アトランティス大陸の痕跡
マルタの語源については、いくつかの説がある。最も有力とされているのは、この島でハチミツが多量にとれたことから、古代ギリシャ語で「ハチミツ」を意味する「メリタ」に由来するというものだ。他には、多くの湾や入り江が入り組んだ複雑な地形をしているため、古代フェニキア語で「避難所」を意味する「マレス」に由来するという説もある。
こうした語源からもわかるように、マルタは長い歴史を誇る国である。その起源は、少なくとも紀元前5000年頃まで遡ることができるという。
マルタストーンで造られたハチミツ色の建物と、張り出しのバルコニーはマルタ名物。 隣のシチリア島から渡来してきた人々が集落を成し、耕作や祭事などを共同で行いながら生活しはじめたのが興りとされている。ゴゾ島のものも含めて30以上ある巨石神殿はその痕跡と考えられており、最古の神殿跡は約7000年も前のもの。エジプトのピラミッドや英国のストーンヘンジよりも2000年以上古く、現存する「最古の石造建築」とさえいわれ、これらの神殿群のうち6つが世界遺産に指定されている。
ところが、神殿を建築した先住民たちは、紀元前2000年頃を境に突如島から姿を消し、数百年のあいだマルタは無人島と化してしまう。その要因としては、現在の風景からは想像し難いのであるが、緑豊かであった島が、開墾や耕作による乱開発が進んだ末に不毛の地に変わってしまったため、人々が離島した、というのが通説である。しかし一方で、巨石神殿にみる文明の高さや解明されていない多くの謎ゆえに、マルタは古代ギリシャの哲学者プラトンが記した、神の怒りによって海中に沈められた大西洋の大陸「アトランティス」の痕跡ではないか、との説もたびたび言及されている。マルタはまさに、古代へのロマンがかきたてられる地と言ってよさそうだ。
マルタ騎士団と難攻不落の城塞
知られざる小さな島であったマルタが急成長するのは、16世紀のこと。
地中海の真ん中に位置する同島は、天然の良港をいくつも備えることから、軍事拠点や交通の要衝として勢力争いの中心になってきた。フェニキア、カルタゴ、ギリシャ、ローマ、オスマン帝国など、数多の国々がマルタに攻め入ったが、その戦乱に満ちた歴史の核をなすのが「聖ヨハネ騎士団」、通称「マルタ騎士団」の存在だ。城塞都市ヴァレッタの基礎を築いたのも彼らであり、マルタ騎士団なくしてマルタを語ることはできないだろう。
首都名の由来ともなった、マルタ騎士団の英雄、ヴァレット団長像。
同騎士団が発足したのは11世紀。キリスト教の聖地エルサレム近郊にあった聖ヨハネ修道院の跡に、巡礼者向けの宿泊所を兼ねた病院が建てられたことが発端とされている。当初は巡礼者の保護や巡礼ルートの警備にあたっていたが、やがて聖地防衛の主力として活躍。負傷者や病人の看護にもあたり、イスラム勢力と戦う十字軍の遠征を支え続けた結果、1113年にローマ法王より「聖ヨハネ騎士団」として公認された。
しかし、13世紀後半に聖地エルサレムが陥落すると、騎士団はキプロス島やロードス島へ逃れてイスラム勢力と独自に戦うようになる。16世紀前半には、オスマン帝国がロードス島を奪取。時の神聖ローマ皇帝カール5世は、その戦闘力を見込んで聖ヨハネ騎士団にマルタを与え、地中海内の周辺地域の守備にあたらせることを決めた。「マルタ騎士団」と呼ばれるようになった所以はここにある。
ところで、マルタ騎士団を代表する人物をひとり挙げるとすれば、ジャン・パリソー・ド・ヴァレットだろう。1565年のオスマン帝国軍による「マルタ大包囲戦」決行の際に、騎士団長を務めていた男である。4万からなるオスマン帝国軍に対し、マルタ騎士団軍は約9000人。にもかかわらず、ヴァレット団長はマルタに勝利という奇跡を引き寄せた。この歴史に残る勝利を収めた後、再度の来襲に備えて築かれた城塞都市が首都ヴァレッタで、その名からもわかるように団長の名前にちなんでいる。この難攻不落の城塞は、以後200年以上にわたってマルタに平和をもたらした。
マルタ騎士団員だった!? 殺人も犯した、流浪の画家
カラヴァッジョ
光と闇のコントラストや劇的な感情表現で知られるイタリア・バロック絵画の巨匠カラヴァッジョ(1571~1610)。彼は自身の絵と同様に、波乱に満ちた激動の生涯を送っている。
35歳の時にケンカ相手を刺殺し、殺人犯として追われる身となったカラヴァッジョは、ローマから逃亡。ナポリ、シチリア島を放浪した後、マルタにたどり着く。そして「絵を描けば、騎士の称号を授ける」というマルタ騎士団長からの提言のもとに、「聖ヨハネの斬首」=写真下=を制作した。キリストに洗礼を施した聖ヨハネの最期の場面を描いたこの作品には、イスラムとの戦いで命を落した騎士たちへの鎮魂の思いが込められている。同作は聖ヨハネ大聖堂内にある騎士用の礼拝室に飾られ、騎士たちは戦いの前に必ず、この絵の前で祈りを捧げたという。
絵を描き終えた1608年、カラヴァッジョはローマ教皇により免罪され、念願であったマルタ騎士団の一員となったが、再び暴力事件を起こしてヴィットリオーザにある聖アンジェロ要塞に投獄される。だが、約1ヵ月後に脱獄し、ローマへ向かう途中で病死した。享年38。

カラヴァッジョが唯一、自身のサインを残した「聖ヨハネの斬首」。聖ヨハネの首から流れ落ちる血で、
カラヴァッジョのファーストネームであるミケランジェロの名が描かれている(写真右、部分図)。


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