
左:ローマを指さす中浦ジュリアン像(長崎・中浦ジュリアン記念公園)
■ 織田信長の亡き後、豊臣秀吉が天下統一に向けて奮闘していた、1585年(天正13年)。
日本から遥か遠く離れたイタリア・ローマでは、カトリック教会の長である教皇との謁見に望もうとする 4人の日本人の姿があった――。
のちに「天正遣欧使節」と呼ばれる、時代に翻弄された九州出身の少年たちの物語を前・後編の2回に分けてお届けしたい。
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
25年ごとの「聖年」を迎えたバチカン
カトリック教会の総本山であるバチカンの一大イベント、「聖年(ジュビリーイヤー)」をご存知だろうか?
聖年とは、これまで犯したすべての罪が赦されるチャンスを与えられた、特別な年のこと。この年に神からの「大赦(the Jubilee)」を得られた人は、生を終えた後、必ず天国へ行けるという。この時別免償を与えられるには「やるべきこと」が色々とあるものの、もっとも重要なのが25年に一度しか開放されない、サン・ピエトロ大聖堂などに設置された黄金の「聖なる扉(Porta Santa)」を通り抜けることなのである。
聖年の起源は今から700年以上前の1300年、教皇ボニファティウス8世が制定。当初は100年ごとの開催だったが、のちに50年ごとになり、1475年以降は25年ごとに開かれている。2025年は、その聖年にあたる。「天国への近道」とも言える聖なる扉を目指して、今年は世界中から多くの信者や観光客がバチカンを訪れることだろう。

さて、今や知らぬ人はいないキリスト教だが、この信仰を遥か遠い日本に初めてもたらしたのは、1549年に九州に上陸したイエズス会(Society of Jesus)の宣教師フランシスコ・ザビエルだ。イエズス会は、1534年に誕生したカトリック教の男子修道会で、スペイン・バスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルら6人の同志が結成した。同会は「キリストの兵士(Soldiers of Christ)」、同会の会員は「教皇の歩兵(Foot Soldiers of the Pope)」と呼ばれ、教皇の望む場所ならばどこへでも赴き、イエズス会のモットーである「宣教活動、教育活動、社会正義活動」を積極的に行っていた。そうした中でザビエルが布教に訪れたのが、乱世の日本だったのである。
織田信長や、一時は豊臣秀吉も興味を示したと言われるが、実際の布教活動は困難を極めた。ザビエルは2年ほど日本に滞在したものの、拠点としていたインドに一旦帰国。日本での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、今度は中国へ渡ろうとするも、志半ばで病死している。
イエズス会宣教師の大いなる目論見
そして次に布教の命を受けて来日したのが、イタリア人巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノだ。イエズス会は創設メンバー6人のうち、4人はスペイン人、残り2人はポルトガル人であったことから、同会ではスペイン・ポルトガル出身者が2大勢力を誇っていた。この2大勢力の出身者が重要ポストを独占するのを避けようと、同会は東インド地域をまわる巡察師(東洋一帯を担当)という重要職に、イタリア人のヴァリニャーノを抜擢したのである。

ヴァリニャーノが初来日を果たした1579年当時、日本におけるイエズス会の布教活動は目も当てられないものとなっていた。
キリスト教の教えとして「恵まれない者への救済」は非常に重要なものだが、戦国時代の疲弊した日本で救済活動を積極的に展開したことにより、「キリスト教=貧しい者の宗教」というイメージが定着してしまっていたのだ。また、教会や教会付属の病院では、人々に忌み嫌われていたハンセン病や梅毒の患者を受け入れたため、カトリック教会の評判が損なわれるというジレンマにも直面。さらに、男色を罪とするキリスト教の教えは、名立たる戦国大名らの「衆道(男色)」の文化を否定するものであったので、怒りを買うこともあった。
極東における布教活動に、イエズス会本部から送られてくる資金は限られており、不足分をまかなうためにも、富裕層の信者を増やして寄付を募る必要に迫られていた。そして、富裕層には影響力のある人物が少なくなかったことから、こうした人物をカトリックに改宗させることは、より多くの信者を獲得する有効な手立てでもある。だが、清貧を表す質素な身なりをしていた修道士たちの姿は、カトリック教会への過小評価を招き、有力者の興味を引いたり、尊敬を受けたりするには遠い存在であった。
ヨーロッパのキリスト教世界の偉大さを、なんとかして日本人に知らしめたい――。
苦悶したヴァリニャーノがやがて考えついたのは、使節の派遣。しかも、使者は若き少年たちとする大胆な策だった。立派なカトリック教徒となった日本人少年たちに、スペイン国王やローマ教皇の前で敬意と従順の意を示させれば、教皇らの心が動き、日本での布教活動のための多大な資金援助を得られるかもしれない…。少年たちが日本へ帰国した後、同胞の彼らの口からキリスト教世界の偉大さと素晴らしさを語らせれば、日本での布教活動に役立つのではないか…。
ヴァリニャーノは、この壮大な計画を実現すべく、準備を急いだ。

天正遣欧使節とかかわった九州のキリシタン大名たち
■ 九州の大名が洗礼を受けて「キリシタン大名」となったのは信仰心からではなく、ポルトガルとの交易、すなわち南蛮貿易を少しでも有利に進めるためだったと分析されている。しかし、「天正遣欧使節を送った」とされる3大名は、洗礼を受けた後、実際に敬虔なキリスト教徒になっている。

大友宗麟(おおとも・そうりん)
生没年:1530~87
「宗麟」は出家後の法号で、俗名は「義鎮(よししげ)」。洗礼名は「フランシスコ」。中国への遣明船の派遣など海外貿易による経済力、優れた武将陣、優れた外交により、北九州東部を平定。一時は九州最強の大名となるが、島津義久に敗れて勢いを失う。晩年には豊臣秀吉傘下に入った。

