美術館の一角と説明しても通用しそうなガンツ・ヒル駅構内。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■遅延は当たり前、途中駅も時には停車せずに通過し、目的地駅も途中で変わり(!)、ストライキや改修工事による運休も多く、市民の満足度が高いとはいえないロンドンの地下鉄。
だが、ひとたびその目を、駅を彩るアートとデザインに向けてみると全く違った風景が見えてくる。
それぞれの駅が異なる個性を持ち、新しい発見に満ちている。いつしか全駅制覇してみたいとも思わせる、デザインの魅力。今週号と来週号では、駅に降り立つのが楽しみになるロンドン地下鉄アート案内をお届けしたい。

パブリック・アートの目覚め

「どんな場所であれ、命あるところに芸術は存在する」
1917年にフランク・ピック(Frank Pick)が漏らした言葉だ。ピックは芸術家ではなく、33年に発足した現在のロンドン交通局の前身となる組織、ロンドン旅客輸送委員会(LPTB)の常務だった人物。パブリック・アートとデザインの重要性を深く理解し、駅の設計や字体の統一、路線図の改良を断行するなど積極的にデザイン・プロジェクトを進めた業績で知られる。今日、私たちが目にするロンドン地下鉄駅の高い芸術性は彼の力によるものが大きい。

シカゴからの新しい風

1863年に世界で初めての地下鉄、メトロポリタン鉄道(後のメトロポリタン・ライン)がパディントン駅~ファリンドン駅区間で開業。その後、次々と路線が開通し、20世紀初めまでには9つの異なる鉄道会社が乱立した。すなわち、①メトロポリタン鉄道(1863年開業)②メトロポリタン・ディストリクト鉄道(68年)③シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道(90年)④ウォータールー・アンド・シティ鉄道(98年)、⑤セントラル・ロンドン鉄道(1900年)⑥グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道(04年)⑦ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道(06年)⑧ グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道(06年)⑨チャリング・クロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(07年)が、別々に運営されていたのだ。

馬車や路面電車との競争も激しかったため、各社ともに運賃の値引きなどで利用客の獲得を狙った。しかし、決して安くない運営コストをまかないつつ、収益性の高い郊外への延伸を目指すにあたり、資金繰りは困難を伴った。

そこに登場したのが、米国人投資家チャールズ・ヤーキス(Charles Yerkes)である。シカゴでの路面鉄道ビジネスで富を得た後、ロンドンの地下鉄事業に関心を示し、1900~02年にかけて次々と路線を買収。02年にはそれらを傘下に収めたロンドン地下鉄電気鉄道会社を創立する。この合併は地下鉄の電力化推進と駅舎デザインの統一に大きく貢献した。

ピカデリー線、ホロウェー・ロード駅内のタイル。

03年には建築家レスリー・グリーン(Leslie Green)が採用され、現在のピカデリー線、ベーカールー線、ノーザン線にあたる路線で、4年のあいだに50駅の駅舎をデザインした。駅舎はオックス・ブラッド・カラーと呼ばれる赤いテラコッタタイルで覆われた鉄筋構造で、上階に半円状の窓を持ち、駅舎上階に商業施設を追設することを考慮し、平面の屋根で統一。内部には各駅で異なる美しい模様のタイルを施し、ひとめでグリーン設計の駅だと分かる造りになっている。
しかし、グリーンはあまりの短期間で数多くの駅のデザインと設計監督をこなさなければならない仕事のプレッシャーと激務からか結核を患い、33歳という若さでこの世を去ることになる。その早い死を多くの人が悼んだ。

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「地下の鉄道」のブランド作り

ヤーキスが新風を吹き込んだかと思われたロンドン地下鉄電気鉄道会社だったが、開業当初から経営危機に見舞われた。莫大な借入金の利子の支払いが経営を圧迫し、乗客数も依然として伸び悩んでいたのだ。

経営の見直しから1907年にジェネラル・マネージャーに就任したアルバート・スタンレー(Albert Stanley)が傘下に入っていない路線も含め、すべてのロンドンの地下鉄路線を「アンダーグラウンド(The Underground)」のブランド名でまとめるとともに、予約システムや統一運賃の導入を決定。収益の改善を図った。

