
■ 織田信長の亡き後、豊臣秀吉が天下統一に向けて奮闘していた、1585年(天正13年)。
日本から遥か遠く離れたイタリア・ローマでは、カトリック教会の長である教皇との謁見に望もうとする4人の日本人の姿があった――。
のちに「天正遣欧使節」と呼ばれる、時代に翻弄された九州出身の少年たちの物語の後編をお届けする。
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
謙虚な態度が高評価!「王子」級の歓待
1582年(天正10年)2月20日にポルトガル船にて長崎を出港した、13~14歳の少年4人(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)から成る天正遣欧使節と、イエズス会の巡察師らを含めた一行は、インドを経由、喜望峰沖をまわってアフリカ大陸西岸に沿って北上し、ヨーロッパへ至るルートをとった(下図参照)。
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ちなみに余談だが、天正遣欧使節が日本に帰国してから23年後に、東北の有力大名・伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教の容認と引き換えに通商交渉を求めて、スペイン国王とローマ教皇のもとに「慶長遣欧使節」を送っている。このときは太平洋を横断してメキシコを経由し、さらに大西洋を渡るという真逆のルートをとった。慶長遣欧使節は1年ほどでヨーロッパに到達したのに対し、天正遣欧使節はその2倍以上もの月日がかかったのは、船の性能や気象状況もあるとはいえ、ルートの違いが大きく影響したと言えるだろう。
4少年は初めての航海でひどい船酔いに苦しみ、原マルティノは「五臓六腑も吐き出されるのではないかと思った」と後に語っている。死と隣り合わせの未知の恐怖に襲われながらも、長崎を発ってから約2年半が過ぎた1584年8月10日、ポルトガルの首都リスボンに上陸。サン・ロケ教会の付属修道院でようやく身体を休めることができたのだった。
その後、一行はリスボン近郊のシントラにある王宮で、ポルトガルの副王と対面。そこから一路、超大国スペインの首都マドリードへ向かい、ポルトガル国王も兼任するスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける。さらには、海路でマヨルカ島を経由してトスカーナ公国に上陸し、その隣のローマ教皇領に入り、ついにローマへ到達したのであった。

さて、この天正遣欧使節の派遣を計画したイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、4少年の身分がそこまで高くないことについて、実は内心、非常な恐れを抱いていたという。キリシタン3大名の「名代」という表向きはあるものの、実際には高貴な身分であるかのように見せかけて、教皇のもとまで連れていかなければならない。少年たちには歓待を受けないよう注意を促し、行く先々のイエズス会関係者にも「くれぐれも使節を厚遇しないように」と伝えていた。
ところが、彼らが歓待を固辞すればするほど、それは謙虚さ、慎み深さととられ、使節の評価は高まっていった。教皇に謁見する頃には、一国の「王子」級の扱いを受けるまでになっており、各地で熱狂的な歓迎を受けている。ちなみに、少年たちはラテン語で意思疎通をはかり、一行以外の人々と直接話すことは禁じられていた。これは「ヨーロッパの悪い部分は一切見聞きさせてはならない」というヴァリニャーノの強い指示だった。
2人の教皇に抱擁された少年たち
春まだ浅い、1585年3月23日。
リスボンに到着してから7ヵ月におよぶヨーロッパ横断を経て、いよいよ教皇グレゴリウス13世との謁見の日が訪れた。長い船旅で蓄積した疲労のせいか、ヨーロッパに降り立って以降、発熱を繰り返していた中浦ジュリアンは、この日も高熱が下がらずに謁見の場に参加することは無理だと判断され、泣く泣く仲間たち3人を見送った。3使節は教皇から遣わされた馬にまたがり、日本からはるばる持参した着物を着用してバチカン宮殿へと向かった。沿道は珍しい日本人を見ようとする群衆で埋めつくされ、祝砲が鳴り響き、大騒ぎだったと記録されている。
バチカンの「帝王の間」に通された少年たちはついに、83歳という高齢のグレゴリウス13世との謁見を果たす。教皇は、地球の裏側からやってきた、16~17歳という若き敬虔なキリスト教徒である東洋人3人を優しく抱擁し、涙を流したという。「帝王の間」に居並ぶ枢機卿、諸侯たちも涙を禁じえず、ヴァリニャーノの打算的な目論見などを遥かに越えた、歴史的な出来事がここに実現したのだった。
しかし、思わぬことが起こった。わずか2週間ほどの後の4月10日、まるで「役割を果たした」かのように、グレゴリウス13世が急逝。使節たちは大いなる悲しみに打ちのめされる。幸いなことに、新教皇シクストゥス5世も一行には好意的で、改めて4少年は謁見に招かれた上に、5月1日の教皇戴冠式にも招待された。ただ、この戴冠式の日も中浦ジュリアンは発熱し、参列できていない。

