みずから戴冠した男
1298年の「フォルカークの戦い」での敗北を受けて「スコットランドの守護者(Guardian of Scotland)」の役をウォレスが辞した後、この栄えあるタイトルを与えられたのはロバート・ザ・ブルースとジョン・カミン(John Comyn)だった。カミンは、エドワード1世の傀儡として即位した後にフランスに追われたジョン・ベイリオルの甥である。
ジョン・ベイリオルとの権力争いに敗れた、ロバートの祖父以来、ブルース一族とベイリオル派との対立は因縁深いものとなっていた。
カミンもロバートも、国王の座を争うこのレースで、相手をどう出し抜くかを日夜考えていたに違いない。表面上は、対イングランドで協力しあうように見せかけながら、様々な策を練っていた。
長らく膠着(こうちゃく)状態が続いたものの、それが崩れる時が突然訪れた。それは、寒さの厳しいある冬の日、1306年2月10日のことだった。
カミンとロバートは、ダンフリースのグレイフライアーズ教会で話し合いの機会を持つことになったのである。一説によると、ロバートがイングランド軍に対して決起した際にカミンが支援するという約束を密かに交わしたにもかかわらず、その密約の内容をカミンがエドワード1世にもらしたことをロバートが知って激怒。その裏切りに抗議する目的でロバートがカミンを呼び出したとされている。
ふたりは、教会の中で激論を交わし、やがて殴り合いに発展。ここでロバートは、聖なる館である教会内であったにもかかわらず、剣を抜き、なんとカミンを殺害してしまったのである。
初めからロバートが、カミン殺害を胸にこの会見を提案したのかどうか、ロバート本人にしか分かり得ないことだが、この出来事は、ロバートの生涯の中で、後戻りのできないターニング・ポイントとなったことだけは明白である。
カミンを殺害してしまった以上は選ぶ道はふたつ。ひとつは犯人として逃げるか。もうひとつは、この罪を許すことのできる絶対権力を有する座にみずから就くか。後者はつまり、スコットランド国王に『なる』ことを意味した。
ロバートは腹をくくった。
カミン派の貴族が動く前に先手を打たねばならない。
ダンフリースでの事件の6週間後、ロバートはパース近郊のスクーンで戴冠式に臨んだ。ウィリアム・ドゥ・ランバートン司教の手により、正式な儀式が執り行われたのだった。ロバートは、教会内で蛮行を働いた罪により、ローマ・カトリック教会からは破門されていたものの、この戴冠式にはグラスゴーの司教らも参列した。さらに、ロバート支持の貴族たちが集い、門出を祝った。
1306年3月25日、かくしてロバート1世が誕生したのである。しかし、ロバートの笑顔はさえなかった。頭上に輝く王冠の重みから伝わる喜びよりも、前途に横たわる難題への懸念のほうが大きかったからだ。
まずは、スコットランド国内の反対派をすべて鎮圧しなければならない。スコットランド独立など、先の先のこと。とにかく、スコットランドを国としてまとめることが先決だ。そして、ロバートが国王として認められるには、武力闘争に勝つしかなかった。

スコットランドでは、大手銀行にも紙幣発行の権利が認められている。
写真は、クライズデール銀行発行の20ポンド紙幣に描かれたロバート1世の肖像画。
永遠に去った最大最強の敵
その国内闘争と平行して、イングランド軍が支配する城をひとつひとつ落とす地道な戦いを始めたロバートだったが、まもなく、ロバートは天が自分に味方していることを再認識する。イングランドのエドワード1世が、即位したばかりのロバート1世の軍をたたきのめそうと北上する途中で急死したのである。
1307年7月7日のことだった。享年68。身長が190センチもあったので「Longshanks」(ロングシャンクス=長脚)と呼ばれ、また、スコットランドに容赦なかったことから「Hammer of the Scots」(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ=スコットランド人への鉄槌)との異名を取った。敵からは恐れられたが、武勇に優れた知将で、イングランド内では名君と称される。このエドワード1世がいなくなったことは、ロバートにとっても、スコットランドにとっても、うれしいニュースだった。跡を継いだエドワード2世が無能だったからである。
ロバートは戦いに戦った。1308年には、150年にわたりスコットランド西部を支配してきたカミン派勢力の一掃に成功。1310年にはリンリスゴウ、11年にはダンバートン、12年にはパースをそれぞれ自らの管理下に置くに至った。いよいよ、次に狙うはスターリング城である。
スターリングは、スコットランドの首都だったこともある古い町。南部のローランド(Lowlands)と北部のハイランド(Highlands)を つなぐ主要路がここを通ることから、『ハイランドへの鍵』と呼ばれ、交通の要衝であるとともに、軍事上の重要ポイントとして、時には スコットランドの部族・貴族同士が、あるいはイングランドとスコットランドが、盗ったり盗られたりを繰り返して きた血なまぐさい場所でもある。

1314年春、ロバートの弟、エドワード・ブルースがスターリング包囲を開始。イングランド王から任命され、城主を務めていた フィリップ・モウブレイは、戦闘となれば自分も命を賭して戦わねばならないことを理不尽と考えたのか、6月24日までにイングランドから 援軍が到着しなければ、無血開城することを約束する。
スターリング城を明け渡してはならない。父王と似ても似つかぬエドワード2世でも、それぐらいのことは分かる。エドワード2世=上の絵=は2万の大軍を率いて北上した。
ロバート1世も、弟の軍と合流。運命の6月24日は、刻一刻と近づいていた。

スクーン宮殿にある、『運命の石』のレプリカ
(建物の手前の積み木のように置かれた石のうち、腰をかける部分)。
本物の『運命の石』がウェストミンスター寺院からスコットランドに公式に戻されたのは、1996年のこと。
『奪還』に、実に700年もかかったことになる。
現在はエディンバラ城の「クラウン・ルーム(王冠の間)」に展示されているこの石がスコットランドを離れるのは、
ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われる時のみ。


セール情報をいち早くGET!今週のお買得★食料品『TKトレーディング』