
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 日本の「怖い昔話」の代表作である「耳なし芳一」。その作者として知られる小泉八雲は、実は日本に帰化した英国人。生まれ持った名前はラフカディオ・ハーンで、日本人の妻・セツとともに数々の「怪談」を生み出した。小泉八雲&セツ夫妻をモデルにした「ばけばけ」(NHK連続テレビ小説/9月29日~)の放送を目前に控えた今回は、八雲について深掘りしてみたい。
ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、1850年にギリシャのレフカダ島で生まれた。父親はアイルランド人(当時は英国籍)、母親はギリシャ人で、英陸軍の軍医補だった父が赴任先のギリシャで母と出会い、恋に落ちて生まれたのが八雲だった。
八雲が2歳のときに、父の故郷アイルランドのダブリンへ移住したが、生活に馴染めなかった母は、八雲を残してギリシャへ帰国。父もすぐに別の女性と再婚し、インドへ赴任してしまう。取り残された八雲は、大叔母に預けられることになった。両親に捨てられ孤独に沈む彼に、大叔母はアイルランドに伝わるケルトの伝承を語って聞かせ、次第に彼の心は妖精譚や不可思議な怪談に占められていくことになる。もともと感受性が強く、幽霊を目撃するといった怪異を経験することも多々あった。
八雲はダラムの寄宿学校に進学したものの、大叔母の破産により中退を余儀なくされ、一念発起して渡米。オハイオ州シンシナティで困窮した生活を長く送るも、雑誌への寄稿をきっかけに新聞社で記者職を得ることに成功する。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、カリブ海のマルティニーク島などへ移り住み、文化の多様性に魅了されていった。
やがて英訳された「古事記」を読んで日本に興味を持ち、1890年、40歳で初来日。英語教師の職に就き、憧れた日本古来の神々が暮らす地、出雲(島根県)に居を定めるが、そこで出会ったのが、後に妻となる住み込み女中の小泉セツであった。
八雲はセツと結婚し(このとき初めて)「小泉八雲」と名を改め、熊本、神戸での勤務を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学)で英文学を教えながら、執筆活動にもまい進。急速に近代化が進んでいく中で、失われようとしている日本の古い文化や伝統を守ろうと、「知られざる日本の面影」「怪談」といった名作を次々と世に送り出していった。その陰に、セツの協力と夫婦の強い絆があったことは疑いようがない。
八雲が左目を隠す理由…実は隻眼だった!?
八雲は多くのセルフポートレートを残しているが、どの写真でも顔の左半分を隠している。これはダラムの寄宿学校時代に、ロープを使って遊んでいたところ、結び目が左眼に当たって失明してしまったことが原因。白濁した左眼を嫌悪し、残った右眼も失明したら盲目になってしまうという不安に常に駆られ、事故後はすっかり内向的な性格になってしまった。また、その残った右眼も強度の近眼で、望遠鏡や虫眼鏡を愛用していた。

エッセイ「乙女のだるま」では、片眼が描かれる前の隻眼のだるまと自分を重ね合わせるなど、失明は彼の大きなコンプレックスとなっており、「耳なし芳一」に登場する盲目の琵琶法師も自身の投影とも言える。
18歳差の八雲とセツ、2人はともに再婚同士だった!
八雲は米国シンシナティで暮らしていた24歳のとき、下宿先で料理人をしていた女性と結婚している。彼女は白人の農場主と黒人奴隷との間に生まれた「混血」で、当時のオハイオ州法では白人と有色人種の婚姻は認められていなかった。八雲は周囲の反対を押し切って結婚したが、会社にバレて解雇されてしまい、結婚生活も上手くいかなくなって別居。3年ほどで婚姻関係は破綻した。
一方、セツは18歳のときに、鳥取の士族出身の男性と結婚。男性は婿養子としてセツの家に入ったが、彼女の家が思った以上に貧窮していたことに驚愕し、耐えかねて1年ほどで出奔している。
八雲とセツが出会ったのは、八雲が40歳、セツが22歳のとき。2人はゆっくりと惹かれ合った。
「八雲」と命名したのは…?
長男が生まれた頃から、「外国人との間に生まれた子どもは、将来苦労するのではないか…」と不安に思いはじめた八雲は、日本への帰化を考えるようになった。やがて日清戦争が始まり、日本で排他主義思想が高まってくると、八雲は島根、熊本での英語教師生活に見切りをつけ、神戸で新聞記者として復職。そして1896年、小泉セツの戸籍に入夫する形で正式に結婚し、「小泉八雲」と名を改めて日本に帰化した。
「八雲」とは、「古事記」に登場するスサノオノミコトが詠んだ日本最古の和歌「八雲立つ…」に由来しており、セツの祖父の発案でこの名前に決まったという。
ちなみに、2人は日本で191組目の国際結婚カップルだった。
八雲の日本語は上手くなかった!?

