大スキャンダルで社交界を揺るがせたエフィー・グレイ 【後編】

■ 〈前回のあらすじ〉ヴィクトリア朝時代を代表する美術評論家ジョン・ラスキン(左上絵)の妻でありながら、ラスキンの友人であった画家ジョン・エヴァレット・ミレイ(右上絵)と「許されぬ恋」に落ちたエフィー・グレイ。夫婦関係の不成立を理由に、婚姻無効の訴訟を起こすが…。著名な2人の男性を翻弄し、前代未聞の一大スキャンダルとして世間を騒がせたエフィーの人生を追う。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

当時の離婚事情

エフィーとラスキン、そしてラスキンに招待されたミレイと彼の兄を交えた一行が、スコットランド北部のハイランド地方を旅してから半年が過ぎた、1854年春。ラスキンとの6年に及ぶ悲しみに彩られた結婚生活に終止符を打ち、ミレイと新たな人生を歩むべく、エフィーは動き出した。

ヴィクトリア朝時代における女性の法的・社会的地位は、非常に低かった。女性は厳しい性への道徳基準を求められ、女性の不貞は離婚の原因や非難の対象になったが、男性が愛人を持つことは容認されており、1857年に「離婚法」が成立するまで、女性側からは離婚を申し立てることができなかった。1854年当時はまだ離婚法が可決されていなかったため、エフィーが目指したのは夫婦関係の不成立による「婚姻無効」訴訟。一度もベッドをともにしたことがなく、妻に無関心のラスキンとの生活は辛く苦しいものだったが、離婚が難しい現状において、婚姻無効を訴えられるのは、エフィーにとって「不幸中の幸い」に思えた。

とはいえ、訴訟を起こしたら醜聞は免れない。一体なぜ、彼女は急に戦う決断を下したのか?

屈辱的な裁判と中傷

きっかけは、実家からの一通の手紙だった。

エフィーの両親は常々、娘にいつまでたっても子供ができないことを不思議に思い、「完全な夫婦」になっていないのではないかと疑っていた。そして、とうとうエフィーに尋ねたのである――。真実を知った両親はすぐにロンドンに駆けつけ、エフィーに実家へ戻るよう促した。訴訟を起こすには複雑な手続きと高額な費用を要するが、エフィーの父親はスコットランド有数の弁護士、母親の実家は治安判事の家系。また十分な資金もある。問題は、裁判で自尊心を傷つけられるような質疑応答が繰り広げられるであろうことだけだったが、エフィーの心に迷いはなかった。

4月25日の朝にエフィーはロンドンを後にし、その日の午後、ラスキンのもとに婚姻無効の申し立て書が届く。そして同じ頃、ラスキンの両親のもとにも小包が到着する。中身はエフィーの結婚指輪と家の鍵であった。

ラスキン一家はこの醜聞が表沙汰にならないよう努めたが、裁判は寝室での出来事を白日の下にさらしていった。高名な評論家とその美しい妻、将来有望な画家の三角関係は、一大スキャンダルとなって世間をかけめぐり、周囲からの非難や中傷、夫婦生活がなかったことを証明するための屈辱的な身体検査にもエフィーは耐え続けた。

一方、ミレイもラスキンの信望者から声高に糾弾され、ロイヤル・アカデミーのメンバーからのいやがらせが激化した。ミレイの才能に嫉妬していた彼らは、一斉にあることないこと噂話を撒き散らしたのである。

こうして約3ヵ月の辛い攻防の末、7月15日、エフィーは裁判所から「婚姻無効」宣言を勝ち取る。「ラスキン氏の性的不能により結婚を完遂できない」ことが、判決理由であった(ただしラスキンはこれを否定した)。

そして1年後の7月3日、故郷スコットランドのパースにある実家にて、エフィーとミレイは近親者のみでひっそりと結婚式を挙げる。2人が禁断の恋に落ちてから2年が経ち、エフィーは27歳、ミレイは26歳となっていた。

否定された「ミレイ夫人」

衆目から逃れるために、2人はパースで新婚生活をスタートさせた。翌年には長男が誕生。以降、毎年のようにエフィーは出産を迎え、8人の子供に恵まれた。

エフィーとの結婚によってミレイはラスキンと袂を分かったが、彼の後ろ盾がなくても一人前の画家としてすぐに自立した。24歳のときに最年少でロイヤル・アカデミー準会員に昇格、その10年後には会員に選出された。理想を掲げて設立したものの、賛否両論であった「ラファエル前派」は空中分解し、やがてミレイの絵は精密な自然描写から、温かみのある画風へと変化していく。子供をテーマにした作品が増え、また肖像画家としても活躍した。その功績が認められ、芸術家として初の準男爵位を賜り、1896年には栄誉の頂点であるロイヤル・アカデミー会長への就任を果たすなど、彼の人生は誰の目にも理想的なものに映っただろう。エフィーはそんなミレイの仕事を取り仕切り、夫と家庭を支え続けた。

