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世界を驚愕させた国王
エドワード8世 【後編】
© Mark Jones

■〈前回のあらすじ〉1920年代、「ヨーロッパ屈指のプレイボーイ」「世界で最も魅力的な男性」と謳われ、国際的なスターであったエドワード皇太子。多くの浮名を流した彼が恋に堕ち、「生涯の伴侶」と見定めた相手は、離婚歴のある米国人女性。しかも夫を持つ身だった――。英国国教会の長でもある国王は、離婚歴のある女性との結婚は禁止されている。結婚を諦めるか、反対を押し切って強引に婚姻を結ぶか、国王の座を退くか。エドワードが下した決断は? 後編となる今号では、エドワード8世とウォリス・シンプソン夫人の退位後の生活、王室との確執に迫ってみたい。

●サバイバー●取材・執筆/吉田純子・本誌編集部

愛する人がいなくては…

エドワードとともに、3人の弟たち(ヨーク公爵アルバート王子、グロスター公爵ヘンリー王子、ケント公爵ジョージ王子)によって署名された退位文書。

クリスマスが目前に迫った1936年12月10日、エドワード8世退位の詔勅が下され、実弟(のちのジョージ6世、現エリザベス女王の父)の王位継承が発表された。同日午後4時には号外が次々と発行され、「晴天の霹靂」ともいえる突然の君主交代劇に、ロンドンの街は騒然となった。エドワードが即位してから、わずか11ヵ月後のことである。

翌日の退位演説でエドワードは、人生で最も辛いこの決断はすべて自分自身によるものであること、大英帝国を忘れたわけでは決してないこと、決断に至るまで王族や首相らが支えてくれたことなどに触れた後、こう締めくくった。

「私の愛する女性の援助なくしては、国王としての重責を担い、義務を果たすことができないということが分かったのです。しばらくは、祖国に戻ることはないかもしれません。しかし、いつでも深い関心をもって、英国民と大英帝国の繁栄を見守りたいと思います」 エドワードは弟にすべてを託し、英国を離れてオーストリアに身を隠した。

祖国を追われて

退位の発表に先立ち、ウォリスはメディアの目を避けるため、フランスへと渡っていた。彼女の離婚の訴訟手続きが完全に終わり、2人が再会したのは翌年5月、フランス中部のトゥール近郊であった。その空白の半年間は、エドワードにとって生き地獄のようであったという。物心ついた頃から英国王となるべく道を与えられ、それ以外の選択肢を持たなかった彼にとって、自らの意志とはいえ退位はこれまでの人生を全否定し、未知の世界に飛び込むという恐怖でもあったのだ。その傍らに、寄り添ってくれるはずの女性がいないことが、彼には何より耐え難かった。

再会してから約1ヵ月後の6月3日、親しい友人のみを招いての挙式が行われ、2人は晴れて夫婦となった。エドワードはまもなく43歳、ウォリスは41歳を迎える時のことである。

この挙式にエドワードは家族を招待し、彼らも参列してくれるものと思っていた。ところが、王室からの出席者は1人もおらず、王室メンバーの称号である「HRH」(ハー・ロイヤル・ハイネス=妃殿下)をウォリスに与えることも当然ながらあり得なかった。弟のジョージ6世から挙式前に届けられた手紙には、「これはもう家族だけの問題ではないんだ。申し訳ないけれど、家族は誰も出席できない。これは王室や英国民に関わる問題で、僕はもう、家族の一員としてだけ振舞うわけにはいかないんだ」といった内容が書かれていた。

不本意な形で王位を押し付けられたジョージ6世だったが、それでも兄を思う気持ちに変わりはなく、彼が即位して初めに執り行ったのが、兄に「ウィンザー公爵」という称号を与えることであった。しかし、こうした弟の気持ちは兄に届かず、エドワードに泥を塗られ世間に顔が立たない王室と、家族に見捨てられたと拗ねるエドワードとの確執は修復不可能となる。兄弟の母親である王太后は、「私が生きているうちはエドワードに英国の地を踏ませない」と勘当したも同然の姿勢を見せていた。

