大英博物館の至宝 略奪された
エルギン・マーブル 【後編】

前回までのあらすじ〉堪能な語学力を活かし、オスマン帝国(現トルコ)の英国大使に着任したエルギン伯爵。戦火や旅行者により破壊されていくパルテノン神殿の現状を憂い、強い使命感とギリシャへの情熱に燃えたエルギンは、ギリシャを統治下に置いていたオスマン帝国の皇帝の許可を得て、貴重な文化を守るべく、神殿の大理石彫刻を英国へ持ち帰る決断をするが――。後編となる今号では、「略奪者」と批判された男の最期と「エルギン・マーブル」が大英博物館の名品となるまでの数奇な運命を追う。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

廃墟と化した古代神殿

1801年、パルテノン神殿では、神殿を飾る彫刻の取り外し作業が始まった。神殿の壁沿いや円柱の間に石材を高く積み上げ、即席の足場を設置。そこから梯子を用いて神殿の最上部にのぼった男たちが、はめ込まれた彫刻を次々と剥ぎ取っていく。

「慎重に、ゆっくりと下ろすんだ! 傷をつけるんじゃないぞ!」

作業員に指示を飛ばす大声が、雲ひとつない青空の下に響き渡る。流れ落ちる汗をそのままに、ロープできつく巻かれた彫刻を20人がかりで地上に下ろしていく。その横では、別の作業員が大理石にノミをあて、彫刻を剥ぎ取っている。彫刻を留めていた石板や石材は次々と投げ捨てられ、粉々に砕け散っていった。

「貴重な文化を守るためには、出来る限りこれらを持ち出すしかない」と神殿彫刻の英国移送を決断したエルギンだったが、それは結局のところ新たな破壊を招くことになった。地元のギリシャ住民は強く反発し、許可を与えたトルコ政府に対する非難も噴出。要塞として使っていた異教徒のトルコ兵ですら、その悲惨な光景に息をのんだ。

取り外し作業は1年以上にわたって続けられ、現存する彫刻の約半分を入手したところで打ち切られた。無残な廃墟となった神殿の姿が、そこにあった。

輸送船の沈没

 

ギリシャ・アテネにある「アクロポリスの丘」の頂上に建つ、世界遺産のパルテノン神殿。
1802年10月、駐トルコ英国大使の任期満了を間近に控え、英国での彫刻披露の計画を練っていたエルギンのもとに、一通の手紙が届けられた。胸騒ぎがして恐る恐る封を切ると、ギリシャ南端に浮かぶキティラ島の港付近にある岩に、エルギンが所有する帆船の1隻が衝突し、沈没したことが告げられていた。

 

「なんてことだ!」

エルギンは頭を抱えた。同船には、神殿彫刻が収められた木箱17箱が積まれており、英国へと向かう途中だった。

船はアテネ近郊の港湾都市ピレウスを出港した2日後の深夜、想定外の大嵐に遭遇。乗船していた作業員は脱出して無事であったが、積み荷はすべて沈んでしまった。幸いなことに、船は陸からほど近い場所で沈んだため、船内から飛び出た4箱はダイバーによって引き揚げることができた。しかし、ほかの木箱を引き揚げるには海中で船体のデッキを切り取らねばならず、多大な時間と費用を要する。でも貴重な彫刻を海底に眠らせるわけにはいかない…。エルギンは覚悟を決めた。

残りの13箱がすべて引き揚げられ、無事に英国に着くのは1812年のこと。アテネを発ってから10年もの歳月が過ぎた後だった。

捕虜生活と借金苦

輸送船沈没の報を受けた日を境に、エルギンの人生は急降下していった。

1803年、3年にわたる大使の任務を終えたエルギンは、次期駐仏大使の座を獲得するためにパリで情報収集を行おうと、無謀にも対立国であるフランスを通り抜ける「陸路」での帰国を選択。妻の反論にも耳を貸さず、マルセイユからパリへと進んだ。その結果、ナポレオン軍による「英国人狩り」に遭遇し、重要捕虜として夫妻は投獄されてしまう。命令に従うことを誓う「恭順宣誓」を行い、フランスから出国しないことを条件に解放されたが、各地を転々とする先の見えない生活に耐えねばならなかった。

