂気に陥り、歌を口ずさみながら川底へと沈んでいく女性である。正気を失って川の流れに身を任せている姿は、悲劇的な最期を想像させ、悲哀に満ちていながらも、どこか夢見るようなロマンチックさも漂わせており、完成から160年以上が経った今でも多くの人々を魅了してやまない名作といって相違ないだろう。
この『オフィーリア』を描いた画家ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~96年)には、最愛の妻がいた。その女性の名はユーフェミア・チャーマーズ・グレイ、通称エフィー・グレイ(1828~97年)。芸術家として初めて准男爵の爵位を与えられ、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)会長という美術界の頂点の座に就いたミレイの正式な妻であったにもかかわらず、ヴィクトリア女王は彼女を「ミレイ夫人」として容認せず、エフィーは社交界に足を踏み入れることが許されなかった。女王への謁見がかなったのは、結婚から40年以上が過ぎた1896年、ミレイの死の間際であった。
一体なぜ、ヴィクトリア女王はエフィーをそれほどまでに嫌悪したのか。まずは、エフィーの生誕時までさかのぼってみよう。

ミレイの代表作「オフィーリア」(1851~52年、テート・ブリテン蔵)。

打算的な花婿探し

エフィーは1828年5月7日、スコットランド中部のパースにある「ボワーズウェル・ハウス」と呼ばれる館で、15人の子供の第一子として産声をあげた。父親はスコットランドで指折りの敏腕弁護士として名が通っており、グレイ家は経済的に恵まれた一家であった。
子供たちの教育にも熱心であった夫妻は、エフィーを、イングランドのストラットフォード・アポン・エイヴォンにある名門フィニッシング・スクール(上流階級の子女が礼儀作法を学ぶ学校)に入学させる。当時としては革新的なカリキュラムを組んでいることで知られていたこの学校は、地理、歴史、フランス語、音楽、美術、ダンスといった様々な分野を学ばせるだけでなく、「自己主張」「自己確立」を教育理念に掲げていた。ディスカッションや論文執筆の時間も用意され、こうした教育方針によりエフィーの聡明さや勝気さ、行動力が培われたといえる。どの科目でも優秀な成績を収め、明るく社交的。ユーモアにあふれる彼女の会話は、そのスコットランドなまりさえチャーミングに聞こえたという。
フィニッシング・スクールを卒業したエフィーは、親戚や友人を頼りに英国各地を訪ねた。いわゆる「花婿探し」である。自分の夫は自分で決めたい――エフィーはそうした「新しいタイプ」の女性に成長していた。大きな夜会や舞踏会が開かれるたびに彼女は姿を現すが、そこで思わぬ騒動を巻き起こす。その出来事について、フィニッシング・スクールの同級生であった女流作家エリザベス・ギャスケルは、こう語っている。
 「私を訪ねてマンチェスターに滞在していたとき、彼女は自分にアプローチしてきた男性の名前をこっそりと書き連ねて、リストをつくっていたわ。そして彼らを期待させておきながら、いつの間にか街を去っているの。どこの街に行ってもそうしていたみたい」
エフィーは数え切れないほどの求婚を受け、やがてその中のひとりと婚約したが、最終的に伴侶に選んだのは別の男性だった。もっと魅力的な「物件」に出会ったのだ。
その人物が、美術評論家として活躍していたジョン・ラスキン(1819~1900年)である。

ラスキンの祖父が自殺した家
ボワーズウェル・ハウス

スコットランド・パースにあるグレイ家の館「ボワーズウェル・ハウスBowerswell House」=写真、非公開=は、かつてラスキン家が所有していた。ラスキンの祖父がこの家で自殺したことから、彼らは縁起の悪い館を手放すことに決め、それを買い取ったのがエフィーの父親である。エフィーはこの館で誕生。産声を上げた場所はかつてラスキンの祖父が自殺した部屋であった。
両家は親しく交流を続け、エフィーとラスキンが初めて顔をあわせたのは、エフィーが12歳のとき。ラスキンの両親はエフィーを気に入り、しばしばロンドンの自宅に招いた。エフィーが通ったストラットフォード・アポン・エイヴォンのフィニッシング・スクールも、実はラスキンの両親が薦めた学校であり、入学前の下見も彼らと一緒に訪れている。この頃から、ラスキンの両親はエフィーを息子の嫁にするつもりだったかもしれない。
エフィーはラスキン、ミレイのどちらとの結婚式も、このボワーズウェル・ハウスで挙げている。

