高さ6メートルの国境
ハドリアヌスの一行が、ブリタニアと呼ばれていた現グレート・ブリテン島に渡ったのは122年のこと。
かつては、ヨーロッパ大陸から渡来した者が最初に目にしたであろう白い崖が起源とされる、「アルビオン=白い国」という名で呼ばれていたこの島は、ケルト系ブリトン人が広く移り住んだことから、紀元前4世紀ごろより「ブリタニア=ブリトン人の地」の名で言及されるようになっていた。
カエサル(シーザー)が紀元前55年、54年に遠征を試みたあと、紀元43年、4万からなるローマ軍が侵攻、ブリトン人の複数部族からなる連合軍を撃破。クラウディウス帝は属州ブリタニアの誕生を宣言したのだった。
ここでひとつ、改めて述べておきたいのは、当時のグレート・ブリテン島は、三十余りともいわれるケルト系の部族が群雄割拠する、戦国時代のごとき有様で、統一国家の成立など夢のまた夢といえる状態だったことだ。文字を持たず、ローマ人から見ると「蛮族」に分類されるケルト系部族は、勇敢に戦ったものの、ローマの大軍の前には屈するほかなかった。降伏後は、ローマ帝国への納税を条件に、ローマの行政単位のひとつである「キウィタス」という形で、各部族ごとに存続を認められるケースが多かった。ローマの軍門にくだったこのグレート・ブリテン島が、「日の沈まぬ国」となるには、こののち、1800年も待たねばならなかったのである。
ちなみに、「イングランド」(アングル人の地)の呼び名の語源となるゲルマン系アングロ・サクソン人が、本格的にヨーロッパ中部からグレート・ブリテン島に流入するのは5~6世紀のこと。このアングロ・サクソン系部族にしても、互いに反目する時代が続き、イングランド統一がほぼ成ったのは10世紀後半と存外遅い。1588年に、エリザベス1世の治下、スペインの無敵艦隊を破るまではヨーロッパの弱小国家のひとつでしかなく、18世紀に、他国にさきがけて産業革命が始まってようやく、世界のリーダーの座を争うレースに参加できるようになったのだった。
さて、話を紀元1世紀に戻そう。
グレート・ブリテン島の南部がローマの支配下に入った40年後、北部を拠点とする有力部族のひとつ、カレドニア人の軍もローマ軍相手に敗退し、ローマの属州ブリタニアは最大規模となるに至る。
しかし、北方部族がおとなしくしている期間は短かった。ハドリアヌスのブリタニア視察にさきがけ、119年頃から、北部での抵抗運動が活発化。122年にブリタニアに足を踏み入れたハドリアヌスは、ローマ軍の前線に沿って塁壁を築くよう命令をくだす。現在の北部イングランドに、128年頃に完成したとされるこの塁壁が、今回取材班が訪れた「ハドリアヌスの長壁」である。
138年には、ハドリアヌスの後継者、アントニヌス・ピウスがハドリアヌスの長壁から約160キロ北に、後に「アントニヌスの長壁」と呼ばれる土壁を築いたが、ローマ軍は約20年後に再びハドリアヌスの長壁まで後退。それ以降、北方へと国境線が移されることはなかった。
場所によっては高さ6メートルにも達し、幅は約2・5メートルというハドリアヌスの長壁は、およそ290年間、ローマ属州ブリタニアの北の国境として機能。本誌12ページと13ページ上で詳しく触れるが、岩や丘陵沿いの崖なども利用しつつ、グレート・ブリテン島を横切るように120キロの距離にわたって、北方部族の前に立ちはだかり続けた、頼もしい存在である。
しかしながら、410年、西ローマ帝国の皇帝ホノリウスがついにブリタニアの放棄を宣言。ローマによる支配は終わりを告げ、ハドリアヌスの長壁も事実上、うち捨て去られたのだった。
それから約1600年。
万里の長城と比較すると、小規模である点は否めないとはいえ、ハドリアヌスの長壁は、ローマが誇った高い技術力と並外れた組織力との結晶であることを、今も無言で伝えている。その昔、長壁で見張りに立ったローマ軍兵士たちの姿が目に浮かぶようだ。娯楽も乏しい、北部イングランドの辺境の地で、彼らは毎日、何を考えて守りにあたっていたのだろう。
訓練と役務に明け暮れる兵士たちの日々や、ハドリアヌスの生涯、あるいはローマ帝国の栄華と衰退に思いをはせつつ、ハドリアヌスの長壁を実際に訪れに出かけてはいかがだろうか。
ローマの「聖天使城」こと、サンタンジェロ城。590年にローマでペストが猛威をふるった際、大天使ミカエルが城の上で剣をさやにおさめる姿を、当時の法王グレゴリウス1世が認め、それがペスト流行の終焉を意味するものだったとされている。このエピソードから、「聖なる天使の城」の名がついたと言われているが、歴代法王により要塞として強化されたり、牢獄として使われたりするなどした結果、美麗な名前に似合わぬ外観となっている。© Radomil

タワー・ヒルにある、トラヤヌスの像。
© Andreas Praefcke
ハドリアヌス帝
■第14代ローマ皇帝(在117~ 138年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝でもある、プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス・アウグウストゥス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus Augustus、76年1月24日~138年7月10日)=右の像=は、ローマ生まれとされている。トラヤヌス帝の甥にあたり、25歳でトラヤヌスの秘書となったほか、114年に始まったパルティア戦争(パルティアはイラン高原東北部を拠点に栄えた王国)では参謀司令官として活躍するなど、事務面でも軍事面でも優れていることが認められ、トラヤヌスの養子となり、皇帝の座についた。
■現実的な考え方の持ち主で、維持費が膨大である属州メソポタミア、アルメニアは放棄。また、官僚制度を確立する一方、行政・法制度を整え、領土内の統治の安定化に大きく貢献した。
■ハドリアヌスは同性愛志向であることを隠そうとしなかった。トラヤヌスの姪の娘である、ヴィビア・サビーナと結婚したものの、ハドリアヌスが深く愛したのは、美青年アンティノウスだった。しかし、属州アエギュプトゥス(現エジプト)の視察旅行中にアンティノウスは、20歳に届くか届かないかという若さで、ナイル河で溺死してしまう。事故だったのか、暗殺だったのか、あるいは他の理由があったのかは不明ながら、ハドリアヌスはひどく悲しみ、この愛人を神格化し、帝国の各所に像を建てさせた。
■1951年、フランスの作家、マルグリット・ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』を発表。同帝が、みずからの死に向き合う中で生涯を回想するという形をとり、ハドリアヌスの業績、アンティノウスをはじめとする周囲の人々との関係などをつづった、異色の歴史小説として評価されている。
■古代ローマから現在の日本にタイムスリップした浴場設計技師、ルシウス・モデストゥスを主人公にし、大ヒットした漫画『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキ・マリ作)で、ルシウスを重用する皇帝として登場するのがハドリアヌス。昨年公開の映画版では、俳優の市村正親(いちむら・まさちか)が演じている。ちなみにローマ帝国史上、初めてひげをのばした皇帝といわれているのもこの人物
■ハドリアヌスの逝去後、元老院は同帝を神格化することに難色を示したが、後継者(死の5ヵ月前に養子となった)アントニヌスは涙ながらに同帝の神格化を訴え、聞き入られるに至る。アントニヌスは、養父に対するこの敬虔な態度により、「アントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)」と呼ばれるようになった。


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