離れても「悩みの種」

エドワードとウォリスは、英国を離れても問題を起こし、その一挙手一投足はメディアで報道され、英王室や政府を悩ませ続けた。

結婚から数ヵ月後、夫妻は英政府の警告に従わず、ヒトラーの招待を受けドイツを訪問。その後もたびたび訪独し、滞在中にナチス式敬礼をするなどして、英政府のひんしゅくを買った。皇太子時代に初めてドイツを訪れて以来、親独派として知られるエドワードだが、時は第二次世界大戦の開始直前。「英国の顔」であったかつての国王がとる行為が、どれだけ英国人にとって無責任で挑戦的にさえ見えたかは想像に難くない。しかし、後にエドワードは「親独派ではあったが、決してナチズムを支持していたわけではない」と話し、こうした行動は王族として扱われることを熱望していたウォリスのためだったと言われている。やがて、第二次世界大戦が勃発し、ドイツがフランスに侵攻すると、夫妻はスペイン、ポルトガルと身を移していった。

ドイツ訪問の際に、ヒトラー(右)と握手するウォリスとエドワード(1937年)。

世紀の恋の終焉

戦後、フランスに戻ったエドワード夫妻は、パリ近郊のブローニュの森近くに身を落ち着かせた。パリ市から提供された邸宅では夜毎、各界の著名人を招いてのパーティーが開かれ、夫妻は1950~ 60年代を通し、フランスや米国の社交界に花を添える存在となった。パリとニューヨークを行き来し、テレビにも出演するなど、ウォリスが求めていた華やかなセレブ生活が再開したのである。

しかし、英王室との確執は依然深く、1952年に弟ジョージ6世が崩御した際には、エドワードはウォリスの同伴を避け、単身で英国へ戻り参列している。また、翌年に行われた姪である現エリザベス女王の戴冠式には出席せず、ウォリスとただテレビ中継を見守っていた。

王室との距離が縮まるのは、その十数年後、エリザベス女王が夫妻を英国に公式招待した1965年のことである。夫妻のスキャンダルに悩まされてきた両親のもとで、女王もかつてはウォリスを憎んでいたというが、王室内で最も和解に努めたのも女王だった。その後の王太后生誕100周年記念式典に夫妻は招待され、ウォリスは事実上「ウィンザー公爵夫人」として認められるに至った。この時、エドワード71歳、ウォリスは69歳に達していた。

祖国への出入りが解禁となってまもなく、エドワードは体調を崩しがちになり、1971年には喉頭がんと診断され、翌年5月28日に帰らぬ人となる。劇的な78年の生涯であった。遺体は英国に戻り、ウィンザー城のセントジョージ礼拝堂に安置された。2日間で6万人もの弔問客が訪れたという。

その14年後、フランスで隠居生活を送ったウォリスも痴呆症などを患い、1986年、89歳で逝去。エドワードとともにウィンザーの「フログモア王室墓地」に埋葬された。これは生前、エドワードが女王に懇願していたことであった。

後悔したことはない

エドワードは晩年、退位のいきさつについてインタビューに応じ、「一度も後悔したことはない。生まれ変わっても同じ選択をしただろう」と語っている。退位した後、ウォリスと過ごした年月が世界を揺るがし、家族を敵にまわし、祖国を追われるに値するものだったのかは彼にしか分からない。

ウィンザー城の近くにあるフログモア王室墓地。ハリー王子とメガン妃夫妻は、この墓地と同じ敷地内にあるフログモア・コテージで新婚生活を送っていた。© Antony WyrdLight McCallum

ただ、いつも平民への共感や憧れを抱いていたエドワードと、常にステータスや財力を追い求めていたウォリスとは、これ以上ない取り合わせだったのかもしれない。若い時分から「一風変わった」「前代未聞」の王族として、あてがわれたレールを故意にはみ出してきた彼にとって、ウォリスは身分を忘れさせてくれ、かつ外界で生きる指標を与えてくれる、かけがえのない存在だったのだろう。王族ゆえに「不祥事」「不道徳」と後ろ指をさされたこの恋には、身分を自分の手で選ぶことはできなかったが、愛する女性は自分で選びたいとする彼の叫びさえ感じられるような気がする。

王室から離れ、これからは英国とカナダを行き来して活動することを宣言した、ハリー王子とメガン妃。メディアに追いかけられる日々に悩んだことが、王室そして英国離脱の要因のひとつとも伝えられているが、エドワードとウォリス夫妻は結局最後まで常にメディアの目に晒されていた。今後、彼らの物語がどのように紡がれていくのか、静かに見守っていきたい。

(終)

週刊ジャーニー No.1126(2020年2月27日)掲載