ローマ市民権を与え、聖ペトロ騎士団の騎士にも叙せるなど、教皇2人の歓待ぶりはイタリア中に伝わり、ローマを辞した一行は、有力諸侯らからの引きも切らぬ招待攻めにあうことになる。より華やかに、より手厚く一行を歓待しようと競い合う諸侯たちに、「塩で味付けせずに茹でただけの米と、湯」を好み、肉は鶏肉を少々食べるのみを徹底していた少年たちは困惑した。使節団は各所で豪奢な品々を贈られ、財政的援助を受けていく。
帰国できない!キリシタンの追放
さて復路は、現イタリア国内で拮抗していた有力諸侯のもとを歴訪しながら、再び海路でスペインに戻り、ポルトガルのリスボンへと帰着した。1586年4月13日にリスボンを出立、帰国の途についた。教皇との歴史的な謁見を終えてから、すでに1年が経過していた。
日本へ帰国した後は、同胞の少年使節らの口からキリスト教世界の偉大さと素晴らしさを語らせ、日本での布教活動に役立てようと目論んでいたヴァリニャーノだったが、数年の間に状況は大きく変化し、日本ではキリスト教徒にとって暗い受難の日々が始まろうとしていた。豊臣秀吉が1587年に「バテレン(宣教師)追放令」を発布。使節一行は帰国が許されず、インドのゴアで足止めされてしまう。日本は急速に反キリスト教へと向かっていた。
ゴアを出港し、マカオを経てようやくなつかしい長崎へとたどり着いたのは、1590年7月21日のこと。まだ見ぬヨーロッパへと大海原にこぎだしてから8年半もの歳月が流れ、あどけなかった少年たちは、21~22歳の立派な青年たちに成長していた。
一行は長崎から上京し、翌1591年3月に豊臣秀吉が暮らす京都・聚楽第に招かれる。4青年は教皇から賜った上質な西洋服を身にまとい、ヨーロッパから持ち帰ったクラヴィチェンバロ(小型ピアノ)を演奏して、ラテン語の歌を披露。様々な西洋楽器や絵画、そして連れてきた1頭のアラビア馬といった数々の品々を献上した。秀吉からは豊臣家に仕えるよう言われたものの、4人とも丁寧にそれを辞退している。
やがて徳川幕府の時代を迎えた日本は、鎖国とキリスト教の完全禁止に踏み切る。1614年、徳川幕府はキリスト教禁止令を発布。明治維新後の1873年に信仰の自由が認められるまでに、約3万人ものキリスト教徒が棄教よりも死を選んだ。

4人のその後はというと、リーダー格だった伊東マンショは秀吉にとくに気に入られ、強く仕官を勧められたが、彼は司祭になることを決めていた。熊本・天草にあった修練院(カトリック教会の修道士の養成機関)へ入り、2年後の1593年にイエズス会に入会。ほかの3人も一緒だった。1601年にはマカオの神学校へ留学、やがて司祭に叙階されている。日本の神学校で教鞭をとりながら布教活動を続け、1612年に長崎で病死した(享年43)。
ヨーロッパでは体調不良に悩まされた中浦ジュリアンだったが、多くの人々の厚意に助けられたことから最も信仰深い司祭となり、1614年にキリスト教禁止令が発布された後も日本に潜伏。約20年に渡って、キリシタン弾圧下でひっそりと布教活動を行った。1632年に福岡で捕縛され、長崎へ送られて拷問を受けるも、かたくなに棄教を拒絶。穴吊るしの刑で処刑された(享年65)。
伊東や中浦と同様に司祭になった原マルティノは、キリスト教禁止令が発布された際にマカオへ避難。ラテン語に優れ、語学の才能があった彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳や出版活動に取り組み、信心書などを刊行した。1629年にマカオで病死している(享年60)。
そして棄教したと伝えられている千々石ミゲルだが、ほかの3人とともにイエズス会に入会したものの、1601年にマカオの神学校へ留学するときには同行せず、棄教を宣言。イエズス会から除名処分を受け、「千々石清左衛門」と名を改めて藩士になった。しかし、親キリシタン派から裏切り者として命を狙われ、1633年頃に長崎で亡くなったとされている(享年64)。だが、この棄教説には近年、疑問がささやかれている。2003年に千々石の墓が発見されたが、妻の墓所からヨーロッパ製のロザリオとみられる遺物が見つかっており、実はキリスト教信仰を保っていた可能性があるという。
時代と様々な思惑に翻弄された、4人の少年たち。この天正遣欧使節によって、ヨーロッパの人々に日本の存在が広く知られるようになったことは間違いない。彼らの目に、世界はどう見えたのだろうか。
大混雑必至!2025年はバチカン「聖年」

これまで犯したすべての罪が赦され、死後に天国へ行けるという「約束」を得られる、なんとも太っ腹な「聖年(ジュビリーイヤー)」。25年に一度しか開放されない「聖なる扉」を通り抜けようと、今年は多くの信者や観光客がバチカンを訪れることが予想される。
聖なる扉は、サン・ピエトロ大聖堂をはじめとして、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂の4つの主要大聖堂に設置されており、どれかひとつをくぐり抜ければOK。でもこの機会にローマを訪れるなら、ぜひ4つすべてコンプリートしていただきたい。
今年の聖年期間は、 2026年1月6日まで。

週刊ジャーニー No.1378(2025年1月30日)掲載


























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