パートナー制度の発足
強い信念のもとに始めた改革だったが、なかなかスムーズには運ばなかった。資本支出を埋めるために、スピーデンは広い自宅を売り払い、フラットへ引っ越すという苦労もあった。
しかし、御曹司にしては打たれ強かったようだ。スピーデンが経営改革を始めてから5年。ピーター・ジョーンズ店の業績は上向き、当初の年8千ポンドの赤字から、1920年には年2万ポンドの黒字へと転換した。
事業から得られた利益は外部の投資者だけでなく、実際に働いて業績に貢献した人々にも分配されるべきだというスピーデンの思想に基づき、最初の配当が優先株の形でピーター・ジョーンズ店の社員に分配された。1914年に、社員に対してスピーデンが口にした、「将来、会社が利益を出した際には社員にも必ず分ける」という約束が守られたのだった。
今も引き継がれるパートナーシップ制度への最初の一歩がここに記されたのだ。これ以降、社員は「パートナー」と呼ばれるようになる。
ピーター・ジョーンズの黒字転換、パートナーシップの誕生などについて、一連の報告を受けた父ジョンがどのような反応を見せたか。資料は何も語っていない。84歳のジョンが、自らの価値観や経営哲学を変えるほどの衝撃を受けたとは思えず、面と向かってスピーデンをほめたとも考えづらい。しかし、反対を押し切って改革を進めたわが子が、一定の成果をあげたのである。ジョンは、人知れず、自分の心の中だけで祝杯をあげていたに違いない。
生涯の同志との出会い
スピーデンは高い教育を受けた人材の採用にも熱心で、特に大学で教育を受けた女性には小売業に経験がなくても仕事を与えようとした。
後にスピーデンの妻となるサラ・ベアトリス・メアリー・ハンター=写真下=も、第一次世界大戦前の英国でオックスフォード大学まで進んだ数少ない女性の一人で、1922年にピーター・ジョーンズ店に採用されている。
1年も経たないうちにベアトリスはスピーデンと結婚し、3人の子供に恵まれた。ベアトリスは、1929年から1951年まではパートナーシップの副代表を務め、スピーデンの生涯にわたる同志として、彼の理想を支えた。
スピーデンが会社の上級職への女性の登用を増やそうとしていた頃には、英国では女性参政権運動が盛んになっていた。「女性に参政権を」と唱えられ始めたのは1832年の大改革法令ができたころからだが、本格的に運動が始まったのは19世紀後半から。暫定的な改革を経て、1928年に21歳以上のすべての女性に参政権が認められることになった。貧富の差や、雇用する側と雇用される側との平等を常に意識していたスピーデンは、男女の雇用における平等についても敏感だったと伝えられている。

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ジョン・ルイス・パートナーシップって 結局、なんだ? |
![]() 協議会選挙にあたり、投票に臨む社員=パートナーたち(1970年撮影)。■これは、一口に言えば「社員所有企業制度」。初代から、ビジネスを引き継いだジョン・スピーデン・ルイスが実践を経て注意深く創りあげた経営形態だ。これは、「働く社員の幸福をまず第一に考え、その上でビジネスも成功させて利益を上げ、資本と労働のバランスを取る」という究極の理想を経営者としての目的として掲げたスピーデンの、理念の体現でもある。 ■現在では、ジョン・ルイスやウェイトローズなど事業内グループを合せて9万1,000人を超える社員=パートナーがおり、社員が共同所有する企業としては英国で最も規模が大きいものとなっている。 ■会社事業のリスクと利益をその会社の仕事に従事する人々で分け合うことは、スピーデンの事業における哲学の基盤。1回目の権利譲渡の合意から100年近く経った今でも、スピーデンのビジョンは生き続けている。ジョン・ルイス社員にとってパートナーであることは、今も非常に大切で必要不可欠なことなのだ。 ■また、スピーデンは、競争の激しい小売業界で常にトップとして走り続けるには、商業的に素早く行動に移せること、そのためには、外部の株主よりも会社の共同所有者であるパートナーの意見を民主主義的に反映させるほうが効率が良いと考えていた。 ■スピーデンのビジネスにおける才覚と先を見すえる洞察力、そして、会社としての良心や誠実さを大事にする姿勢は、当時では急進的なものだったかもしれない。やがて、時代が追いついたともいえるが、21世紀になった今日でもなお、通用していることは、ジョン・ルイスの好調な業績が実証している。 |



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