野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
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1966  日本の空が哭いた 旅客機5機 連続墜落事故

■ 1966年。日本国内で5機の旅客機が墜落。犠牲者の総数は376人。この年、世界で起きた航空機事故による死者数の半数近くを占め、日本の航空史上にとって暗黒の1年となった。1950年代後半以降、世はジェット旅客機の時代を迎えようとしていた。機体はまだ安全面での成熟度が低く、プロペラ機と勝手が違うジェット機の扱いに戸惑うパイロットも多かった。今号では、空中分解して富士山麓に墜落した英国海外航空「BA911」便の事故を中心に、わずか1年のうちに日本で起きた5件の航空機事故を振り返る。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

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2月4日

東京湾に墜落した全日空ボーイング727の同型機。© Jon Proctor

1966年(昭和41年)2月4日夕刻。

千歳空港から東京に向かっていた全日空60便(ボーイング727―100型)が、東京国際空港(羽田)沖の東京湾に墜落。乗客乗員133名全員が死亡する事故が起きた。日本初の大型ジェット旅客機の墜落事故。単独事故として、当時世界最大だった。犠牲者の多くが「さっぽろ雪祭り」帰りの観光客だった。

事故の原因は、計器飛行方式による通常のルートをキャンセルし、有視界飛行方式によるルートを選択してショートカットしようとしたことや、ボーイング727が全日空にとって初のジェット機であったために、パイロットの慣熟が行き届いていなかったことによる「操縦ミス」という見方が大方を占めた。その一方で、「機体トラブル説」や「機体欠陥説」なども浮上。最終的には「接水に至った事由は不明」とされた。

この事故をきっかけに、航空管制官の指示を故意にキャンセルして有視界飛行することは禁じられ、フライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するよう定められた。この事故は、ボイスレコーダーやフライトデータレコーダーなど、いわゆるブラックボックス搭載義務化のきっかけとなった。

その後、遺体捜索中だった海上保安庁所属のヘリコプターが墜落する二次遭難事故がさらに発生し、乗員3名が死亡した。

3月4日

墜落炎上したカナダ太平洋航空のダグラスDC-8の同型機。© Ralf Manteufel

1ヵ月後の3月4日夕刻。

東京は濃い霧に覆われ、陸も空も交通が麻痺し始めた。羽田空港にも午後4時頃から濃霧が広がり始め、視界不良のため国内線は全便キャンセルとなった。国際線に関しては、大阪の伊丹や福岡空港へダイバートが推奨された。香港を出発したカナダ太平洋航空「CP402」便は、午後7時頃から羽田上空で待機している一機だった。機種は前年納入されたばかりのダグラスDC―8―43型。香港から羽田を経由してバンクーバーに戻る、長距離フライト。搭乗員はいずれも50歳代で経験豊富だった。

午後7時42分、機長はあと15分ほど待って状況が好転しないようであれば、台北の空港に向かうと決めた。午後8時5分、管制塔から視界が3000フィート(約900メートル)に回復したとの報告があり、C滑走路への着陸許可が下りた。運命の悪戯かこの日、C滑走路の計器着陸装置(ILS)は、定期検査のため一部が機能していなかった。そのため、管制官が伝える情報を頼りに操縦する地上誘導方式で、着陸を試みることとなった。

CP402便はC滑走路に向かい、マニュアルで高度を下げていった。着陸直前、指示よりも高度が下がり始めたため、管制官は水平飛行するよう警告した。ところが、機長は「滑走路のライトを減光してくれ」と要求するのみで、そのまま降下を続けた。

午後8時15分、低高度で侵入したCP402便は右主脚を進入灯に接触させ、その後も次々と侵入灯をなぎ倒しながら進んで護岸に激突した。機体は大破、炎上。機体の裂け目から奇跡的に乗客8名が脱出。しかし、乗員10名と乗客54名(日本人5名)の合計64名が犠牲となった。

同機もボイスレコーダーやフライトデータレコーダーを装備していなかったため、事故原因の解析は難航した。管制官との言葉の壁も指摘された。最終的に、事故は「パイロットが滑走路の視認を急いで意図的に高度を下げたことによるもの」と結論付けられた。