約束されたセレブ生活

ラスキンは1819年2月8日、ロンドンで貿易商を営む裕福な家庭のひとり息子として生まれた。ロマン派文学を好んだ父の影響で、ラスキンは幼少時よりバイロンやウォルター・スコットに親しみ、また母が熱心なクリスチャンであったことから聖書の暗記を試みるなど、両親と家庭教師によって厳しい教育を受けた。友人もなく、子供らしく遊ぶこともなかったが、幼い頃からヨーロッパ各国を両親とともに旅しながら見聞を広めていった。

ラスキンの両親は従兄妹同士で結婚。母マーガレットは、ひとり息子のラスキンを厳しく育てながらも溺愛した。

ラスキンの父の依頼で画家トーマス・リッチモンドが描いた、エフィーの肖像画(ナショナル・ポートレイト・ギャラリー蔵)。

ラスキンはオックスフォード大学へ進学するが、大学や集団生活に馴染めず、体調を崩すことが少なくなかったようだ。心配した母親が大学の近くに引っ越してきたり、週末には父親も訪ねてきたりと、家族の結びつきが非常に強かったという。やがて詩作の才能を示したラスキンは、文筆活動を開始。画家ターナーらとの交流から芸術を擁護するエッセイを執筆しはじめ、1843年に刊行した『近代画家論』で美術評論家として名を知らしめた。
グレイ家とラスキン家はもともと交流があり、パースにあるグレイ家の館もかつてラスキン家が所有していたものだった。エフィーとラスキンも面識があったが、10歳ほど年齢が離れていたため、互いに結婚相手として意識してはいなかったようである。
ところが1847年、ラスキンの母が成長したエフィーに目を留めたことから、運命は大きく動き出していく。
 「あの年齢で、彼女ほどの教養を身につけた女性は少ないわ。彼女はあなたの活動の助けになってくれるはず。少し賢しげだけど、経験を重ねれば思慮深さも備わるでしょう。ドレスのセンスもいいし、外見も可愛らしいし、彼女以外にあなたの妻となる適任者はいないのではないかしら」
母の言うことに間違いはない――少々マザコンのきらいがあったとされるラスキンは、すぐにエフィーにプロポーズした。
突然の話に、エフィーはどれだけ驚いたことだろう。だが、ラスキンほど確かな社会的地位と将来性を持ち合わせた求婚者はおらず、若い女性らしく華やかな社交界に仲間入りすることに憧れを抱いた彼女は、すでに別の男性と交わしていた婚約を破棄。そして翌年、ラスキン夫人となる。ラスキンは29歳、エフィーは19歳であった。

神童の挫折

ラファエル前派を結成したミレイ(左)が、ロイヤル・アカデミー展に満を持して出品した「両親の家のキリスト」(1849~50年、テート・ブリテン蔵)。
一方、その頃の美術界には、伝統や権威にとらわれ、形骸化していたロイヤル・アカデミーに反発する若者たちが現れていた。彼らは「ラファエル前派兄弟団Pre-Raphaelites Brotherhood」(通称「ラファエル前派」)を結成。イタリア・ルネサンス時代の巨匠ラファエロの時代から続く古典的な手法や形式を排除し、閉鎖的な画壇に新風を送り込もうとする。つまり、過去の作品から着想を得るのではなく、自然を前に直接写生することや、心に感じたままに描くことの必要性を主張したのだ。そのグループの主要メンバーのひとりが、冒頭に登場したミレイである。
ミレイは1829年6月8日、ジャージー島の裕福な家庭の次男として、サウサンプトンで生を受けた。ジャージー島に領地を擁するミレイ一族は貴族ではないものの、その起源は11世紀にまでさかのぼることができる旧家であった。ミレイは幼少時から画才を発揮し、史上最年少の11歳でロイヤル・アカデミー付属学校に入学、「神童」ともてはやされた。
しかしながら、若い力への賞賛は次第に反感も生むのが世の常。ラファエル前派を創設し、画壇に反旗を翻した後に出展した『両親の家のキリスト』が、情け容赦なく酷評されてしまう。キリストの聖家族を大工の一家として史実に忠実に描いたことで(キリストはナザレの大工のもとに誕生したと伝えられている)、神を冒涜した卑俗な作品と嫌悪されたのである。順風満帆の人生を歩んできた、挫折知らずの21歳の青年にとって、この批判は計り知れないほどの衝撃と苦痛をもたらしたに違いない。悩んだミレイは、友人の仲介で権威ある評論家のラスキンに擁護を嘆願した。ラスキンはラファエル前派に対して好意的なことで知られていたからだ。
果たしてこの作戦は成功であった。ラスキンが「タイムズ」紙上で彼らを擁護する文面を発表し、同グループを支援するようになると、大衆の風向きが一気に変化したのである。ミレイはラスキンに礼状を送り、以降、2人は親しく付き合うようになっていく。ミレイ、ラスキン、エフィーの運命の歯車が回りだした瞬間だった。

