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密輸団に利用された館
ケントに、ロイヤル・タンブリッジ・ウェルズ(Royal Tunbridge Wells)という王室ゆかりのスパの街がある。この街の程近くに、「庭園と森遊びが堪能できる場所がある」と聞き、今回取材班が訪れたのが、グルームブリッジ・プレース(Groombridge Place)だ。
車窓から差し込む朝日が眩しい、6月のある日。『英国の庭』と称される、ケントの緑豊かな風景を楽しみながらM25経由で南下すること1時間45分、ケントとイースト・サセックスの県境にあるグルームブリッジ・プレースに到着した。農場の入り口を思わせるゲートをくぐると、のどかな田園風景が広がり、敷地内にある牧草地の中でヤギやアルパカが草を食んでいる姿に早くも癒された気分になる。
さて、グルームブリッジ・プレースの見所やアトラクションをご紹介する前に、まずはこの地の歴史を振り返ってみたい。
グルームブリッジ・プレースの要である堀つきのマナー・ハウス(Moated Manor House)が建てられたのは17世紀のこと。13世紀に築かれた小さな居城を取り壊し、当時この地のオーナーであった建築家のフィリップ・パッカーが、友人の建築家、クリストファー・レン(1632~1723)の手助けを借りて建設した。レンは、セント・ポール大聖堂などを手がけた英国の建築家である。パッカーが、レンのような天才建築家と友人関係にあったということは、グルームブリッジ・プレースにとって幸運このうえないことだった。
当時流行の最先端であったイタリア様式が取り入れられた瀟洒な邸宅は1662年に完成。かのレンが手助けしたと聞けば、是非ともその中を見学したいところだが、現在に至るまで私邸として使用されており、一般公開はされていないのが本当に残念だ。
周囲に堀まで張り巡らせた豪華な邸宅の建設に資金を注ぎ込みすぎたからか、パッカーはその後財政難に陥る。邸宅は子孫に引き継がれるも、1734年には裁判所に没収され、その後20年もの間空き家となった。
主(あるじ)不在となったこの期間、邸宅は思わぬ客に悪用されることになる。
密輸団などのギャング(犯罪組織)が暗躍していた18世紀、グルームブリッジの村を拠点に南海岸までの一帯を恐怖に陥れた、グルームブリッジ・ギャングが空き家となっていた館に目をつけたのだ。ギャングは、当時高価な贅沢品であった紅茶の茶葉を密輸し、邸宅のセラー(地下倉庫)に隠していたという。この地で語り継がれている言い伝えによると、このセラーからギャングが本拠地にしていたという、グルームブリッジ・プレースに程近いパブ、クラウン・イン(Crown Inn)の間に地下トンネルが掘られ、茶葉の運搬に使われていたという。しかし、現在に至るまで、そのようなトンネルは発見されていない。いつかこの地下トンネルが発見されたらと想像すると、ロマンを感じずにいられない。
この悪党たちの天下は長くは続かず、やがてギャングは軍隊の手によって一掃された。グルームブリッジ・プレースは個人に買い取られて、再び安息の日々を迎えることとなる。
常連客は、名探偵の生みの親
1754年、豪農ウィリアム・キャンフィールドが、荒れ放題であった邸宅を購入。そして、荒廃していたグルームブリッジ全体を再び活気溢れる集落へと繁栄させた。ギャングに荒らされていた邸宅だけでなく、周囲の村まで生き返らせたウィリアムの功績は大きい。
その後邸宅はキャンフィールド一家の親戚であるセイント家のジョン・ジェームス・セイントに相続される。セイント家の3姉妹は心霊主義に傾倒しており、当時流行していた降霊会(霊を呼び寄せ死者との交流をはかるセッション)を邸宅で度々開催している。この当時、グルームブリッジから南に約6キロの距離にあるクロウバラ(Crowborough)に住んでいたのが、コナン・ドイル(1859~1930)である。
おなじみのシャーロック・ホームズの作者であるドイルも、心霊主義に傾倒していたことで知られる。ドイルは、3姉妹の主催する降霊会に度々参加したばかりでなく、夕食にも招待され、庭でくつろぐなど、グルームブリッジの常連客となっていた。
この邸宅から現れた幽霊に遭遇したことを、ドイルは、著書「The Edge of the Unknown」(邦題『コナン・ドイルの心霊ミステリー』)の中で詳しく語っている。また、シャーロック・ホームズ・シリーズの長編ミステリー、「The Valley of Fear」(邦題『恐怖の谷』)には、グルームブリッジ・プレースをモデルにしてえがいた邸宅と庭が登場していることから、ドイルがこの地に特別な思い入れを抱いていたことが想像できる(15頁のコラム参照)。
ギャングに悪用されたものの、その後愛すべき主人を迎え入れ、コナン・ドイルのお気に入りの場所にもなったグルームブリッジ・プレース。その邸宅は、約350年もの間改装されず、ほぼ建築当時のまま使用され続けている。1920年代には電気配線が整えられ、バスルームが改装されたほか、1980年代には、生い茂ったツタに浸食され、ダメージを受けていた天井の梁と煙突が修復されたものの、内装は変えられなかった。
英国の多くのマナー・ハウスが、膨大な維持費による財政難から、ホテルなどに売り渡されているという現状の中、グルームブリッジ・プレースは、これまで一度も開発業者や企業の手に渡ることなく、私邸であり続けている希少な例とされている。
2004年には映像プロダクションの重役を務める現オーナーが購入。邸宅は、05年に公開され大ヒットした英映画「Pride and Prejudice」(邦題『プライドと偏見』)のロケ地のひとつとなった。映画の中で約350年前そのままの、貴重な邸宅内部の様子を垣間見ることができる(14頁のコラム参照)。
現在は家族連れや観光客の声が絶えないこの地にもまた、紐解くに値する長い歴史がある。由緒ある建物を根気強く保存してきた、英国ならではといえそうだ。