日本に来て以来、必死に日本語を覚えようとした八雲だったが、あまりの難しさに断念。日本語の資料を読めないため、英語ができる人に英訳してもらっていた。当然ながら、八雲が執筆した著作はすべて英語。「怪談」も「KWAIDAN」という書名で出版されており、日本の文化や伝統を海外に広める役割を果たした。私たちが読んでいる「怪談」は、「KWAIDAN」が邦訳されたものである。
セツも英語を話せなかったことから、初めは八雲が辞書を片手に片言の日本語でコミュニケーションをとっていたが、やがて2人だけが理解できる独特の日本語「ヘルン言葉」で意思疎通を図るようになった。「ヘルン( Hearn)」とはラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)の苗字に由来している。
日本食は苦手?八雲の食習慣
日本の古き良き文化を愛した八雲だが、実は日本食が苦手で、そうした自分を恥じていた。とは言っても、来日直後は日本食を頑張って食べていたが、無理した食生活で体調を崩してからは食べ慣れた洋食中心の生活をするようになった。
セツや子どもたちとは別の料理をいつも食べていたが、ウナギと奈良漬けは好んでいたという。ちなみに、八雲の好物はビフテキとプラム・プディング。
八雲最期の言葉

八雲は1904年9月19日、最初の心臓発作を起こした。無事に症状は治まったものの、自分に何かあった後の家族の行く末を心配した八雲は、念のために遺書を作成。その1週間後の9月26日の夜、夕食を終えた後に2回目の心臓発作が襲い、「ママさん、先日の病気、また参りました」(八雲とセツは互いに「ママさん」「パパさん」と呼び合っていた)と話して横になると、そのまま息を引き取った。享年54、セツは36歳という若さで、4人の子どもを1人で育てることになった。
小泉八雲の代表作「怪談」
登場する幽霊・妖怪たち

八雲の著作のうちの数作品は、もともと原典があるものを彼独自の解釈を含めて再構成した「再話文学」となっている。
代表作である「怪談」は、17編の怪談と3編の虫に関するエッセイで構成されており、なかでも最もよく知られている話が「耳なし芳一」。ストーリーは、ある蒸し暑い夜、盲目の琵琶法師・芳一は鎧兜を身につけた武士に導かれ、たどり着いた屋敷で「壇ノ浦の合戦」を語り聞かせる。「『わが君』が大いに満足しているので、6日間続けよ。そして、そのことを誰にも告げぬように」と命じられるが、異変を感じた寺の和尚に「武士の正体は平家の怨霊で、『わが君』とは亡き安徳天皇である」と告げられる。芳一の身を案じた和尚は、彼の身体中に経文を書き写し、怨霊から守ろうとするも、うっかりと耳に経文を書き忘れ、両耳だけ怨霊に引きちぎられてしまう…というスプラッタ・ホラー。なんと八雲の一番お気に入りの物語だったという。
そのほか、「怪談」には「むじな(のっぺらぼう)」「ろくろ首」「雪女」「食人鬼」などが収録されている。
小泉八雲夫妻が眠る墓所 雑司ヶ谷霊園
江戸時代に御料地(将軍家が管理する土地)だった同所は、3代将軍・徳川家光(在職:1623~51年)の時代に薬草を栽培するための「御薬園」となり、8代将軍・徳川吉宗(在職:1716~45年)の頃には将軍が鷹狩をする際の鷹を飼育する「御鷹部屋」となっていた。
しかし、明治政府が許可のない自葬や火葬の禁止令を発布した(神主や僧侶による葬儀を義務付けた)ことによる共同墓地の需要増加に伴い、1874年に東京府(東京都)が管理を引き継いで、雑司ヶ谷霊園として開園された。
著名人の墓が多くあり、英国関係では小泉八雲のほか、夏目漱石、ロンドン留学時代に漱石と同居していた池田菊苗(化学者)の墓などがある。案内マップは管理事務所で無料配布されている。
小泉八雲と妻・セツの墓
【場所】1種1号8側35番

八雲の墓は中央、セツの墓は左。近くにはフランス文学と縁の深い永井荷風(作家)の墓もある(1種1号7側3番)。以前は泉鏡花(作家)の墓もあったが、2年ほど前に神楽坂へ移送された。
夏目漱石と妻・鏡子の墓
【場所】1種14号1側3番

文部省が派遣する国費留学生の第1号として、ロンドン留学を果たした夏目漱石。今年は最初の小説「吾輩は猫である」(1905年)の出版から120年となる。雑司ヶ谷霊園は、漱石の小説「こゝろ」の舞台にもなっている。
雑司ヶ谷霊園 東京都豊島区南池袋4-25-1
【アクセス】雑司ヶ谷駅(都電)から徒歩5分/雑司が谷駅から徒歩10分/東池袋駅から徒歩10分/池袋駅から徒歩15分
週刊ジャーニー No.1410(2025年9月11日)掲載


















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