3月5日

実際に空中分解し墜落した英国海外航空のボーイング707-436。機体番号G-APFE、1962年撮影。© Jon Proctor

着陸に失敗したCP402便よりも先に羽田上空に到達し、上空で待機していたフライトがあった。BOAC英国海外航空(現ブリティッシュ・エアウエイズ)の「BA911」便だ。機材は、当時最新鋭と言われたボーイング707―436型。同機はサンフランシスコを起点にホノルル、羽田を経由して、香港に向かう予定だった。しかし、羽田上空で待機中にCP402便の事故が発生。空港が閉鎖されたため、同機はやむなく福岡空港にダイバートした。

翌3月5日の朝、改めて羽田に向かい、午後12時43分に到着した。給油等を済ませ、BA911便は予定より20時間遅れとなる午後1時58分、香港に向けて羽田を出発した。羽田でタキシング中、滑走路脇に黒焦げになったCP402便の残骸が見えた。乗員乗客は、その残骸をどんな思いで見つめたことだろう。このBA911便は離陸から17分後、富士山上空で空中分解。乗員乗客全員が死亡する。

機長のバーナード・ドブソン(45)は離陸直前、羽田から伊豆大島を経由して香港に向かう計器飛行ルートをキャンセル。富士山上空を飛行する有視界飛行への変更を要求し、承認された。午後2時15分、静岡県御殿場市上空約1万5000フィート(4600メートル)付近に差し掛かったBA911便は、突然激しい乱気流に巻き込まれた。機体右側から激しい衝撃を受けた垂直尾翼が折れ、水平尾翼も粉砕されて機体から分離、落下。ほぼ同時に右主翼の先端が上方に折れ、衝撃でエンジン4基が全て脱落。機体は一瞬で推力を喪失した。さらに機首部分が引きちぎられた上に、燃料タンクと接触して炎上。もはや飛行機の体を成していなかった。

富士山麓に墜落していくBA911便(右)© Hiroaki Ikegami、ジェット燃料を噴出しながら墜落する同便(左)© Unknown。

機体は主翼から白いジェット燃料を吹き出し、枯れ葉が舞うようにクルクル回りながら落下。そのまま静岡県御殿場市の太郎坊付近に墜落した。機体の破片は20キロに渡って飛散した。目の前に陸上自衛隊演習場があり、目撃者も多かった。自衛隊員や警察がすぐに現場に駆け付けた。乗員11名、乗客113名、合計124名が犠牲となった。13名の日本人も含まれていた。地上に犠牲者がいなかったのは、不幸中の幸いだった。

事故当時、機内で偶然8ミリカメラを回していた米国人がいた。カメラは奇跡的に火災を免れた。フィルムには、離陸前の羽田空港の様子や眼下に山中湖が映っていた。フライトに何ら異常は認められない。しかし次の瞬間、フィルムが2コマ飛んで真っ黒になり、その後、激しく手振れした機内の様子を映し出して終了した。そのフィルムが事故原因究明の貴重な資料となった。山中湖の映像から、飛行高度や速度が正確にはじき出されただけではない。フィルムを2コマ飛ばすためには、「7・5G」という強烈な負荷が必要であることが判明した。7・5Gはボーイング707の尾翼を引き裂くのに十分な力だった。落下した残骸の位置からも、尾翼が最初に脱落したことは明らかだった。そこから空中分解のメカニズムが次々に解明された。

山岳波

山岳波発生のメカニズム。

事故当時、富士山の東側には強烈な山岳波(mountain waves)が発生していた。山岳波とは、一旦山を超えた気流が冷却されて下降、山麓付近で温められて再上昇し、気流が上下に振動する状態を言う。図のA・Bのように、波状の雲が発生することもある。時に強大なエネルギーとなり、巻き込まれると空中分解する危険があるため、航空機は山から十分に距離をとって飛行する対策がとられている。通常は山の高さの1・5倍以上の高度を保てば安全とされる。標高3776メートルの富士山であれば、5664メートル以上を飛行すれば問題ないが、BA911便はこの日、なぜかそれを遥かに下回る4600メートル付近を飛行していて、山岳波に遭遇した。

ベテラン機長が、なぜこれほど低い高度で富士山上空を飛行したのか、その理由は今も不明だ。ただし、2つの説が有力視されている。ひとつは「フライトが予定よりも20時間以上遅れていたため、少しでも香港までの飛行時間を短縮させたかった」とするもの。もうひとつは「米国人の団体旅行客が多数搭乗していたため、世界的に有名な富士山をなるべく近くで見せてあげよう」とする機長のサービス心。だとすると、その親切心が命取りとなった。

