夜明けとともに始まった記念すべき戦い
1314年6月23日。
30歳になったばかりのエドワード2世は、スターリング城への道を急いでいた。既にスターリング城の南で戦闘があったとの情報も入ってきていたが、まだ雌雄を決するような段階にはなっていなかった。本隊が到着すれば、スコットランド軍などひとたまりもないだろう。
そう信じてはいたものの、なぜか説明のつかない漠然とした不安が胸をよぎるのを感じずにはいられなかった。夕刻、この不安を抱いたままバノックバーンに到達。
そして、この不安は、翌日、現実のものとなるのである。
1314年6月24日。戦闘2日目。
迎え撃つロバート1世は39歳。国王となってからこの8年、休む間もなく戦い続けてきた。今回の戦いも、どこに陣営を置き、どう自軍を配すか、そして相手軍をどこに誘導するか、練りに練った。兵士たちの訓練もたゆまず行ってきたつもりだ。
相手は強行軍で疲弊しているという。幸い夏至だ。この夜の短さでは疲れも十分とれまい。ロバートは朝一番で戦闘を開始することを決める。
やがて夜が明け、戦闘が始まった。
やや高台にあり、比較的土が乾いているニューパークに軸足を置いたスコットランド軍に対して、イングランド軍の足場はきわめて悪く、重装備の騎兵はスピードのある攻撃を仕掛けることが叶わなかった。しかも、フォース川の支流がうねるように走り、歩兵部隊は、騎兵部隊と合流するためにバノック・バーン(バーンは「小川」のこと)を渡る必要があった。
さらに、イングランド軍は、バノック・バーンとペルストリーム・バーンにはさまれた狭い場所で戦うように仕向けられ、数で勝りながらも、それを活かして横に広く展開することができなかったのである。
結果は如実に出た。
エドワード2世は、スターリング城に逃げ込もうとしたものの、落城を見越したフィリップ・モウブレイに入城を拒絶され、そのままエディンバラの東にあるダンバー(Dunbar)まで一目散に逃走、そこから船でイングランドのベリク(Berwick)へと渡り、ロンドンに逃げ帰ったのだった。
ロバート1世は勝ったのである。大勝利だった。
このバノックバーンでの勝利がもたらしたものは二つある。もちろん、ひとつはイングランド軍をスコットランドから完全に駆逐するきっかけだ。エドワード2世の息子、エドワード3世が、スコットランドの独立と、ロバート1世が同国国王であることを正式に認める1328年のエディンバラ条約(the Treaty of Edinburgh)が締結されるまでに、さらに14年待たねばならないが、このバノックバーンでの勝利なくして、同条約締結はならなかった。
もうひとつは、ロバート1世に対する信頼の回復といえる。ロバートをはじめ、スコットランド貴族はスコットランド国王になることに執着するあまり、イングランド国王に忠誠を誓うなど、節操のない行動を取ることが少なくなかった。また、ロバート1世は教会内でライバルを殺害して即位するという、『汚い』手を使った過去があっただけに、スコットランド内でも反発が根強かった。
ロバート1世は、真の意味で、スコットランド国王としてスコットランドのために戦い、勝利し、それを周りも認めたのである。
晩年は、脳梗塞、筋萎縮性側索硬化症などと考えられる病気に苦しんだ後、1329年6月7日、54年の生涯を終えたロバート。戦いに明け暮れた人生をふり返った時、敗れたことも勝ったことも思い出されたはずだ。その中にあって、バノックバーンで迎えた勝利の夏至の日を思い起こすたび、ロバート1世の心は強い誇りに満たされたに違いない。

B Bruce(ロバート1世)軍 C Carrick(エドワード・ブルース)軍
M Morey(ロバートの側近、モーレイ伯)軍 D Douglas(ロバートの右腕、ダグラス卿)軍

ダンファームリン修道院内にある、ロバート1世の墓。
ただし、心臓はスコットランド南部のメルローズ修道院に埋葬されたと考えられている。
言い伝えによると、十字軍に参加しなかったことを悔いたロバート1世の遺言に従い、側近中の側近、
ダグラス卿はロバート1世の心臓を入れた小箱を胸にエルサレムに向かおうとしたものの、
途中、イベリア半島で戦死、同卿の遺体とこの小箱はスコットランドに持ち帰られたという。© Otter


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