裁判沙汰で公開延期の作品がやっと上映!
映画Effie Gray

ラスキンとエフィー、ミレイの絡み合う恋愛模様は、これまで何度も舞台化やドラマ化されてきたが、近々、英女優エマ・トンプソンが脚本を担当した最新映画『Effie Gray』として、20141010日に公開される。
ヒロインのエフィーを演じるのは、米女優のダコタ・ファニング。ほかに、ラスキン役をエマ・トンプソンの夫グレッグ・ワイズ、ミレイ役をトム・スターリッジが演じる。エマ・トンプソン自身も当時のロイヤル・アカデミー会長の妻であり、エフィーの良き理解者であったイーストレイク夫人役で出演している。
この映画は前年に公開される予定だったが、「脚本を盗作された」と主張した米国の脚本家と裁判沙汰に発展。お蔵入りになる可能性も少なくなかった。だが、裁判はエマが無事勝訴し、201410月の公開にこぎつけている。

さらにもっとエフィーやラファエル前派を知りたい人には、BBC制作のドラマ「Desperate Romantics」(邦題「SEXとアートと美しき男たち」)もある。
すべての出来事について、画家とモデルの男女関係に結びつけすぎではあるものの、ラファエル前派の主要メンバー、ロセッティ、ハント、ミレイらの奮闘ぶりがコメディ調で描かれている。とくに、お湯を入れたバスタブの中でモデルにポーズを取らせ、ミレイが『オフィーリア』を描くシーンは、とても興味深い。
実話は散りばめられているものの、ストーリーはほぼフィクションなのであしからず。2009年放送、全4話。アマゾンなどで購入可。

裸婦像にはないもの

結婚5年目を迎えた1853年、エフィーとラスキンは夏の休暇をスコットランドで過ごすことにする。ラスキンに招待され、ミレイと彼の兄も交えた一行は、4ヵ月ほど北部のハイランド地方を旅した。この旅行が人生の明暗を大きくわける決定打となることを、このとき誰が予想し得たであろうか。
幸福の始まりに思えた「玉の輿」婚は、いまやエフィーにとって悲しみと屈辱に彩られたものとなっていた。発端は、結婚初夜にさかのぼる。
「あの夜、彼は私に『妻にすることはできない』と謝りました。子供が嫌いだとか、宗教的な信心ゆえだとか、私の美しさを保つためだとか、さまざまな理由を並べ立て、『友人でいよう』と言い残して寝室から出て行きました」(エフィーの手紙より)。