だが、ひとつだけその幸福に傷をつけるものがあった。

上流階級の人々にとって、エフィーの起こした訴訟は前代未聞の「衝撃的な事件」であった。醜聞としていつまでも人の口にのぼっていたが、なかでもこの騒動にもっとも激怒したのはヴィクトリア女王である。

ミレイから謁見の場に妻を伴う許可を請われた女王は、「離婚するような気の多い女性とは会いません」と冷たく返答。エフィーはショックを受け、「ラスキン氏とは離婚したのではなく、もともと結婚していなかったのです」と必死に弁明したが、すげない応答が返ってきただけだった。夫を一途に愛してきたヴィクトリア女王は、奔放な女性を嫌悪していたのである。かつて「ラスキン夫人」として謁見を済ませたエフィーを、「ミレイ夫人」として受け入れようとはしなかった。

君主への謁見はすなわち社交界デビューであり、上流階級では一人前の女性としてその存在を認められたことを意味する。つまり謁見が許されなければ、王族が出席する公式な式典やパーティーなどへの参加資格はない。ミレイが華やかな陽のあたる道を進もうとも、エフィーはその隣に並ぶことはできなかった。

晩年のエフィーとミレイ。ラスキンとの結婚生活や離婚劇はエフィーの人生に暗い影を落とし、世間では気難しい女性として知られるようになっていた。
ケンジントンに建つ、エフィーとミレイが子供たちと一緒に20年ほど暮らした家。自宅兼アトリエとして、ミレイが建築家である友人に設計を依頼し、1876年に完成した。ミレイはこの家で、エフィーに看取られながら息を引き取った。

晴れた暗雲

長く影を落としていたこの暗雲を追い払うことができたのは、ミレイが死の床についた1896年のこと。

咽頭がんを患ったミレイに、死の足音が近づいていることを耳にしたヴィクトリア女王から、「何かできることはないか」とメッセージが届けられたのだ。ミレイはすぐさまエフィーの謁見許可を懇願。その願いは受け入れられ、翌日、エフィーはウィンザー城に召喚された。女王に正式な拝謁を許され、言葉を賜り、結婚から41年目にしてようやく名実ともにエフィー・ミレイとなることができたのである。

心の奥に刺さっていた棘が抜けたミレイは、その2ヵ月後に静かに息を引き取り、エフィーも後を追うように翌年、69年にわたる波乱の生涯に幕を下ろした。

家をまもる貞淑な良妻賢母を「家庭の天使」と呼び、理想の女性像としていたヴィクトリア朝時代において、恥や外聞を恐れず、己の人生を自分で選び取ったエフィーの生き方は、まさに次世代の「新しい女性」の先駆けであった。

一方、愛を手にして栄光もつかんだミレイとは異なり、ラスキンは性癖を暴露されて屈辱的な立場に置かれただけでなく、後年出会った幼い少女との恋にも破れて狂気の発作に襲われるようになった。社会的信用をなくし、孤独のまま死去した彼の生涯を思うと、エフィーは良くも悪くも2人の偉大な男にとって「ファム・ファタール(運命の女性)」だったに違いない。

少女への求婚と失恋、精神疾患… 晩年のラスキン

ラスキンのその後の人生はというと、ミレイとは反対にゆるやかに下降の一途をたどっていった。

エフィーとミレイが結婚したことを耳にすると、ミレイとの縁は途絶えた。ミレイの作品をたまに批判しながらも、ほかのラファエル前派の若者たちには支援の手をさしのべ続けている。「性的不能者」のレッテルは一家を苦しめたが、ラスキンの芸術論に賛同する人々に支えられ、相変わらず講演会や著書の執筆に没頭した。

ラスキンが39歳のとき、絵画教師として通っていた裕福なアイルランド人家庭の10歳の少女ローズに恋をする。遅い初恋だった。彼女の16歳の誕生日に求婚するが、ラスキンはすでに45歳。少女の両親は反対し、ローズは「5年後にお返事します」と返答を保留にした。

5年後、ローズが21歳になると、ラスキンは再びプロポーズ。悩んだ彼女の母親は、なんとエフィーに相談する。突然の手紙にエフィーは驚くが、「その結婚はローズさんを不幸にするでしょう」と返信。それを受け、ラスキンの申し出は断られた。

しかし懲りずに何度もプロポーズしてくるため、ローズの母親は再びエフィーに手紙を送付。食い下がる母親に対し、「今後この問題で自分たちを煩わせないこと」を条件に、エフィーとミレイがそれぞれの立場からラスキンと当時の結婚生活について明かした。この内容が決定打となり、ラスキンとローズが結ばれることはなかった。

1875年、ローズは未婚のまま27歳で死去。病死とされているが、ローズもラスキンを想っており、結婚が叶わぬことに絶望し、自殺したとも伝えられている。失意のラスキンは狂気の発作に襲われるようになり、晩年は両親と湖水地方に移り住んで、独身のまま81歳で生涯を終えた。

週刊ジャーニー No.1140(2020年6月4日)掲載