慶應義塾ニューヨーク学院  ロンドン説明会 9月20日 (金) 6 PM - 7:30 PM
慶應義塾ニューヨーク学院  ロンドン説明会 9月20日 (金) 6 PM - 7:30 PM

大型船が通過する場合に備えてバスキュール(跳ね橋)は、最大86度まで上げることができる。© Japan Journals Ltd

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■ タワーブリッジ。まるで中世の頃からそこにあるかのような古めかしい面持ちだが、実はテムズ河に架かる橋の中では最も新しいものの一つ。現役で使われている橋だが、2つのタワーと上空の歩行者用通路、そしてエンジンルームは見どころ満載のアトラクションになっている。地下鉄で気軽に行けるロンドン屈指の観光スポット「タワーブリッジ」、外から観るだけじゃもったいない。一度、登ってみませんか。

テムズ下流に橋がないワケ

1757年に描かれたプール・オブ・ロンドン沿岸の様子。後方に見えるタワーは、ロンドン塔のホワイトタワー。

テムズ河は外洋からシティまで直接物資を運び込める重要な水上輸送路であり、ロンドンブリッジの東側一帯はローマ時代から一大船着場として大いに栄えた。17世紀以降はヨーロッパや植民地から物資が山のように届くようになり、ロンドンブリッジから東のライムハウスまでの数マイルは「プール・オブ・ロンドン(Pool of London)」と呼ばれ、事実上、世界最大の港となった。しかし、あまりにも港が混雑し、船と船の間を歩いて渡れるほどとなったことから盗賊が乱舞。そのため、17世紀末頃からテムズの下流に次々とドックが作られ、船主たちの多くがより安全な港を求めて東側ドックに移っていった。ドックランズの原型だ。

世界に先駆けて産業革命を達成し、植民地を拡大させた英国の貿易は発展を続け、砂糖や石炭を満載した運搬船がテムズを激しく往来した。ビリングスゲート魚市場もプール・オブ・ロンドン河岸に移転してきた。

19世紀後半、ロンドンブリッジより東側に橋がひとつもないことの不便さがいよいよ際立ってきた。1870年にはロンドンブリッジの東側に100万人が暮らしていた。東側で暮らす人がテムズ河を無料で渡るにはロンドンブリッジを使うしかなく、毎日13万人近くの歩行者と2万台を超える馬車や荷車等の車両が、ロンドンブリッジに殺到した。そのため渋滞が慢性化し、橋を渡るのに数時間を要する有様だった。橋の代わりにウェリー(wherry)と呼ばれる小さな渡し船が蜜蜂のように走り回った。一方、230万人が暮らすロンドンブリッジ西側には、ハマースミスまでの間に既に12の橋が架けられていた。

ロンドン塔近くに掘られたタワー・サブウェイ。4馬力の蒸気エンジンで、12人乗りの貨車をワイヤー牽引したが、すぐにシステムが壊れ、有料地下歩道となった。

テムズ河を渡る新しい手段として、ロンドン塔近くの入り口から対岸のサザークまで続く歩行者専用のトンネル「タワー・サブウェイ」が掘られた。1870年に完成したこのトンネルは、地上と地下をエレベーターが結び、4馬力のスチーム機関で12人乗りの小さな客車をケーブル輸送するという、世にも奇妙な代物だった。しかし、開業からわずか4ヵ月でシステムが壊滅し、ケーブルカーは撤去。エレベーターも螺旋階段に取り換えられて以降は、有料の歩行者専用トンネルとなった。

なぜロンドンブリッジより下流に、橋が架けられなかったのか。簡単だ。架けられなかったのだ。

ロンドン港には、背の高いマストを備えた大型帆船が頻繁に出入りしていた。大型船を通すためには、橋は最低でも水面から40メートル以上の高さにある必要があった。人や馬車が渡る橋を40数メートル上空に造ったとして、今度は人や馬車をどうやって40メートル上まで持ち上げるか。人は階段を使わせれば良いが、馬はそうはいかない。「馬車や荷車が難なく渡れる橋」と「大型帆船がくぐれる橋」という相容れない2つの条件をクリアするのは、長い間不可能と思われてきた。ところが19世紀後半、蒸気機関の発展や土木技術の向上により、難問解決の条件が整った。

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立ちはだかる女王

1872年、東ロンドンに新しい橋の建設を求める法案が提出された。設計は他の橋同様、入札形式(コンペ)に決まった。ロンドン市は「帆柱の高い帆船が通過できるよう、高さ143フィート(43・5メートル)をクリアでき、馬車、荷馬車、歩行者等も無理なく渡れる橋」の設計案をプロ、アマ問わずに募集した。早速50の案が提出された。橋の上に高速道路のジャンクションのような道路を載せる案や、商店が並ぶアーケード式の地下トンネルなどが提案された。しかし馬にかかる負荷が問題視され、いずれも却下された。その他、T字型の橋が90度旋回して帆船を通す案、モノレール状の貨車に人も馬車も載せてピストン輸送する案など、ユニークな案が提出された。