大村純忠(おおむら・すみただ)
生没年:1533~87
大名としては初めてキリスト教に改宗した人物。洗礼名は「バルトロメオ」。現在の長崎港を開いたことでも知られる。領民にもキリスト教信仰を奨励し、子どもたちも全員洗礼を受けている。

有馬晴信(ありま・はるのぶ)
生没年:1567~1612
大村純忠の甥。洗礼名は「プロタジオ」。ヴァリニャーノの口利きでポルトガルより軍事物資の援助を受け、自領を守ることに成功。家督を継いだ当初はキリシタンを嫌悪していたと言われるが、ヴァリニャーノに感謝して、以降はキリスト教徒となった。
過酷な船旅へ選ばれた若き少年たち
使節派遣に協力したのは、九州北部に領地を有するキリシタン大名、大友宗麟(おおとも・そうりん)、大村純忠(おおむら・すみただ)、有馬晴信(ありま・はるのぶ)の3名だった。
「太陽の没することなき帝国」を統治していたスペイン国王フェリペ2世、そして教皇グレゴリウス13世に、敬意を表するために「名代」として少年たちを派遣した――というのが表向きながら、実際には3大名はほとんど関わっていなかったのではないかとする、後世の研究者たちの見解もある。事実、大友宗麟にせよ、大村純忠にせよ、それぞれ近隣大名との戦いで疲弊し、使節をヨーロッパへ送る財政的な余裕はなかった。また、有馬晴信にいたっては、ヴァリニャーノの計らいでポルトガルから大規模な物質援助を受けたことで、攻め滅ぼされる寸前だったところを救われており、その恩に報いるためにキリスト教徒の「洗礼」を受けたという「にわかキリシタン」だ。
彼ら3大名が積極的に使節を送ったと推測するのは不自然と言えそうだが、反対する理由はまったくなかったのかもしれない。いずれにせよ、受身的な姿勢だったとみるのが妥当だろう。
有馬晴信の領内には、良家の子弟たちを教える神学校「セミナリオ」があり、使節のメンバーはそこから選ばれた。選出されたのは、いずれも成績優秀、容姿端麗、長旅に耐えられると思われる丈夫な少年たちで、正使2人、副使2人の合計4人だった。
日向国主の孫で大友宗麟の縁者でもあり、もっとも血筋がよく、また4人の中ではリーダー的な存在として頼りにされた伊東マンショ(13歳くらい/主席正使)。大村純忠の甥で、有馬晴信の従兄弟という千々石(ちぢわ)ミゲル(13歳くらい/正使)。肥前国の領主の息子で、旅程中はたびたび発熱し寝込むことも多かったが、信仰心は一番強かった中浦ジュリアン(14歳くらい/副使)。肥前国の名士の息子で、語学センスが際立ち、帰国時には流暢にラテン語を操るほどに上達した原マルチノ(13歳くらい/副使)。抜擢された4少年の胸のうちはわからない。だが、セミナリオに入学した時点で、修道士になることを目指してキリスト教を学ぶこと、親元を離れて暮らすことが定められていたため、「雲の上の存在」である教皇に謁見できる期待と幸福を噛みしめて、案外意気揚々と日本を発ったのかもしれない。
使節となった4人の少年たち

伊東マンショ(伊東満所):図右上
生没年:1569?~1612
大友宗麟の名代。血筋は良かったが、両親を早くに亡くし孤児だった。責任感が強く、正使としての役割を果たそうと、常に意識していた。トスカーナ大公主催の舞踏会では「大胆に構え、勇を鼓して」臨んだといい、見事にビアンカ大公妃と踊ることに成功した。
中浦 ジュリアン(中浦寿理安):図左上
生没年: 1568?~ 1633
ヨーロッパではしばしば体調不良で寝込み、教皇との謁見時にも発熱でバチカンへ行くのを断念。だが後日、個人的に謁見を許された。使節として十分な訪問活動ができなくても、多くの人々の厚意に助けられたことから信仰心を深くし、4人の中で唯一殉教した。
千々石ミゲル(千々石弥解留):図右下
生没年:1569?~1633?
大村純忠の名代。大村純忠の甥で、有馬晴信の従兄弟でもあった。4人の中で唯一棄教したと伝えられていたが、2003年に長崎県諫早市で夫妻の墓所を発見。調査した結果、副葬品からミゲルが晩年までキリスト教信仰を保っていた可能性があると報告されている。
原マルティノ(原丸知野):図左下
生没年:1569?~1629
4人ともにラテン語の勉強に励んだが、もっとも語学の才能に優れ、訪問したインドではラテン語で演説を行っている。洋書の翻訳や出版活動に尽力し、キリシタン追放令の発布でマカオに渡航してからも、日本語書籍の印刷・出版を続けた。
巡察師として同行したのは、ヴァリニャーノのほか、同じイエズス会の修道士2人、そして日本人の修道士と随員の少年2人もいた。
1582年(天正10年)2月20日、ポルトガル船にて一行は長崎港を出港。バチカンに到着するのは、3年後のことである。
4少年は初めての航海で、ひどい船酔いに苦しんだ。暴風雨に見舞われて死と隣り合わせの恐怖に襲われたり、一方で灼熱の太陽のもと、無風状態で飢えと乾きに苦しめられたりと、まさに命を賭けた旅を続けることになる。おそらく彼らは何よりも心の支えを欲し、その支えとなったのはきっと「デウス様」(イエス・キリストのこと)。信仰心を日々篤くした3年であったことは想像にかたくない。
週刊ジャーニー No.1377(2025年1月23日)掲載