スコットランド旅行中、グレンフィラスにある山の急流を背景にして、ミレイが描いたラスキンの肖像画。ラスキン自身が依頼したもので、完成したのはエフィーとの裁判終了後の1854年12月。この絵を納めたときに交わした会話が、ラスキンとミレイの最後の親しいやりとりとなった。
実は、結婚してから2人は一度もベッドを共にしたことがなく、寝室も別であった。多忙なラスキンは家をあけることが多く、また外出しない日は書斎に閉じこもり、夕食以外で顔を見ることはなかったという。興味の湧く対象物を見つけると、何日でも、ときには何ヵ月でもじっと観察しながら思考を繰り返し、細部をメモしたり、スケッチしたりしてばかり。妻に無関心のラスキンとの生活に、エフィーは笑顔を失くしていった。あれほど快活だった彼女は、いつの間にか「感情を表に出さない、冷たい印象の女性」と呼ばれるようになっていた。
しかし、25歳の誕生日を迎えた夜、エフィーは最後の勝負に出る。
「正式な妻にしていただけませんか?」
テーブルやピアノの脚まで卑猥として布で隠すほどに禁欲的で、また女性が性に積極的な態度を示すことは「ふしだら」と考えられていた時代に、女性からこうした話を切り出すのはどれほどの勇気が必要だったことだろう。それに対し、ラスキンは渋々ながらこう答えた。
「エフィー、あなたの身体は私の想像とあまりにもかけ離れ、嫌悪感しか湧かない。絵画や彫刻の裸婦像にはないものがあって、気味が悪いんだ」
ラスキンの言う「裸婦像にはないもの」とは、体毛だったと考えられている。エフィーは、それは自然なことで自分だけ特別なのではないと必死に説得を試みたが、ラスキンは聞く耳を持たなかった。スコットランドへ発つ6週間ほど前のことである。

苦難の恋

ハイランドへの旅行は、失意の底に沈んでいたエフィーに思いがけない喜びと苦しみをもたらすものとなった。
旅に同行したミレイ兄弟はあらゆるものに興味深々で、自然の中での遊び方を知っている青年たちだった。エフィーはすっかり彼らと意気投合し、ともに小川沿いを散策し、ときには足首まで川に浸たして水をかけあったり、岩場に腰掛けて釣りに挑戦したりもした。2人が風景を写生しているときは、その隣で静かに読書や編み物を楽しみ、やがてミレイから指導を受けながら一緒にスケッチも行うようになる。ジョークを飛ばしあい、賑やかに会話する日々に、エフィーは本来の自分を取り戻していく気がしたであろうことは想像に難くない。
ミレイの兄が一足先にロンドンへ帰ると、エフィーとミレイの距離は瞬く間に縮まっていった。おそらくこの頃に、彼女はラスキンとの「秘密」を打ち明けたと思われる。不毛な結婚生活に苦しむエフィーを見て、ミレイの男気が動かされたのか。それとも自分と同年代の若く闊達なミレイに、エフィーが魅せられたのか。長い休暇が終わりを告げる頃、2人は許されぬ恋に身を焦がすようになっていた。
一方ラスキンはというと、彼らの輪には加わらずに、雲や小川の流れを眺めながら思索に耽ったり、新刊本の執筆や講演会の準備に没頭したりと、ラスキンなりに充実した時間を過ごしていたようで、うかつにも自らが招いた2人の関係の進展には、まったく気づかなかった。
ロンドンに戻ったミレイは頭痛に悩まされ、家にこもりがちになる。夜になると孤独や喪失感に襲われ、ベッドに伏して子供のように泣きじゃくったという。まさに恋わずらいの症状である。しかしながら、この病に冒されたのはミレイだけではない。エフィーも意気消沈し、食欲が減退して寝込む日が多くなった。ついにラスキン夫婦は、ともに食卓を囲むことさえなくなってしまった。

