
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 徳川幕府が鎖国に踏み切る直前の1613年、仙台から一艘の国産ガレオン船(南蛮船)が旅立った。乗船していたのは、後に「慶長遣欧使節団」と呼ばれる一行で、最終目的地はスペイン。ある壮大な使命を帯びての船出だった――。 バチカンを目指した「天正遣欧使節団」(1月23日・30日号掲載)が日本に帰国してから23年。新たに欧州へ向けて出立した使節たちの物語を、前・後編の2回に分けてお届けする。
戦国時代を最終的に制した徳川家康が、江戸幕府を開いてから丸10年が経過した1613年。仙台藩の月ノ浦を、慶長遣欧使節団を乗せたガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」が、欧州へ向けて出帆した。
当時の日本は落ち着きをほぼ取り戻してはいたものの、まだ天下を取る野望を捨てきれていない者もいた。その筆頭が仙台藩主・伊達政宗。使節団の欧州訪問は、その政宗の夢、フランシスコ会宣教師ソテロの夢、そして使節団のリーダーに抜擢された政宗の家来、支倉常長(はせくら・つねなが)の夢が、「三位一体」となって実現したものだった。この三者の夢に加えて、幕府の思惑、フランシスコ会のライバルであるイエズス会の思惑、さらにヨーロッパ一の大国であったスペインの思惑などが絡めば、彼らの旅が一筋縄でいくはずもない。それぞれの「利」がぶつかり、荒波にもてあそばれる小さな船のごとく、使節団は様々な苦難に遭遇していくことになる。
打倒・徳川!
日本の皇帝になりたい
映画や小説などで人気の高い伊達政宗は、1567年に出羽国(現在の山形県と秋田県)の米沢城で、伊達家の16代当主の嫡男として誕生。4歳で疱瘡(天然痘)により右目を喪失してしまったが、15歳で見事な初陣を果たして勝利を収め、武将としての素質を見込んだ父から、若干18歳で家督を譲られた。
やがて奥州(東北地方)の覇者となり、「いつの日か天下を取りたい」との野望を抱いた政宗は、戦いに戦った。しかしながら、織田信長亡き後は豊臣秀吉に従い、さらには徳川家に仕えることになった現状に、鬱屈とした思いを抱えていた。
政宗は関が原の合戦の後、仙台に城を置くことを許され、陸奥仙台藩の初代藩主となる。徳川家康は常に彼を警戒し、政宗が富を蓄えすぎないように、江戸での土木工事に巨額の資金を拠出するよう強要したりもしたが、政宗はそうした幕府の仕打ちにくじけることなく、「来る日のため」に自藩の発展に力を尽くていく。灌漑事業を進め、公式には62万石とされていた仙台藩を「実高」100万石以上と言われるほどの「米どころ」にしたのも政宗だ。しかし、米による増収には限界がある。そこで政宗が目を向けたのが、海外であった。
1611年、江戸の路上で偶然にスペイン人大使と出会ったのが縁で、フランシスコ会の宣教師ソテロと知り合った政宗は、ソテロを通訳に抜擢し、使節団を結成させて海外へ派遣することを思いつく。外国との交易は幕府の許可なくしてできないため、徳川家の目を無視するわけにはいかないが、世界の大国スペインとの交易に成功し、仙台藩とスペインが友好関係(または同盟関係)を結ぶに至れば、日本の世界的地位は一気に上昇する。そのチャンスを幕府は見逃すはずがない――勝算はあった。
政宗はすぐさま幕府を説得し、ガレオン船建造の許可をもぎ取って出航の手はずを整えた。「使節団の派遣は幕府への謀反の準備ではない」と大々的にアピールし、出発の半年前には駿府に引退していた家康を訪ね、銀子一千両まで贈っている。だが、本当の狙いは幕府の目をあざむき、外国との交易で力をつけ、さらにはスペインを味方につけて徳川家以上の存在になることだった。
幕府側としても、政宗が自分たちを出し抜こうと考えている可能性を見越しながらも、使節団の計画を中止させなかったのは、その計画を利用するほうが幕府にとってメリットが大きいと判断したからだろう。
打倒・イエズス会!
