敵を審判役に招きいれた愚か者たち

 この不運続きのアサル王家の跡を継ぐのは誰か。
名乗りをあげたのは13名もの『近親者』たちだった。このうちのひとりが、ロバート・ザ・ブルースの祖父、ロバート・ブルース(「ザ」がない点に注意)。最大のライバルは、血筋の上ではより『正統』とされるジョン・ベイリオル(John Bailliol)だったが、ここでスコットランド側は取り返しのつかぬ過ちをおかしてしまう。
内戦勃発を恐れるあまり、あろうことか、宿敵イングランドのエドワード1世に『審判』役を依頼したのである。飛んで火に入る…とはまさにこのこと。大軍を率いて北上したエドワード1世の前に、統率がとれず、対立したままのスコットランド貴族たちはいいなりになるしかなかった。結果的に、ベイリオルが即位するが(在位1292~96年)、エドワード1世の傀儡(かいらい)でしかなかった。
ベイリオルは、当初こそ、エドワード1世の要求を受け入れていたものの、1294年、他のスコットランド貴族たちがエドワード1世に反旗を翻してフランスと同盟を結んだこともあり、みずからも1296年、挙兵した。しかしながら、エドワード1世軍に大敗。スコットランド王が代々、戴冠する際の『座』として使われてきた、スクーン宮殿の「運命の石(the Stone of Destiny)」を奪われてしまったのである=次頁の写真参照。
「運命の石」までも失い、王位を捨てることになったベイリオルは、イングランド軍に捕らえられ、長男エドワードとともにロンドンに移送され、3年間、ロンドン塔に幽閉された。だが、ここで処刑はされず1299年、釈放され、フランス北部のピカルディにあったみずからの所領に追われた。事実上の隠遁(いんとん)生活を15年間送ったあと、1314年に逝去する。
処刑されずに生きながらえた人生が幸せだったかどうかは分からないが、ベイリオルに、王の器は備わっていなかったことだけは確かなようだ。

 



エドワード1世(Edward I, 1239年6月17日~1307年7月7日、在位1272~1307年)は、
ウェールズ制圧にも情熱を燃やした。自分の息子、すなわち未来のイングランド国王=皇太子に
「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を初めて授けた。これが後のエドワード2世である。

 

見得のために裏切られた英雄

 スコットランドを完全に支配下に置こうと画策するエドワード1世に一矢を報いたのは、王権争いには直接には関係のない2人の騎士だった。
一人はウィリアム・ウォレス(William Wallace 1270頃~1305年)、もう一人はアンドリュー・モーレイ(Andrew Moray ?~1297年 )。前者は、ハリウッド俳優、メル・ギブソンが主演・監督を務めて大ヒットした映画『ブレイブハート』でお馴染みだろう。
2人は、1297年9月11日、スコットランドのスターリング郊外でスコットランド軍とイングランド軍が激突した「スターリング・ブリッジの戦い(Battle of Stirling Bridge)」=写真下=において、スコットランド軍を勝利に導いたのである。重装備のイングランド軍は、湿地帯で足を取られて機動力を減じられ、スコットランド軍に屈した。
この時、エドワード1世はフランスに遠征中であった。
「スターリング・ブリッジの戦い」での勝利は、イングランド軍をスコットランドから駆逐するほどの大勝利ではなかったものの、何世紀にもわたってイングランド軍との戦いで勝利をおさめたことのなかったスコットランド軍が、数や装備で圧倒的に優位にたっていたイングランド軍を破った画期的なもので、スコットランド人に誇りと自信を呼び戻したのだった。
モーレイは残念なことに、この戦いで負った傷がもとで同年、没してしまうが、勢いにのるウォレスは、逆に北イングランドを攻め、スコットランドに展開するイングランド軍に揺さぶりをかける。
だが、その命運は1298年、スターリングの南で繰り広げられた「フォルカークの戦い(the Battle of Falkirk)」であっけなく尽きる。自軍敗退の報を受けて激怒したエドワード1世は、フランス王フィリップ4世と講和を結び、急ぎ帰国。即座に反撃を開始し、ウォレスを追い詰めていったのだ。
ここで、天はウォレスに味方しなかった。
スコットランド史上、同じ「英雄」と称されるロバート・ザ・ブルースとウォレスながら、決定的な違いがあったとすればこの点ではなかろうか。ここ一番という時に、天が味方するかどうか―。ロバート・ザ・ブルースに限らず言えることだが、人の上に立つには、『運』が必要である。ウォレスにはこの『運』が足りなかったようだ。ウォレスの身分が低いとして、スコットランド貴族がウォレスに非協力的だったのである。
フォルカークの戦場でも、騎兵の提供を約束したスコットランド貴族たちが裏切って戦わずして撤退、ウォレスは多くの兵を失ったとされている。その時の悔しさと悲しみはいかばかりだったことか。
フランスやバチカンに対し、援軍を要請するために大陸にわたったとされるウォレスだが、1303年に失意のうちに帰還。1305年8月、さらなる裏切りにあい、イングランド軍に捕らえられ、裁判にかけられた末、23日にロンドンのスミスフィールド(肉市場がある場所)で絞首刑の後、四つ裂きの刑に処された。