屈辱的な裁判

ヴィクトリア朝時代における女性の法的・社会的地位は、非常に低かった。女性には厳しい性への道徳基準を求め、女性の不貞は離婚の原因や非難の対象になったが、男性が愛人を持つことは容認されており、1857年に離婚法が成立するまで、女性側からは離婚を申し立てることができなかった。
「ここは私がいるべき場所じゃない」
運命の旅行から半年が経った1854年春、覚悟を決めたエフィーがついに動き出す。当時はまだ離婚法が可決されていなかったため、エフィーが目指したのは夫婦関係の不成立による「婚姻無効」訴訟である。それにしてもなぜ、彼女は急に戦う決断を下したのか。
きっかけは、実家からの一通の手紙だった。エフィーの両親は常々、娘にいつまでたっても子供ができないことを不思議に思い、「完全な夫婦」になっていないのではないかと疑っていた。そして、とうとうエフィーに尋ねたのである――。真実を知った両親はすぐにロンドンに駆けつけ、エフィーに実家へ戻るよう促した。訴訟を起こすには複雑な手続きと高額な費用を要するが、エフィーの父親はスコットランド有数の弁護士、母親の実家は治安判事の家系。また十分な資金もある。問題は、裁判で自尊心を傷つけられるような質疑応答が行われるであろうことだけだったが、エフィーの心に迷いはなかったに違いない。
4月25日の朝にエフィーはロンドンを後にし、その日の午後、ラスキンのもとに婚姻無効の申し立て書が届く。そして同じ頃、ラスキンの両親のもとにも小包が到着する。中身はエフィーの結婚指輪と家の鍵であった。
ラスキン一家はこの醜聞が表沙汰にならないよう努めたが、裁判は寝室での出来事を白日の下にさらしていった。高名な評論家とその美しい妻、将来有望な画家の三角関係は、一大スキャンダルとなって世間をかけめぐり、周囲からの非難や中傷、夫婦生活がなかったことを証明するための屈辱的な身体検査にもエフィーは耐え続けた。一方、ミレイもラスキンの信望者から声高に糾弾され、またロイヤル・アカデミーのメンバーからのいやがらせが激化した。ミレイの才能に嫉妬していた彼らは、一斉にあることないこと噂話を撒き散らしたのである。
こうして約3ヵ月におよぶ辛い攻防の末、7月15日、エフィーは裁判所から「婚姻無効」宣言を勝ち取る。「ラスキン氏の性的不能により結婚を完遂できない」ことが、判決理由であった(ただしラスキンはこれを否定)。
そして1年後の7月3日、パースにある「ボワーズウェル・ハウス」にて、エフィーとミレイは近親者のみでひっそりと式を挙げる。エフィーは27歳、ミレイは26歳となっていた。

スコットランド旅行中にミレイが描いた「2人の師と生徒」。2人の師とはラスキンとミレイのことで、生徒は絵を習いはじめたばかりのエフィーを指す。3人が描かれていたが、右上にいたはずのラスキンは後に切り取られている。ピッタリとくっついて座っているエフィーとミレイの姿から、仲の良さが伝わってくる。

否定された「ミレイ夫人」


『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロルが1865年に撮影した、エフィーとミレイ、娘たち(メアリーとエフィー)。
衆目から逃れるために、2人はパースで新婚生活をスタートさせた。翌年には長男エヴァレットが誕生。以降、毎年のようにエフィーは出産を迎え、8人の子供に恵まれる。
エフィーとの結婚によってミレイはラスキンと袂を分かったが、彼の後ろ盾がなくても一人前の画家としてすぐに自立していく。24歳のときに最年少でロイヤル・アカデミー準会員に昇格、その10年後には会員に選出された。理想を掲げて設立したものの、賛否両論であったラファエル前派は空中分解し、ミレイの絵は精密な自然描写から、温かみのある画風へと変化する。子供をテーマにした作品が増え、また肖像画家としても活躍した。その功績が認められ、芸術家として初の準男爵位を賜り、1896年には栄誉の頂点であるロイヤル・アカデミー会長への就任を果たすなど、彼の人生は誰の目にも理想的なものに映っただろう。エフィーはそんなミレイの仕事を取り仕切り、夫と家庭を支え続けた。だが、ひとつだけその幸福に傷をつけるものがあった。
上流階級の人々にとって、エフィーの起こした訴訟は前代未聞の「衝撃的な事件」であった。醜聞としていつまでも人の口にのぼっていたが、なかでもこの騒動にもっとも激怒したのはヴィクトリア女王である。ミレイから謁見の場にエフィーを伴う許可を請われた女王は、「離婚した女性とは会わない」と返答。エフィーはショックを受け、「ラスキン氏とは離婚したのではなく、もともと結婚していなかった」と弁明したが、すげない応答が返ってきただけだった。夫を一途に愛してきたヴィクトリア女王は、奔放な女性を嫌悪していたのである。かつて「ラスキン夫人」として謁見を済ませたエフィーを、「ミレイ夫人」として受け入れようとはしなかった。
君主への謁見はすなわち社交界デビューであり、上流階級では一人前の女性としてその存在を認められたことを意味する。つまり謁見が許されなければ、王族が出席する公式な式典やパーティーなどへの参加資格はない。ミレイが華やかな陽のあたる道を進もうとも、エフィーはその隣に並ぶことはできなかった。