移動の多い暮らしの中で、出産と生後間もない我が子の死に直面した妻が体調を崩したため、エルギンはナポレオンに手紙を出し、妻の出国許可を得る。そうして帰国した妻と英政府の尽力により、1806年、エルギンは6年ぶりに英国の地を踏んだ。しかしながら、彼を取り巻く状況は一変しており、英政府にとってエルギンはもはや「お荷物」でしかなかった。捕虜となったあげく、他国で恭順宣誓を行った者を外交官として採用するはずもなく、社会的信用は完全に失墜していた。

また、エルギンは多額の負債も抱えていた。パルテノン神殿の調査や彫刻の輸送、帆船の購入、沈没した積み荷の引き揚げなどに費やした金額は、当然ながら莫大なものだった。

失意のどん底にいるエルギンに、さらなる苦しみが襲いかかる。なんと妻が愛人をつくり、彼のもとを去ってしまったのである。相手はスコットランド貴族で、フランス幽閉中に夫妻の相談役を務めていた人物であった。

称賛と「略奪者」の汚名

 

驚くべきことに、次々と苦難が押し寄せる中でも、エルギンの「古代ギリシャ彫刻を公開したい」という思いは色褪せなかった。いや、この思いが、プライドを打ち砕かれたエルギンを支えていたというべきかもしれない。彼はロンドンで屋敷を手に入れ、展示室を庭に建設。採光用の天窓があるだけのシンプルで薄暗い空間だったが、そこにアテネから持ち帰った彫刻群を並べ、「エルギン・コレクション」として無料で一般公開した。

「略奪」行為の痕が残るパルテノン神殿上部(左)と、大英博物館に展示されている剥ぎ取られた大理石彫刻板のひとつ(右)。赤色で囲まれた部分に飾られていた。

エルギン・コレクションは人々の古代ギリシャへの憧憬を煽った。とくに、本物のギリシャ美術を間近で見られた芸術家たちは大いに喜んだ。これまで古典として敬われていたのは古代ローマ芸術であり、ローマ時代につくられた複製でしかギリシャ彫刻を知らなかった彼らにとって、夢のような邂逅だったのである。熱心に写生する画家や彫刻家、学生で、室内はつねに賑わっていた。

だが一方で、エルギンを「略奪者」と非難する人々も多かった。持ち出し行為の正当性を厳しく問われ、また妻との離婚裁判が進行中だったこともあり、面白おかしく記事に書きたてられる。賞賛する声をかき消すほど、批判や中傷の声は大きかったのだ。糾弾が激化して止む気配がない上、巨額の負債整理にも迫られたエルギンは、やむなく展示室を閉鎖。大英博物館へのコレクション売却を決めた。

1819年に描かれた大英博物館のエルギン・マーブル展示室の様子(右)と、現在のパルテノン・ギャラリー。

彫刻は誰のもの?

1816年に大英博物館へ移されたエルギン・コレクションは、以降「エルギン・マーブル」(またはパルテノン・マーブル)と呼ばれ、同館のパルテノン・ギャラリーに展示されている。ロゼッタストーンやミイラと並ぶ花形のひとつであり、多数の来館者の目をひきつけている。

1892年にオスマン帝国から独立したギリシャは、今なおこの彫刻群の返還を要請し続けている。大英博物館は「当時の政権の許可を得て、合法的に持ち帰った」「あのまま放置されていれば、さらなる崩壊に直面していた」として返還を拒否しているが、皮肉なことに、これはエルギンが略奪者と謗(そし)られていた時に主張した言葉とまったく同じである。略奪美術品と呼ばれるものは、英国に限らずいくつもの国に現存している。「人類共通の財産」「返還しても適切に管理されるか不安」「戦乱で失われたかもしれない文化財を守ってきた」というのが「所持する側」の論理だが、これらにも一理あることは否めない。

エルギンは狡猾な略奪者ではなかったが、かといってパルテノン神殿を救った文化的英雄でもなかった。むしろ世間の目を気にせず、己の信念だけにしたがって貴重な文化財を持ち出した「理想主義者」だったと言える。

ちなみに、彫刻を売却した後のエルギンはというと、支払われた代金はすべて債権者たちの間で分配され、一銭も残らなかった。23歳下の女性と再婚し、8人の子供に恵まれたものの、借金返済に追われ続けた一家はフランスへ逃亡。1841年、エルギンはパリにて75年の生涯を閉じた。負債は残された家族につきまとい、完済したのはエルギンの死から30年後のことである。

週刊ジャーニー No.1133(2020年4月16日)掲載