運命の落馬事故

  1909年5月24日、スピーデンは一瞬、何が起こったのかわからなかった。ロンドン北部ハムステッドの自宅からリージェンツ・パークを抜けてジョン・ルイス店へ出勤する途中に馬から振り落とされるという事故が起きたのである。肺に穴があき、2度も手術を受けなければならないほどの重症で、仕事に復帰できるようになるまで約2年間も療養する羽目になってしまった。
回復を待つ期間は長くつらいものだった。しかし、人間、万事塞翁が馬とはよく言ったもの。おかげでスピーデンには、自分の将来や自分が跡を継ぐことになる家業について深く考える時間ができた。
もともと、事故に遭う前から会社の利益を社員と分け合う方法を探していたのだが、ありあまる時間がある中でじっくりと思考を巡らすことができたのだった。そして、社員が会社の出資者ともなる有限責任会社の形態をとれば、事業を拡大していけるだけでなく、利益を社員に分配することができるのではないかという考えに至った。毎年、利益の一部を資本化して社員の給料に応じた割合で共有分を割り当てるようにすれば、会社内に残した資金を有効な投資に回すこともできると考えたのだった。
しかし、後のパートナーシップ制度の基礎となるこの案は、古い考えを持つ父のジョンには理解されず、一蹴される。いや、それどころか大きな怒りをかったのではなかろうか。スピーデンが恵まれた暮らしを送れているのは、ジョン・ルイスから得られる利益のおかげ。それを従業員にも分け与えるなど言語道断と、ジョンが烈火のごとく怒ったとしても不思議ではない。
それでもスピーデンは、あきらめなかった。その後も密かに自分の考えを熟成させて、創りあげた事業哲学を実践する機会を伺っていた。

 

 パートナーシップ誕生を促した 「社会主義の波」


アクトン・レーンにあったウェイトローズ(1914年撮影)。
裕福な暮らしを約束されていたスピーデンが、平等にこだわる独特の事業哲学を発展させていった背景には、時代の動きがあったことは否めない。富裕層と貧困層の格差の広がりを悲しむ気持ちは、欧州から英国へと流れ込みつつあった新しい社会思想に敏感に反応した。また、フランス革命からロシア革命へと続く流れも社会への不安を高める要素のひとつでもあった。
19世紀の産業革命がいったん落ち着き、社会がある程度の段階まで進歩し終えた時、資本主義の台頭の弊害で社会にひずみが出てきたことを憂える知識人が増え、どうにかして社会のあり方を変えたい、人々に平等に幸福と利益を
もたらしたいと考える人々による活動が見られるようになった。がむしゃらに働いて富を手に入れたジョン・ルイスなどから見れば、「キレイごとを並べるな」と怒りたくなったことだろう。
詩人で、テキスタイルなどのモダン・デザインの父といわれるウィリアム・モリス(1834~96年)は、マルクス主義に傾倒し、産業革命による大量生産で労働の喜びや手仕事の美しさが失われたと嘆いた。生活を芸術化するためには社会を根本から変えることが必要だと唱えて、1884年に「社会主義同盟(Socialist League)」を結成している。
また、ノーベル文学賞も受賞した劇作家のジョージ・バーナード・ショーや児童文学作家のイーディス・ネズビットらは、革命的でない緩やかな社会変革を目指そうと「ファビアン協会(The Fabian Society)」を、同じく1884年に設立し、資本を共同所有する考えなどを推進していた。この協会は今も存在し、英国労働党のシンクタンクとなっている。

 

31歳の息子からの挑戦状

 やがて、スピーデンに好機が巡ってきた。
1905年の買い取り以来、ずっと赤字が続いていたピーター・ジョーンズ店の経営に困り果てたジョンは1914年、スピーデンに、ピーター・ジョーンズ店の経営管理を任せることにしたのだった。
条件は、ジョン・ルイス店でも毎日5時まで働くこと。事実上、ひとりでシフト制を組んで働くようなものだが、スピーデンにとっては、これまで温めてきたパートナーシップ制度のアイディアを実行に移す絶好のチャンス到来であった。
「効率よく働く社員には高い給与が支払われるものだが、逆に良い給与がもらえるからこそ、効率的に働くのではないか」と考えていたスピーデンは、発想の転換を図る。社員が一生懸命に働く意味を職場に見出せば業績は必ず上がると信じて、革新的な方法で働く環境の改善に取り組んだ。
まずは、社員と経営者が双方向のコミュニケーションを率直に図ることができる場を作ろうと「コミュニケーション委員会(the Committees for Communication)」と呼ばれる、社員による委員会を設置。社員から選出された代表たちが定期的に上司抜きで社長と会談することで、自由に問題を提議したり話し合ったりできる機会を持てるようにしたのだ。
さらに、1日の勤務時間を1時間短縮したり、販売意欲を高めるために部署ごとに計算される歩合制度を取り入れたりもした。
しかし、父のジョンはこうした新しい改革には相変わらず懐疑的で、父子は激しく対立する結果となった。   1916年、スピーデンは、ついに大きな決断をくだす。80歳となった父、ジョンからの『父離れ』である。
ジョン・ルイス店の自分の持ち分を、父のピーター・ジョーンズ店における持ち分と交換することで、自分はジョン・ルイス店から完全に手を引く換わりに、ピーター・ジョーンズ店からは父を完全に切り離すことを申し入れたのだった。干渉されることなく自分の思うがままに経営できるようにするには、こうする他にない。スピーデンの人生を徹底管理してきた父ジョンからの独立を宣言したともいえる。スピーデン、31歳の船出であった。
挑戦状ともいえるこの提案を、ジョンがよくのんだものだが、「どうせ失敗して、そのうち泣きついてくるさ」とでも思っていたのではないだろうか。スピーデンは試されていた。
そうして、当時では画期的な試みだった3週目の有給休暇制度の導入や社員の宿泊設備の向上、社内報「Gazette」の発刊など、新たな改革が可能となったのだった。社員が自由に意見を述べられる場となった「Gazette」は、現在も英国で最も歴史のある社内報のひとつとされている。
また、1919年には、独自の民主的な組織作りを目指して社員の代表による協議会(Council)を設立した。このパートナーシップ協議会は現在も存続されており、ジョン・ルイスの管理運営委員会として、パートナーシップの方針や得られた利益をどのように使うかといったことに影響を与える重要な責任と役割を担い、ジョン・ルイス・パートナーシップの民主的な社風を体現している。



絹専門のカウンター(1930年代撮影)。