●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 徳川幕府が鎖国に踏み切る直前の1613年10月、仙台から旅立った一艘の木造帆船。乗船していたのは、後に「慶長遣欧使節団」と呼ばれる一行で、最終目的地はスペインだった――。壮大な使命を帯びて出立した使節たちの物語、後編をお届けする。
前回の遣欧使節団とは逆ルート
1613年10月28日(慶長18年9月15日)、わずか45日という異例の速さで完成した木造帆船「サン・ファン・バウティスタ号」が、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ、大使の支倉常長を含む「慶長遣欧使節団」を乗せて、仙台の月ノ浦から欧州へ向けて出航した。彼らがまず目指したのは、当時スペイン領だったヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)だ。
暴風雨に遭いながらも、一行は約90日後にヌエバ・エスパーニャの沿岸都市アカプルコに到着。商人などヌエバ・エスパーニャに滞在する者たちと船を残し、ソテロと常長をはじめとする約30名は、陸路でメキシコ・シティを経由してベラクルスまで移動した。そして、アカプルコに着いてから5ヵ月後の1614年6月10日、ベラクルスからスペイン軍艦に乗って大西洋へと乗り出した。
31年前の1582年に長崎を発った「天正遣欧使節団」の少年たちは、まだ10代という若さではあったものの、同志の使節仲間は4人。また、神学校で語学や地理も学んでいた。それに対し、仙台藩の主君であった伊達政宗に命じられて使節となった支倉常長には海外の知識がなく、太平洋や大西洋がどれぐらいの大きさで、ヨーロッパがどこにあり、どういう場所なのか見当もつかないままの旅程だった。さらに、アカプルコでスペイン軍艦に乗船して以降、周りは西洋人ばかりで、頼みの綱は通訳であるソテロのみ。苦しい旅路だったに違いない。
ちなみに、天正遣欧使節はインドを経由し、喜望峰沖をまわってアフリカ大陸西岸に沿って北上、ヨーロッパへ至るルートをとったが、慶長遣欧使節は太平洋を横断してメキシコを経由し、大西洋を渡るという真逆のルートをとった。その結果、天正遣欧使節の半分の年月でスペインにたどり着いている。
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スペイン王と謁見
ついに改宗へ
さて、4ヵ月の船旅を経て10月5日、一行はスペインのサン・ルカール港に到達。ここからセビリア近郊の町コリア・デル・リオに入って旅装を解き、身だしなみを整えた後、セビリアまでの12キロをお披露目をかねて行進した。
ソテロの故郷であるセビリアでは、市民から大歓迎を受け、ハンカチーフのような絹布で鼻水をぬぐう姿を見て、「洗練されている」「クールだ」と評判にもなっている(当時のスペイン人庶民は袖でぬぐうのが普通だった)。その後も首都マドリードへ向かう道中の先々で歓待されたため、予想以上に日数がかかり、マドリードに足を踏み入れたのはクリスマス間近の12月20日。マドリードでは雪が降っていた。
無事にマドリードに到着したものの、スペイン国王フェリペ3世への謁見は、なかなか実現しなかった。宣教師の日本への派遣と、ヌエバ・エスパーニャとの交易を求める使節団に対し、「この交易はスペインに利益をもたらすものではない」というのがフェリペ3世側の判断であり、宣教師派遣は貿易を実現させるための「引き換え条件」ではないかと警戒していたのだ。
しかし、翌1615年1月30日、ついに謁見の機会を与えられる。使節団の目的について、スペイン政府の反応は良くなかったが、フェリペ3世は常長に好意的で、彼らがローマに出向くことを諮問機関の反対を押し切って許可。さらに「常長の洗礼式に列席してほしい」という要請にも応えた。
2月17日、デスカルサス・レアレス修道院にて、フェリペ3世夫妻列席のもと、常長はキリスト教に改宗。洗礼名として、国王の名にちなんだ「フェリペ・フランシスコ」を与えられ、「ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」(六右衛門は常長の別名)となったのだった。
ローマ教皇とも謁見
「仮病」で粘るも…
スペインが態度を軟化させることを願いつつ、8ヵ月もの間、マドリードにとどまった使節団だったが、状況は好転しなかった。ソテロの属するフランシスコ会とはライバル関係にあるイエズス会などにより、伊達政宗が「奥州の王」といっても地方の一有力者にすぎないこと、日本では禁教令が敷かれキリスト教徒弾圧が始まっていることなどが、スペイン側に報告されていたのである。
しびれを切らした8月22日、一行はローマ教皇に仲介を頼むべく、ローマに向けて出発。悪天候に見舞われ旅はなかなか進まず、教皇パウルス5世に謁見し、政宗からの書簡を手渡せたのは11月3日だった。しかしながら、結局ここでも目的を達することはできなかった。ローマ教皇を動かすだけの『利』が、政宗からの手紙の中には認められなかったからだ。