08年には赤い丸と青い横帯を組み合わせた図案が考案される。青い横帯内に駅名や『UNDERGROUND』と白抜きで書かれた統一ロゴマークの「ラウンデル(The Roundel)」の登場だった。

スタンレーの右腕としてデザインに大きく貢献したのが、13年にコマーシャル・マネージャーとなった、先述のフランク・ピックだ。良いものは使いやすく機能的なものであるべきだというデザイン信念を持ち、「駅名の表示などを覚えやすく認識しやすくすること、そして環境に良く馴染むもの」という依頼のもとに、エドワード・ジョンストン(Edward Johnston)に書体作成を任せた。ジョンストンによる書体『ジョンストン・サンズ』はいくたびかの改良が重ねられたものの、今日でも見ることができる。
また、統一書体の制定だけでなく、それまでは大きさもばらばらで駅構内の至る所に貼り出された広告ポスターのサイズ規格や枚数を統一したほか、乗客が駅名を見やすいようにしたのもピックのアイディアだった。

20年代以降には郊外への路線の拡張とともに駅舎のデザイン計画にもピックは深く関わる。建築家チャールズ・ホールデン(Charles Holden)を採用し、モダニズム建築による駅舎が30年代、主にピカデリー線の北東エリアで数多く生まれた。広いコンコースで切符売り場の混雑を緩和し、乗客が電車にすぐに乗れるよう、エスカレーターも導入された。

33年には、地下鉄をはじめバスや路面電車をすべて統括する公共機関として創設されたロンドン旅客輸送委員会(LPTB)で、スタンレーは会長に、ピックは常務に就任。地下鉄路線図の改良など様々なプロジェクトにより、統一性を保ちながら、地下鉄デザインは順調な発展を遂げていく。

「統一」から「個性」へ

戦後には人口膨張に伴う交通量の増加を受けて、ヴィクトリア線(68年)、ジュビリー線(79年)が新しく開通し、ピカデリー線も、ヒースロー空港までの延伸が実現(77年)。  70年代末以降は、エドゥアルド・パオロッツィによるトテナム・コート・ロード駅のモザイク壁アートや、デヴィッド・ジェントルマンのチャリング・クロス駅にみられる木版アートなど統一性よりも各駅が「唯一無二」の存在になるようなアート・プロジェクトが新しい潮流となった。スタンレーやピックたちが意識した「統一」の中に、斬新なアクセントが加えられたのだった。  そして、開業してから150年あまり。ロンドンの地下鉄は今も進化を続け、2022年には東ロンドンと、西はレディングまでを結ぶエリザベス・ラインが難産の末、開通した。  フランク・ピックが礎を築いた「誰もが毎日楽しめるアート」の精神は脈々と受け継がれ、様々なスタイルや色でロンドンの地下鉄駅を彩り、乗客の目を楽しませてくれる。いつも利用する地下鉄の駅にも、今度、ゆっくりと目を向けてみてはいかがだろうか。


独断ピックアップじっくり鑑賞したい!おすすめ地下鉄駅17選

編集部が独断で選んだ17駅のうち、まずは5駅をご紹介する。あとの12駅は来週号(10月31日号)にてお届けしたい。

ベーカー・ストリート駅 Baker Street

ハマースミス・シティ線、サークル線、ベーカールー線、ジュビリー線、メトロポリタン線
ゾーン1

1863年の開通当時の面影をそのまま残したハマースミス・シティ線、サークル線ホームは必見。蒸気機関車が通ったというだけある高い天井と幅広い線路、重厚な煉瓦の壁に圧倒される。
一方、ベーカー・ストリートといえばこの人、名探偵シャーロック・ホームズ。ベーカールー線のホームや通路ではホームズを象ったデザインのタイル壁画など、ジュビリー線のホームではホームズ・シリーズの名場面を描いたパネルに出会うことができる。また、中央切符売り場にある「Ticket Office」や「WH Smith & Sons」と書かれた昔の標識やメトロポリタン鉄道時代の紋章など、隠された秘宝のように駅の各所にちりばめられた、古いものを発見するのもこの駅の楽しみ方といえる。