犠牲となった113名の乗客のうち、75名がミネソタ州の冷蔵機メーカー「サーモキング」に勤める人たちだった。同社は優秀社員への褒美として、日本や東南アジア旅行を企画。26組の夫婦が参加しており、この事故で63人の子どもたちが両親を失った。同社副社長や重役たちも同行して犠牲となった。また、日本で撮影されたジェームス・ボンド映画「007は二度死ぬ」の製作チームも多数搭乗しており、世界に衝撃が走った。

8月26日、そして11月13日

羽田で墜落した日本航空所属の訓練機コンベア880。

日本の空に取り憑いた魔物が去るのは、まだ先のことだった。

8月26日午後2時35分、訓練飛行中の日本航空機コンベア880―22M型機が羽田空港から離陸直後に墜落、炎上した。この事故で、同社社員4名と運輸省(現国土交通省)航空局職員1名、計5名が犠牲となった。離陸時にエンジン1基が故障した想定で離陸を続行する訓練の中での事故だった。事故原因として、「同機は操縦性に癖があり、『じゃじゃ馬』と言われるほど操作が難しい機体であった」こと、それに「訓練生のミスが加わって墜落した」と結論付けられた。

松山空港沖で墜落した全日空YS-11の同型機。© Clint Groves

11月13日、伊丹空港発、松山空港行きの全日空533便が墜落した。機種はフォッカー社のターボプロップ双発機フレンドシップ機が予定されていた。しかし、定員数を超えて座席を販売するオーバーセールのため急遽、国産YS―11に機種変更された。同機は1時間半ほど遅れて午後8時半頃、松山空港に接近。着陸態勢に入り、一度は滑走路中央付近に接地。だが同時に副操縦士から「ゴーアラウンド(やり直し)する」と連絡が入り、同機は上昇に転じた。
ところが午後8時32分、松山空港の西約2キロ沖で墜落。乗員5名と乗客45名、計50名全員が犠牲となった。この頃、関西圏に住む人々の新婚旅行先として、松山の道後温泉が人気を集めていた。さらに、事故当日は日曜日で大安吉日。新婚カップルが12組(24名)と犠牲者の半数近くに上り、日本中に強い衝撃を与えた。加えて、多くのカップルが婚姻届けをまだ提出していなかったため法的に夫婦と認められず、事故後の損害賠償交渉が難航した。墜落した事故機にも、ブラックボックスは搭載されていなかった。そのため、事故調査委員会は様々上がった憶測の中から、墜落原因を最後まで特定できなかった。

そして事故から2日後の夕方、遺体捜索を行っていた全日空と大阪府警のヘリコプターが空中衝突し、4人が犠牲となる二次遭難事故が発生した。

確率0・0009%

本格的なジェット時代は1950年代後半、ボーイング707の誕生によって開かれた。プロペラ機と比べて振動が少なく、航行スピードは2倍近くになった。しかしその分、機体にかかる負荷も増大。プロペラ機とは異なる特性も多く、黎明期は事故が多発した。

BA911便の空中分解事故を受け、航空機メーカーは外力を受けても変形力が1ヵ所に集中しない構造を模索した。翼が大きな力を受けても折れないよう、剛性よりもよく曲がる柔軟性に重きが置かれた。機体の大型化と重量増大を支えるため、翼面積が広くなったことから、胴体と翼の接合部分に負荷が集中する恐れがあった。そこで主翼と胴体下部が一体化した構造体が採用された。これによって、負荷が1ヵ所に集中することがほとんどなくなった。それでも想定外に暴力的な外力を受ければ、壊れることはあり得る。そのため、大空港には積雲や積乱雲から爆発的に吹き降ろす気流や、これが地表に衝突して発生する破壊的な気流「ダウンバースト」の発生を予測する気象用ドップラーレーダーが備えられた。さらに、各フライトが乱気流発生スポットの報告をするなど、情報交換がこまめに行われている。

オートパイロット化が進み、操縦ミスによる事故は激減した。米国家運輸安全委員会が実施した調査によると現在、航空機事故で死亡する確率は0・0009%だといい、今や飛行機は最も安全な乗り物だと胸を張る。しかし、ボーイング737MAXのように「システムの不具合」というハイテク時代ならではの新種の事故も起きている。

ライト兄弟が初の有人動力飛行に成功してから120年。空の旅は日々、安全で快適になりつつある。しかしその陰に、数多くの犠牲があったという事実を風化させてはならないとの思いから、今回の執筆に至った。(了)

週刊ジャーニー No.1353(2024年8月1日)掲載