利益率をおさえ、多売で勝負

 ジョンは、短気ではあったが細かなところにまで目が届く人物で、商いの方法や商品の質と価格に強いこだわりと信念を持っていた。幅広い商品を取り扱う一方で、店内の陳列方法に凝るよりも最高の品質の品を仕入れることに熱心で、店の宣伝も全くしなかった。ほぼ毎朝、助手に手押し車を押させて買い付けに出向き、また、後年には最高級の絹の買い付けのためにパリまで足を運ぶこともあったという。
そうして鋭い眼力で確かな品質の商品を取り揃えていたうえに、販売価格については他の業者の追随を許さない、圧倒的な低価格を実現。例えば、当時の生地業者の間では33パーセントの利益を上乗せした価格が売値として一般的であったが、ジョンは、客にはこの店まで来た甲斐があったと感じてもらうべきだという考えから、利益を25パーセントにとどめた売値をつけていた。このため、ジョンの店の外には顧客が列をなして入店を待っているのが常だったと伝えられる。店内には商品がぎっしりと積み重ねられていたが、それでもスペースが足りず、店を少しでも広くするために壁の漆喰さえ取り払ってしまったほどであった。
ジョンが商才に長けた、抜け目のないビジネスマンであったことは、同業のピーター・ジョーンズ(Peter Jones)=写真右下=の店舗を買取ったエピソードからもわかる。
ピーター・ジョーンズの店舗は1877年に生地や小間物を扱う店として開店し、商売も好調だったのだが、1905年に創業者のピーター・ジョーンズが亡くなって2人の息子に引き継がれてからは顧客が激減して、経営が行き詰っていた。これを聞きつけたジョンは、その年の12月、オックスフォード・ストリートのジョン・ルイス店からスローン・スクエアのピーター・ジョーンズの店まで歩いていき、ポケットから千ポンド札(1943年まで発行されていた)20枚を出して、その場で店を買い取ったのだった。
1884年にジョンは、学校の校長をしていたイライザ・ベーカー(Eliza Baker)と知り合い、結婚した。イライザはジョンと同じイングランド南西部の出身で生家が生地屋。しかも3歳の時に父親を亡くすなど、ジョンとは共通点が多かった。
イライザは、ケンブリッジ大学のガートン・カレッジで学ぶことが許された最初の女学生のひとりであり、歴史と政治経済を専攻していた才女でもあった。当時は、女性には大学を卒業することがまだ認められていなかった時代である。
結婚相手としてジョンを紹介されたイライザの兄は、ロンドンの狭い店での商売でジョンが多額の収入を得ているとは到底信じられず、大切な妹の結婚相手が本当にまともな商人なのかを確かめるために、わざわざロンドンまで見に行った。そしてそこで、ジョンの店の外に並ぶ長蛇の列を目の当たりにし、やっと妹の結婚を許したというエピソードが残っている。
ジョンとイライザには2人の息子が授かる。長男が後に2代目としてジョンの店を継ぐジョン・スピーデン・ルイス(John Spedan Lewis)だ。このスピーデンが後に描く事業ビジョンが、現在も息づくジョン・ルイス・パートナーシップとして具現化されていくことになる。

 

 大胆なモットー 「どこよりも安く(never knowingly undersold)


1864年当時の店内の様子。
オックスフォード・ストリート132番地に開店して
間もなくの頃。
1925年、スピーデンは「ネバー・ノウィングリー・アンダーソールド(知る限り、どこよりも安く・Never Knowingly Undersold)」のスローガンをピーター・ジョーンズ店のモットーとして採用。後にはジョン・ルイス店にも取り入れた。もともとは、買い付け業者に少しでも安く仕入れるように促す言葉だったのが、「他よりも高い値段をつけることは決してありません」と顧客に保証する公約として知られるようになった。
「他店のほうが安い価格で提供していると分かれば、そちらの価格に合わせる」、「購入後に他店のほうが安かったとわかった場合には差額を返金する」というサービスは、損失を恐れる経営者にとって、安請け合いできる類のものではない。このポリシーの実践による損失を、利益のほうが最終的に上回るという自信がなければできないことだろう。

これは、重要な営業ポリシーとして、現在もジョン・ルイスとピーター・ジョーンズの店舗で実践されている。また、ジョン・ルイス社は自発的に地域の競合業者の価格を定期的にモニターして、価格を調整しているのだという。
ただし、小売業界も時代と共に変わってきているため、昔のままの条件では対応がむずかしくなってきているのが実情。返金期間の制限、オンライン販売のみの業者の価格は対象外、単純な価格の比較だけでなく補償期間の延長や配送費の有無などの条件も考慮に入れる、などなど、対応条件には細かい変更が加えられている。

 

格差社会に疑問を抱いた御曹司

 ジョン・ルイスの跡継ぎとなるジョン・スピーデン・ルイスは1885年9月22日にロンドンで生を受けた。スピーデンという変わった名は、8歳で孤児となった父のジョンを親代わりとして育てた大叔母、クリスチャン・スピード(Christian Speed)にちなんでつけられたものだという。
両親を早くに亡くした父のジョンが14歳から奉公に出ていたのとは異なり、裕福な家庭の長男として生まれたスピーデンは、14歳の時には名門私立のウェストミンスター校へ送られ、父の会社で働くことになったのは19歳になってからであった。
1906年に21歳の誕生日を迎えたスピーデンには、父の事業の4分の1の権利(5万ポンド相当)が譲り渡され、つまりはオックスフォード・ストリートにあるジョン・ルイス店から生み出される利益の4分の1を受け取れることとなった。この時からジョン・ルイスは一族経営の事業となり、1908年には弟のオズワルドにも同様の譲渡がなされた。
当時、ジョン・ルイス店には300人を超える従業員がいたが、全員の給与総額が1万6千ポンドであったのに対して、スピーデンが受け取ることになった金額は年間におよそ2万6千ポンド。『スーパー・リッチ』な青年となったスピーデンだが、本人は、従業員との収入格差に次第に気まずさを感じるようになっていく。
やがて、この不公平さが会社の業績や従業員の仕事に対する意欲にも影響を及ぼしていることにも気づき、ついには、こうした不平等がジョン・ルイスという会社の中だけではなく業界や経済全体にはびこっていて、広範囲にわたって深刻な影響を社会に与えかねない問題であると捉えるようになっていった。

 

ジョン・スピーデン・ルイス(21歳当時)。