トテナム・コート・ロード駅 Tottenham Court Road

セントラル線、ノーザン線、エリザベス線
ゾーン1

1900年開業だが幾多もの改築、改良工事を経たため、当時の面影はほとんど残されていない。79年にロンドン交通局の依頼で、7年かけて制作、86年に完成したエドゥアルド・パオロッツィによるカラフルなモザイク壁画がこの駅の見どころだ。都会の日常を描いたおよそ1000平方メートルに及ぶ巨大なモザイクアートは、大英博物館のコレクションや映画『ブレード・ランナー』、ジョージ・オーウェルの小説『1984』、ファーストフードなど様々なものに着想を得ているといわれる。またノーザン線ホームにある壁画は、同線の黒色を基調により薄い色調のデザインであるのに対し、セントラル線は同線の赤色を基調にし、鮮やかで明るいものになっている。

ボンド・ストリート駅 Bond Street

セントラル線、ジュビリー線、エリザベス線
ゾーン1

1909年創業の高級デパート、セルフリッジズの最寄り駅であり、世界でも名高い高級小売店が軒を並べるロンドン随一のショッピング街、ボンド・ストリートから名づけられた駅だけあって、ジュビリー線のホームのタイルはプレゼントボックスをモチーフとしている(箱の右すみ下にはボンド・ストリートの頭文字「B」が入っている)。駅の外壁はチャールズ・ホールデンの設計によるものだったが、80年代に取り壊されており、現在はその一部が駅の東側に遺構として痕跡をとどめている。エリザベス線との乗換駅として、さらに利用客の幅が広がった。

ガンツ・ヒル駅 Gants Hill

セントラル線
ゾーン4

チャールズ・ホールデンによる設計。ホールデンが同時期に設計監督を務めていたロシアのモスクワ地下鉄を参考にした、シンプルながら力強いモダニズム建築のコンコースが特徴的=タイトル写真参照。本稿の取材で訪れた駅の中でも、最も美しいと感じた駅のひとつ。1930年代に工事が始まったものの、第二次世界大戦中は工事は休止、防空壕として利用されたという。改札付近の天井の照明にも美しいデザインがほどこされていて、これも印象に残った。また、円形交差点の下にあり、地上にまったく駅舎がない点もユニーク。

ホロウェー・ロード駅 Holloway Road

ピカデリー線
ゾーン2

1906年に建てられた駅でレスリー・グリーンによる設計。グリーンのデザインの特徴といえる赤いテラコッタタイルの外壁を備えた駅舎やホームのタイル模様、草木をかたどった深緑のタイル=11頁の写真参照=で飾られたチケット売り場窓口がエレガントで美しい。歴史的建造物として「グレードII」に指定されている。周辺にはサッカーチーム、アーセナルのホームグラウンドがあり、荒くれた労働者階級が集う粗野なイメージのあるエリアだけに、その中で静かにたたずむ駅の優美な雰囲気とのコントラストが面白い。

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Afternoon Tea

鉄道技師が生んだ画期的な地下鉄路線図

地下鉄での移動には欠かせない、おなじみの地下鉄路線図。乗換駅が一目でわかる、この明快な路線図は1931年、地下鉄の従業員だったハリー・ベックにより考案された。それ以前の、地理上の距離を正確に反映した路線図は、利用者にとっては非常に使いづらいものだった。地図とは実際の地理的距離に基づいて作られるべきものだ、という常識を打ち破ったのが、このベックの路線図だ。ベックは地下鉄利用者にとって重要なのは駅と駅の距離などではなく、目的の駅までどう乗り継いで到達するかだと考えた。彼は地理的距離を無視し、駅を等間隔に配置。乗換駅を強調して表示するとともに、路線には水平、垂直、斜め45度の線のみを使った地図を作製した。電気回路図にも似たこの地図、ベックが日常的に電気回路を扱う技師だったことからも納得がいく。その後、改良を重ねられた現在の路線図にもベックの地図は受け継がれており、オリジナル・デザインのコピーは、彼の地元の駅であるフィンチリー・セントラル駅の南行きホームに展示されている。

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週刊ジャーニー No.1365(2024年10月24日)掲載