
■ 飛行機黎明期の1930年代、英国~オーストラリア間の単独飛行を26歳で達成するなど、数々の世界記録を樹立した英国の女性飛行士エイミー・ジョンソン。第二次世界大戦が勃発すると、その操縦の腕前を買われて英空軍に所属。そして飛行任務中の1941年1月5日、テムズ河口の上空で消息を断った。悪天候などが原因で墜落したと伝えられたが、彼女の死後58年が経過した1999年、驚くべき証言が報じられた。「英陸軍が敵機と間違えて撃ち落とした」というのだ――。後編では、いよいよ謎に包まれたエイミーの失踪に迫る。
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
「大丈夫。心配しないで」
第二次世界大戦が始まると、エイミーは英空軍の中でも航空補助を担当していたATA(Air Transport Auxiliary)に操縦士として配属されることになった。飛行場と整備工場間を往復して修理が必要な軍の航空機や新型機、その部品などを輸送することが主な業務内容であった。同部署は女性の操縦士を積極的に募集しており、エイミーは機関誌で紹介もされている。
さて事故発生の前日、1941年1月4日。

エイミーは、スコットランドのグラスゴー・プレストウィック空港からオックスフォード近郊にあるキドリントン空軍基地まで飛ぶ緊急任務を指示され、スコットランドを出発した。数時間後に中間地点となる、ブラックプールのスクイーズ・ゲート空軍基地に着陸。その夜はブラックプールで暮らす実妹の家で過ごしている。
翌朝5日の天気は最悪だった。空はどす黒く厚い雲に覆われ、凍てつくような冬の強風が吹きすさび、時折ちらつく雪と立ち込める霧で視界は不良。素人の目から見ても、とても飛行できるような天候ではなかった。ところが、もう1日宿泊して様子を見るように説得する妹に対し、エミリーは笑顔でこう答えた。
「大丈夫、予定通りに出発するわ。視界が悪くても、私なら『嗅ぎ分け』られるから。心配しないで」
そうして午前10時45分、彼女はオックスフォードへ向けて飛び立っていった。これがエミリーの姿が確認された最後となった。

英護衛艦の乗組員の証言
約5時間後の午後3時30分。
イングランド東岸、北海と合流するテムズ河口域「Thames Estuary」を航行中だった英海軍の護衛艦の乗組員が、海面からわずか200メートルほどの低位置を飛ぶ1機の飛行機を発見した。彼いわく「エンジン音は聴こえなかった」。やがてその機体から「白く平らな何か」が落下するのを目撃し、おそらく操縦士がパラシュートで機体から脱出したのだと思った。ただ、どうして脱出がそれほど遅れたのか、彼には理解できなかった。
すでに飛行機と海面までの距離は60メートルほどしかない。機体から飛び出た白い物体が水中に潜り込むと、間もなく機体も着水。水面で一度大きく飛び跳ねてから再び着水した後、ゆっくりと海底へ姿を消していった。しかし、白い物体の姿はどこにも見当たらず、機体が墜落した場所とかなり近かったため、もしそれが脱出した操縦士だったとしたら生存は絶望的だと感じた。
飛び込む英軍艦の艦長
一方、その護衛艦とともに航行していた英軍艦「HMSヘイズルメア号」の乗組員も、墜落する飛行機を目にしていた。数人の目撃者によると、機体から脱出して海に落下したのは「2名」で、そのうちの1人は女性だったという。
事故当時、早朝から続く悪天候はますますひどくなっており、次々と襲い来る大波に加えて強い潮流、さらに降雪量も多いという悪条件がそろっていた。乗組員らは2人を救出しようとしたものの、あっという間に波間に掻き消えて女性の姿を見失ってしまう。何とかしてもう1人の生存者を救おうと無謀にも自ら率先して動いたのが、ヘイズルメア号の艦長ウォルター・フレッチャーであった。
フレッチャー艦長は荒れ狂う冷たい冬の海に、ためらいもなく飛び込む。生存者の男性のもとまで必死に泳ぎ着き、彼を支えながらヘイズルメア号の救命ボートが到着するのを今か今かと待った。しかしながら、うねる荒波は救命ボートの進路を阻み、なかなか彼らへたどり着くことを許さない。やっとの思いで到達したとき、フレッチャー艦長はすでに意識を失って浮かんでおり、助けたはずの男性の姿はどこにもなかった。
艦長はすぐに病院へ搬送されたが、数時間後に亡くなっている。
深まる謎
飛行機墜落から2日後、新聞各紙が朝刊で一斉にこの事故を報じた。
「英空軍所属の女性飛行士エイミー・ジョンソンの操縦する機体が、任務中にテムズ河の河口付近で墜落。事故機からパラシュートで脱出する姿が目撃されたものの、現在も行方不明」
この報道を見て、護衛艦やヘイズルメア号の乗組員たちは、初めて操縦士があの有名なエイミーであったことを知った。飛行機の操縦には慣れていたはずなのに、なぜあのような荒れた天気の中で飛んだのか? 目的地はオックスフォードだったはずなのに、強い東風が吹いていたとはいえ、こうも進路を大きく外れるものなのか…?
噂が噂を呼び、様々な憶測が飛び交った。主なものは次の4つで、
① ヨーロッパ大陸へ飛ぶ極秘任務を命じられていた
② 敵のドイツ軍機に見つかり追撃された
③ 悪天候で進路を見失い彷徨っていたところ、英軍に敵機と間違われて撃ち落とされた
④ 自分の死を装って逃亡した。
これに対し、英空軍はすぐさま公式発表を行った。
「悪天候による視界不良と機体の操縦不可、その結果燃油切れになったことが墜落原因で『人為的なミス』である」。そして、パラシュートで脱出したとされるもう1人の人物については、「そのような者はいなかった。波間に浮いていたのは救命具で、目撃者の見間違いである」。
墜落現場付近からは、飛行機に積んでいたと思われる救命胴衣やエイミーの航空日誌、小切手帳などが回収されたが、彼女の遺体はもちろん事故機の一部すら見つからず、事故発生から数日後に捜索は打ち切られた。
暗号を間違えた?