プール・オブ・ロンドンに橋が架かるという知らせは、そこで働く人々を動揺させた。ウェリーの水夫たちは、橋に仕事が奪われるとして乗り気ではなかった。波止場所有者の中にも、新しい橋が彼らのビジネスに打撃を与えるのではないかと懸念する者がいた。しかし、反対者の中で最も厄介な存在だったのが、ヴィクトリア女王だった。ロンドン塔は古代から王権の象徴だった。大切な砦であり、武器庫であり、監獄であり、造幣局だった。議会は、新しく架けられる橋はビジネスを活性化させるだけでなく、ロンドン塔自身の地位をも向上させるとして、女王の説得にあたったが、ヴィクトリアは「戯言(ざれごと)だ」とこれを一蹴した。ところが、女王の思いとは別に、新しい橋の建設はロンドン発展の最重要課題となっていた。議会はヴィクトリアの反対意見を黙殺した。

入札で勝利したホーレース・ジョーンズ卿のバスキュール橋。後にアーチが取り除かれ、42メートル上空に2本の歩道がついたデザインに設計が変更された。

審査員の中に、ホーレース・ジョーンズ卿という建築家がいた。スミスフィールドやビリングスゲートなどの市場を設計した、著名な建築家だった。ジョーンズ卿は、自ら考えたプランも提出した。それは卿がかつて大陸で見かけた跳ね橋にヒントを得た「バスキュール(仏:シーソー)」式ブリッジで、現タワーブリッジの原型となるものだった。ジョーンズ卿の案では大きなアーチが採用されており、この案は審査委員会で却下されたが、バスキュール案は残された。卿は建築家ジョン・ウルフ・バリーに設計の見直しを依頼。バリーは国会議事堂を共同で設計し、キャノンストリートやブラック・フライアーズの鉄橋を含む鉄道橋を担当するなど、鉄橋建築のエキスパートだった。

結局、ジョーンズ卿が最初に提案した上部歩道部分は改良されて現在、我々が目にするタワーブリッジに近い姿が図面上に現れた。1885年、タワーブリッジ法が正式に可決され、遂に建設への青信号が灯った。


なぜ古めかしいか

タワーブリッジは、鋼鉄製の橋に蒸気式油圧で開閉させる跳ね橋を取りつけるという、世界でも類を見ない最新鋭の建造物となった。ところが、実際は古城を思わせるかのような外観となっている。これはタワーブリッジが周囲の景観と調和するデザインを求められたためだ。環境保護主義者たちは、鉄骨だらけの近代的な橋が周囲の景観を脅かすと主張していた。そこで橋の構造物を全て石材で覆い、あたかも古くからロンドン塔と共にあったかのような荘厳な化粧が施された。

着工から6年経った1892年9月、全容を現し始めたタワーブリッジ。

1886年4月22日、いよいよ巨大プロジェクトの第一歩が踏み出された。タワーブリッジ建設で最も過酷だったのが、2つの橋脚部分だった。川の流れを遮断する鋼鉄製の防水構造物を設置し、川底の下、約8メートル深くまで基礎を埋め込むのに大変な苦労が強いられた。その他、橋の鉄鋼構造はグラスゴーで製造され、蒸気船でロンドンまで運ばれた。イングランド南西部ドーセットのポートランド大理石、コーンウォールから花崗岩、そしてゴールド粘土で作られたレンガが、ケンブリッジシャーやベッドフォードシャーから運び込まれ、2つのタワーの外壁に取り付けられた。タワーの三角屋根にはウェールズ産のスレート材が採用された。総工費約118万ポンド(2024年の価値で約170億ポンド)。完成までに8年という月日が費やされた。その間、重大な負傷事故が29件発生し、作業員10人が命を落とした。当時は、高所の作業でも落下に備えた保護ネットが使われることはなかった。石炭の煤煙によって発生する濃い黄色スモッグが視界を遮るといった困難も重なるなど、作業は過酷を極めた。死者10人は、意外と少なかったと評価された。

こうして古いゴシック建築を思わせる外観を持ちながら、最新鋭の蒸気機関を内に秘めたタワーブリッジが完成した。跳ね橋を提案、採用したジョーンズ卿は工事が始まった翌年、68歳で死去。完成を見ることはなかった。

女王の姿なき開通式

タワーブリッジ開通式の様子

1894年6月30日(土)、タワーブリッジは開通の日を迎えた。最後まで反対の姿勢を崩さなかったヴィクトリア女王が式典に参加することはなく、代って皇太子(後のエドワード7世)夫妻が出席した。正午、皇太子夫妻や政府高官らを乗せた馬車の大行列がタワーブリッジ北岸から南岸へと渡った。テムズの両岸には大勢の見物人が並び、華やかに装飾された船やバージ(平底船)は、歴史的瞬間の目撃者になろうとする見物人で溢れ返った。