少女への求婚と失恋、精神疾患…
ジョン・ラスキンのその後

婚姻関係が白紙になった後のラスキンの人生はというと、ミレイとは反対にゆるやかに下降の一途をたどっていった。
エフィーとミレイが結婚したことを耳にすると、当然ながらミレイとの縁は途絶えた。ロイヤル・アカデミー展に展示されたミレイの作品をたまに批判しながらも、ほかのラファエル前派の若者たちには支援の手をさしのべ続けている。「性的不能者」のレッテルは一家を苦しめたが、ラスキンの芸術論に賛同する人々に支えられ、相変わらず講演会や著書の執筆に没頭した。
1858年、ラスキンが39歳のとき、絵画教師として通っていた裕福なアイルランド人家庭の10歳の少女、ローズ・ラ・トゥーシェ=上=に恋をする。遅い初恋だった。
ローズの16歳の誕生日に求婚するが、ラスキンはすでに45歳。あまりに年長であるため、彼女の両親は反対し、ローズは「5年後にお返事します」と返答を保留にした。
5年後、ローズが21歳になると、ラスキンは再びプロポーズ。結婚に反対し続けていた彼女の母親は、なんとエフィーに相談する。突然の手紙にエフィーは驚くが、「その結婚はローズさんを不幸にするでしょう」と返信。それを受けて、ラスキンの申し出は断られた。
しかし彼の想いは冷めず、何度もプロポーズしてくるため、悩んだローズの母親は、またもやエフィーにラスキンについて尋ねる手紙を送る。今度はミレイが返信した。「すべてのことは裁判で話しています」。納得のいかなかった母親は、再度エフィーに問い合わせ、「今後この問題で自分たちを煩わせないこと」を条件に、エフィーとミレイがそれぞれの立場からラスキンと当時の結婚生活について明かした。結局、この内容が決定打となり、ラスキンとローズが結ばれることはなかった。
1875年、ローズは未婚のまま27歳で死去。病死とされているが、一説によると、ローズもラスキンを想っており、結婚が叶わぬことに絶望し、自殺したとも伝えられている。失意のラスキンは、しばしば狂気の発作に見舞われるようになり、亡くなったローズと会話するために、スピリチュアリズムの研究もはじめるようになった。
1878年、画家ホイッスラーの作品を酷評したことにより名誉棄損で訴えられ、法廷闘争に巻き込まれる。ラスキンは敗北して賠償金の支払いを命じられるが、精神疾患が認められ、支払額はわずかなもので済んだ。だが、この敗北によって社会的信用を完全に失くし、病も悪化。晩年は両親と湖水地方に移り住み、独身のまま81歳で生涯を終えた。

晴れた暗雲

ミレイの「シャボン玉」(1886年)に基づき、石鹸会社が制作したポスター。無断で石鹸が描き加えられ(右下の茶色の固形物)、ミレイは憤慨したが、このポスターで一躍有名画家となった。
長く影を落としていたこの暗雲を追い払うことができたのは、ミレイが死の床についた1896年のこと。
咽頭がんを患ったミレイに、死の足音が近づいていることを耳にしたヴィクトリア女王から、「何かできることはないか」とメッセージが届けられたのだ。ミレイはすぐさまエフィーの謁見許可を懇願。その願いは受け入れられ、翌日、エフィーはウィンザー城に召喚された。女王に正式な拝謁を許され、言葉を賜り、結婚から41年目にしてようやく名実ともにエフィー・ミレイとなることができたのである。
心の奥に刺さっていた棘が抜けたミレイはその2ヵ月後に静かに世を去り、エフィーも後を追うように翌年、69年にわたる波乱万丈の生涯に幕を下ろした。
家庭をまもる貞淑な良妻賢母を「家庭の天使」と呼び、理想の女性像としていたヴィクトリア朝時代において、恥や外聞を恐れず、己の人生を自分で選び取ったエフィーの生き方は、まさに次世代の「新しい女性」の先駆けであったといえよう。
一方、愛を手にして栄光をつかんだミレイとは異なり、ラスキンは性癖を暴露されて屈辱的な立場に置かれただけでなく、後年出会った幼い少女との恋にも破れて狂気の発作に襲われるようになる。社会的信用をなくし、孤独のまま死去した彼の生涯を思うと、エフィーは良くも悪くも2人の偉大な男にとって「ファム・ファタール(運命の女性)」だったに違いない。

週刊ジャーニー No.850(2014年10月2日)掲載