エイミーの失踪から58年が経過した1999年、ある退役軍人の1人がテレビのインタビュー番組に出演し、衝撃的な告白をしたことで、墜落事故が再び大きな脚光を浴びた。この元軍人は第二次世界大戦時、テムズ河口域「Thames Estuary」に建つ英陸軍基地のひとつに配属されていた。
「1機の航空機が、我々の監視区域内に入ったのに気付きました。敵機か味方機かを判別するため、操縦士に『暗号』を送るようリクエストしたが、相手は2回間違った返信をしてきた。2回目の返信が来たその瞬間、我々の砲弾が火を噴き、機体は海へ落ちていきました。それが敵機であったと信じてまったく疑っていませんでしたが、2日後の新聞を見て、自分たちが撃ち落としたのが誰だったかを知り、驚愕しました。するとそこへ上官たちがやって来て命じたのです。『このことは口外しないように』と」
英軍は機体認識に使う識別コードを定期的に変更しており、エイミーがそれを間違えたことから、敵機と判断されて撃墜された――という話であった。それが本当だとしたら「悲劇的なミス」だったのかもしれないが、そもそもこれほど極秘任務説や撃ち落とされたとする説がまことしやかに流れたのは、墜落現場が「特殊な場所」だったからである。
ロンドンへの入り口であるテムズ河口付近には造船所も多く、英国の防衛と造船所の警備、欧州戦線の燃油や武器の補給地として、英陸軍と英海軍の基地が乱立する「危険地帯」だ。その上空を飛行することは命がけであり、余程の理由がなければ、操縦士はこの海域に近づかない。エイミーの墜落事故を聞いた操縦士仲間たちは、極秘の緊急指令を受けて「最短距離」でフランスの都市ランスへ向かう途中だったのではないか? と考えたという。ランスには後に連合国遠征軍最高司令部が置かれ、ドイツ軍の降伏文書の署名も行われるなど、第二次世界大戦中に重要な役割を担った地である。

また、同乗者がいたとの噂にも首をかしげた。彼女が所属する英空軍のATAでは、「人を運ぶこと」は規定で禁じられていたからだ。もしこれが事実ならば、密命を帯びていたに違いない…。
このテレビ・インタビューは大きな反響を呼び、真実を確かめようと2002年、英空軍が沈んだ機体を引き上げるために海底捜索を実施。その後も何度か捜索が行われているものの、いまだに何も発見できていない。エイミーが当初の航路を外れた理由も、勘違いとされた同乗者の存在も、すべての謎が解き明かされる日はおそらく来ないだろう。かつて「空の女王」と呼ばれ笑顔を振りまいていた彼女は、今は海の底で沈黙を貫いている。
週刊ジャーニー No.1226(2022年2月10日)掲載