馬車一行が北岸に戻って皇太子が橋の開通を宣言し、スイッチを回すと、跳ね橋がおずおずと上昇を始めた。テムズ南岸に設置されたテントから、跳ね橋がゆっくりと上がっていく光景を特別な思いで見つめる一団がいた。タワーブリッジ建設に携わった作業員たちだった。彼らにはその功績を称える祝賀ディナーが振舞われ、パイプ、タバコ、そして箱入りの菓子が記念品として配られた。

開通から1年で、タワーブリッジが開閉すること6160回。一日に約8000の車両と6万の歩行者が橋を渡った。毎週20トンの石炭が消費され、約80人が橋の開閉やメインテナンスに従事した。

1940年9月7日、ドイツ空軍による大規模な爆撃を受けて炎上する倉庫街とタワーブリッジ。

第二次世界大戦が勃発。1940年9月7日の大空襲時、プール・オブ・ロンドンにあった倉庫群はドイツ空軍爆撃機の格好の餌食となった。ドック内9ヵ所が空爆による火災で焼け落ちた。国会議事堂は17回、ロンドン塔は15回の直撃を受けたが、タワーブリッジは奇跡的にほとんど無傷だった。立ち続けたセントポール大聖堂とタワーブリッジは、暗い戦争の中でロンドン市民を奮い立たせる原動力となった。

 

落日は唐突に

1960年代、輸送業界に大変革が起こった。コンテナの登場だ。沿岸の深水港で複合一貫輸送コンテナが導入されたことで、大型船がロンドン港に上って来る必要がなくなり、テムズの商業交通はある日突然崩壊した。プール・オブ・ロンドンは閑古鳥が群れ成して鳴き、次々と埠頭が取り壊されていった。ロンドン港両岸には商業施設や集合住宅が矢継ぎ早に建設されるなど、再開発が進んだ。

テムズの交通量が激減する一方で、タワーブリッジを渡る車両は増加を続けた。1970年代後半には、一日に1万台以上の車両がタワーブリッジを利用。1972年、80年間橋を支えてきた蒸気機関が、電動式に置き換えられた。さらに5年後、ボタン一つで跳ね橋を上下できる電気制御システムが導入され、80人いたスタッフは12人に減らされた。開設時、一日に平均17回(最大は1910年に記録された一日64回)ほど開閉していた跳ね橋も、現在では週あたり平均7~8回に減った。

建設当時の役割を終えた今、片側一車線というのは現代の交通量にあっては使いづらい橋と言わざるを得ない。しかし、かつて設計者たちを苦しめた景観への配慮が、今ではタワーブリッジ最大の武器となった。そして今、ロンドンを象徴するランドマークの一つとして世界中の人々を惹きつけてやまない存在となった。(了)

1938年、ロンドンブリッジから撮影されたプール・オブ・ロンドン。この2年後に第二次世界大戦が勃発した。
同じくロンドンブリッジから臨む、今日のプール・オブ・ロンドン。左岸手前、はちみつ色の建物が旧ビリングスゲート・フィッシュマーケット。© Japan Journals Ltd

タワーブリッジに登ろう!

タワーブリッジは、2つのタワー部分とタワーをつなぐ歩道(The Walkway)、そして橋の南岸にあるかつてのエンジンルームが一般公開されている。

地上42メートルに敷かれたガラスの床。象が乗っても壊れないらしいが、ちょっとコワイ。

入り口は北タワー(North Tower)の上流側にあり、エレベーターもあるが、ほとんどの観光客が作業員の苦労を分かち合うためか階段を利用する。2本ある歩道部分は提出されたユニークな橋の案の数々をCGで紹介したり、歴史的写真が展示されていて、なかなか見応えがある。2014年、この空中歩道部分にガラス製の床が設置された。ガラスは6枚の合わせガラスで厚さ約70ミリ。下をのぞき込めばテムズを行き交う船舶とトラックやバス、そして歩行者がミニチュアのように縦横に交差して見える。ガラスの床は象一頭、またはブラックキャブ2台が乗っても大丈夫という触れ込みだが、背筋がゾクッとする。

展示されている蒸気式エンジン。1972年に電動化されるまで故障なく働いた。

南タワー(South Tower)を降り、路面に引かれた青い線を辿っていけば、エンジンルームへとたどり着く。ここにはかつて使用されていたスチームエンジンが展示されている。19世紀末の英国の工業力に思わず息を呑む。蒸気機関やメカ好きには、1日いても飽きない空間となっている。

Explore Inside Tower Bridge
【入場料】大人:£13.40、子ども:£6.70
シニア:£10.10(要ID)※2024年6月現在
※事前予約した方が待ち時間が少ないので便利。
www.towerbridge.org.uk

タワーブリッジの跳ね橋の開閉を知らせるタイムテーブル

www.towerbridge.org.uk/lift-times

本誌制作の動画もご視聴ください。(3分5秒)

週刊ジャーニー No.1347(2024年6月20日)掲載