目的を果たせなければ、主に仕える武士として、おめおめとは日本に戻れるものではない。ローマからジェノバなどを経由して、使節団は再び交渉を続けるためにマドリードに戻った。ところが、ここで彼らを待ち受けていたのは、スペインからの退去勧告だった。
滞在費はスペイン政府が用意しており、一行の滞在が長引くと滞在費もかさむ。スペイン政府はできるだけ早く使節団を送り返そうと画策。早々にマドリードを追い払われ、セビリアへと移った常長らは、間を置かずにスペイン政府から出帆日を一方的に告げられてしまう。
これに対して常長は、病気を理由にセビリア滞在を主張。実際に疲労とストレスがたたり瀉血したようだが、何より「スペイン国王から納得のできる返事を書面でもらうまではセビリアから動くまい」という常長の決意は固かった。
常長ら5名を残し、15名の先発隊が一足先にスペインを離れたのは、1616年6月22日のことだった。
一方、なんと日本へ帰らずにコリア・デル・リオに残ることを選択した者も10名近くいた。スペイン、ローマをめぐるにあたって、使節団全員がキリスト教徒に改宗しており、禁教令の敷かれた日本に戻ることを諦めたのかもしれない。
激化する禁教令
3者の夢、敗れる
常長は粘りに粘ったが、この「仮病作戦」は実を結ばなかった。
待てど暮らせどフェリペ3世からの色よい返事は届けられず、1年以上が過ぎた1617年7月4日、失意のうちにスペインを出立。ヌエバ・エスパーニャまでスペイン船で戻り、アカプルコからは、仙台より太平洋を渡って迎えにきたサン・ファン・バウティスタ号に乗り込んで、いったんマニラへ向かった。ただ、ここで同号は、英国・オランダに対抗し、軍備を早急に整える必要のあったスペイン軍に買い取られてしまい、常長らは2年間、マニラにとどまることになる。
ようやく日本への船便に乗り、長崎経由で常長が仙台に帰着したのは、1620年(元和6年)9月20日。月ノ浦を出てから、7年もの月日が経っていた。幕府からは、キリスト教の布教活動を行わないこと、隠棲することなどを条件に許された帰国であった。
仙台藩も常長を隠すように蟄居させ、その記録は極秘資料として倉の奥深くにしまわれた。幕府によるキリスト教徒への弾圧は激しさを増しつつあり、仙台藩もそれに従わざるを得ない世相になっていたのだ。伊達政宗も方針をがらりと変え、徳川家以上の存在になるために外国と交易をする――という野望など、まるで一切抱いていなかったかのごとく過ごしていた。藩内では、ポルトガル人宣教師らが水責めにあって殉教する事件まで起こっていた。
常長は帰国から2年後、1622年8月7日に逝去した。享年51。寂しい、しかし静かな最期であった。
一方、野心を捨てきれない宣教師のソテロは長崎から密入国しようとして捕らえられ、2年間の獄中生活の後、1624年に火あぶりの刑によって49年の生涯を日本で終えている。
さらにその12年後、伊達政宗も病死。遣欧使節団にそれぞれの夢を託した三者は、どの夢も叶うことなく、ひとり残らずこの世から去った。
サムライたちの子孫が多く暮らす町
コリア・デル・リオ
セビリアから離れること約12キロ、車で30分ほどの距離にある小さな町、コリア・デル・リオ(Coria Del Río)。
この町には600人ほどの「ハポン(Japón)」姓の住民がいるが、この「ハポン」とはスペイン語で「日本」を意味する。学術的に証明されてはいないが、彼らは日本へ帰国せずにコリア・デル・リオに残った10名近い慶長遣欧使節団メンバーの末裔だと考えられている。実際に、ヨーロッパ人の新生児には見られないはずの「蒙古斑」が、同町で生まれた赤ちゃんに見られることがあるという。
コリア・デル・リオを流れるグアダルキビル川沿いの公園には、1992年にセビリア万博開催を記念し、宮城県から寄贈された支倉常長の銅像が立っている。その顔は穏やかな中にも強い意思が見え隠れし、視線は東の方角にまっすぐ向けられている。遥かかなたの東に位置する、日本を望むようにこの像は建てられたのだという。400年以上前、常長もこの川岸にたたずみ、遠い故郷を思ったことだろう。
日本に3ヵ所ある⁉
支倉常長の墓
支倉常長の墓と伝えられる場所は、実は3ヵ所ある。
ひとつは、宮城県仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山のひとつ)。もうひとつは、宮城県柴田郡川崎町支倉にある円福寺。そして3つ目が、宮城県黒川郡大郷町東成田の山中(支倉常長メモリアルパーク内)だ。
3ヵ所もあるのは、常長が1622年に死亡したというのは、伊達政宗がキリシタンとなっていた常長を守るために幕府へ報告した「嘘」で、実は政宗の配慮により隠れ住んでいた…と伝わる場所が多いためである。
週刊ジャーニー No.1412(2025年9月25日)掲載


















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