いずれは司教になりたい
政宗に使節団の通訳に抜擢されたスペイン人のルイス・ソテロは、1574年にスペインのセビリアで生まれ、サラマンカ大学で学んだ後、フランシスコ会に入会した。フランシスコ会は、1206年にイタリアで誕生したカトリック教の男子修道会で、アッシジ出身の聖人フランチェスコが始めたものとされる。同会は創設当初より「東方」への宣教に熱心で、日本では16世紀末より宣教活動を開始し、ソテロが宣教師として来日したのは1603年。ちょうど江戸幕府が開幕した年のことである。
ソテロは1612年、スペイン人大使を介して政宗の江戸屋敷に招待され、使節団派遣のアイディアについて相談を受けるも、幕府がキリスト教禁止令を出したことから逮捕され、火あぶりの刑を宣告されてしまう。そんな危機一髪のところを救い出してくれたのは政宗だった。政宗の助命嘆願運動が実り釈放されたソテロは、すぐに支倉常長らと欧州に向けて出発。彼の役割は、政宗からスペイン王とローマ教皇にあてた日本語の書簡を、それぞれスペイン語に翻訳することであった。
ただ当然ながら、命を救ってくれた政宗への感謝だけで、使節団に加わったわけではない。彼の胸の内に渦巻いていたのは、イエズス会への燃えるようなライバル心だ。
カトリック系のイエズス会は、フランシスコ会よりも300年以上遅れた1534年に創設されたにもかかわらず、またたく間に勢力をのばし、日本でもフランシスコ会より先に宣教活動に着手、絶対的な優位を築いていた。九州出身の少年たちで構成された天正遣欧使節団を率いていたのも、もちろんイエズス会宣教師である。ソテロは日本でのキリスト教布教の活発化に大きく貢献した人物としてスペイン王とローマ教皇に認めてもらい、フランシスコ会の影響力をより高めること、そしてその功績をもっていずれは司教に…という強い野心を抱いていた。
殿のために!
使者役に適任だった男
三位一体の最後のひとり、支倉常長は1571年、政宗の家臣の一門である支倉家に誕生。家臣とはいっても支倉家は重臣ではなく、また政宗が特別に可愛がっていたような記述も残されておらず、なぜ常長がこのような大役を仰せつかるに至ったのか、様々な解釈がある。
たとえば1592年、常長が22歳の時に、秀吉の命令によって朝鮮出兵に駆り出された政宗に率先して付き従い、朝鮮出陣を果たした異国滞在の経験があったこと、その朝鮮出陣の際に「統率力あり」と認められるような活躍を見せたのではないか――。あるいは、使節団の派遣計画が失敗した時に備え、仙台藩の面目が保たれるよう中流の家柄だった常長が選ばれたとする説もある。
しかし、常長は朝鮮出兵前の21歳で、すでに政宗の「使い」としての任を担っていたとも言われており、使者は度胸と強い意志、粘り強さを持ちながら、ときには機転を利かせるなどの柔軟性が必要。相手に良い印象を与え、瞬時に信頼を勝ち取らねばならない高度な仕事を任されていたのが真実ならば、「使者役に適任」と政宗が彼を選出したとしても不思議ではない。実際に、訪問したマドリードやローマでは常長の人柄が絶賛されている。
尊敬する主君が自身に寄せる大きな期待と信頼に応えたい、使節団の目的を何としても果たして藩の発展に尽力したい…。使節団として日本を出立したときの常長は、すでに42歳を迎えていた。「もしかしたら日本の土を踏むことは、もう二度とないかもしれない」との思いは、当然頭をよぎったことだろう。それでも彼は、殿の悲願を叶えるべく命を賭けてその「ミッション」に臨んだ。
いざ海原へ!
奥州から欧州へ
1613年、それぞれの夢や思惑が入り乱れる中、仙台藩の石巻(いしのまき)内の月ノ浦で、ガレオン船と呼ばれた西洋型軍艦の建造が始まった。
スペイン人大使と、幕府から派遣された船手奉行の指導と協力のもと、大工や鍛冶職人、その他の労働者合わせて4400人が携わる大工事により、わずか45日という異例の速さで木造帆船「サン・ファン・バウティスタ(San Juan Bautista=洗礼者・聖ヨハネ)号」が完成。同年10月28日(慶長18年9月15日)、真っ白な帆を張り、月ノ浦から海原に滑り出した。同船に乗船していたのは約180名で、その内訳は通訳(主席大使)の宣教師ルイス・ソテロ、大使の支倉常長、幕府側の武士10名、仙台藩の武士12名、スペイン人・ポルトガル人が約40名、そのほかに堺の商人、仙台藩の家来や水夫など約120名だった。
船がまず目指したのは、当時スペイン領だったヌエバ・エスパーニャ(「ニュー・スペイン」という意味で、現在のメキシコ)。ヌエバ・エスパーニャとの交易を成立させた後、次に向かうはスペインとなる。今後の困難を予見するかのように、東北ではすでに長く厳しい冬の始まりを知らせる冷たい風が吹きはじめていた。 ()
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週刊ジャーニー No.1411(2025年9月18日)掲載


















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