英軍に撃ち落とされた!?
 失踪した女性飛行士 エイミー・ジョンソン 前編

■ 飛行機黎明期の1930年代、英国~オーストラリア間の単独飛行を26歳で達成するなど、数々の世界記録を樹立した英国の女性飛行士エイミー・ジョンソン。第二次世界大戦が勃発すると、その操縦の腕前を買われて英空軍に所属。そして飛行任務中の1941年1月5日、テムズ河口の上空で消息を断った。悪天候などが原因で墜落したと伝えられたが、彼女の死後58年が経過した1999年、驚くべき証言が報じられた。「英陸軍が敵機と間違えて撃ち落とした」というのだ――。その日、彼女の身に一体何が起きたのか?

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

謎多き「空の女王」の死

© liz west
初フライトで英国~オーストラリア間の単独飛行を成功させ、大英帝国勲章(CBE)を授与された頃のエイミー。

1941年1月7日。

「一昨日、英空軍所属の女性飛行士が操縦する機体が、任務中にテムズ河の河口付近で墜落。事故機から操縦士がパラシュートで脱出する姿が目撃されたものの、現在も行方不明」と、新聞各紙が一斉に報道した。事故当日の5日朝は、酷い悪天候であった。空はどす黒く厚い雲に覆われ、凍てつくような冬の強風が吹きすさび、雪もちらついていた。「視界不良の上、機体の操縦をコントロールできなくなったことが墜落原因とみられる」――どの記事もそう締めくくられていた。

行方不明となった女性飛行士の名前はエイミー・ジョンソン、37歳。女性として世界で初めて英国からオーストラリアまでの単独飛行を成功させた人物で、この偉業達成によって大英帝国勲章を授与されただけでなく、彼女を称える歌「Amy, Wonderful Amy」がリリースされるなど、当時の英国では「飛行業界の女性パイオニア」「空の女王」と呼ばれて名の知れた存在だった。

飛行機の操縦には慣れていたはずなのに、なぜ荒れた天気であったにもかかわらず飛び立ったのか? 目的地はオックスフォードだったはずなのに、なぜ進路を大きく外れたテムズ河口で墜落したのか? 様々な疑問を残したまま、事故発生から数日後にエイミーの捜索は打ち切られた。

才能の開花

エイミーは1903年、ヨークシャー東部の都市キングストン・アポン・ハルで生まれた。母方は市長の一族、父は鮮魚の商会を営んでいた。シェフィールド大学で経済学を修めた後、ロンドンへ上京してショップ・アシスタントとして勤務。のちに法律事務所に転職し、そこのメンバーを通して「飛行機」と出会った。

小型の軽飛行機が「空飛ぶ車」との触れ込みで次々と販売され、スポーツの一種として誰でも操縦訓練を受けられたこともあり、失恋したばかりで傷を抱えていたエイミーの心はあっという間に空を飛ぶ魅力に取りつかれていった。1928年の春には、ロンドン北部エッジウェアにある飛行クラブ「London Aeroplane Club」に入会。トレーニング料は安価とは言えなかったため、最低限のレッスン数しか受講できなかったが、終業後や週末など少しでも時間があれば飛行操縦について考え、仲間と議論し、教科書を隅々まで読みつくして操縦免許取得に全力を注いだ。そして、1年経たずして翌年の1月に操縦免許を見事獲得。7月には飛行士としての腕前も「A」認定を受けた上、その年の終わりには英国人女性としては初の航空エンジニアの資格まで取得している。

世界一を狙うには

最初の長距離デビュー・フライトは、「腕試し」としてヨーロッパ大陸の都市を目指すのが一般的であったにもかかわらず、飛行士として生きていくことを決断し、法律事務所を退職したエイミーが目的地として選んだのは、なんとオーストラリアだった。しかもサポートする同乗者のいない単独飛行での挑戦である。

当時は飛行機黎明期と言える時代で、飛行機操縦のパイオニアを自負する飛行士たちが、誰も達成したことがない長距離飛行記録の更新や最短時間での目的地到着に命がけで挑戦し、世界中で熾烈な争いが繰り広げられていた。日々塗り替えられる世界記録をチェックし、未踏のルートを探し出し、そこへ「一番乗り」する…。こうしてキャリアを築きながら、歴史に自身の名を残そうとしのぎを削っていたのである。エイミーが選んだ英国・ロンドン~オーストラリア・ダーウィン間を飛ぶルートは、数年前に男性飛行士が到達していたものの、女性ではまだ成功者がいなかった。

自分の専用飛行機もなく、購入する資金も足りなかった彼女は、故郷で暮らす父親と彼女の才能に目を止めた石油会社のオーナーから出資を受け、中古の軽飛行機を購入。そして経由予定の各都市で補給する燃油を確保するために、スポンサーを募って自分を売り込む手紙を方々へ書き送った。その熱意は人々の心を動かし、わずか2ヵ月ですべての準備を整え終えている。

1930年5月5日の朝、エイミーはロンドンのクロイドン空港を飛び立つ。砂漠を越えてインド方面を目指し、さらに大量のサメが生息することで有名なティモール海も越えて、20日目の5月24日夕方、現地メディアや大勢の観衆が出迎える中でオーストラリアのダーウィンの地に降り立った。彼女の願い通りに、「女性飛行士として世界初」の快挙を「初挑戦」で成し遂げたとして、その名は世界中で報じられることになった。操縦免許を取得してからわずか1年4ヵ月、26歳のときのことだった。

遠い日本へ逃避

日本滞在時には和装を楽しんだエイミーと、ジャック・ハンフリーズ。

英国へ凱旋した彼女を待ち受けていたのは、想像以上のエイミー・フィーバーであった。マスコミに追い回され、パーティーや晩餐会の招待状が連日連夜届き、ファンレターが山ほど送られてくる。疲れ切ったエイミーは英国から離れ、なるべく遠い地で気分転換しようとミステリアスなアジアへ飛ぶことを決めた。彼女は父親へ宛てて「ロンドンからモスクワまで飛び、そこからシベリア鉄道で北京へ入るつもりです。でも、もし情勢が許すならモスクワから北京へも飛行機で向かいたい。モスクワに着いてから情報を集めて、どうするか決める予定です」と心境を書き送り、「このフライトについては絶対にマスコミに漏らさないで」と約束させている。

しかし、機体の故障のため出立から3日後、ポーランドのワルシャワに不時着。じゃがいも畑に突っ込み、右目に軽傷を負ってしまう。結局、北京行きは断念した。

アジアへ向かうにはさすがに単独飛行の難しさを感じ、同じ飛行クラブの大先輩で友人のジャック・ハンフリーズに同行を頼んで、改めて再挑戦することにする。このときの目的地は中国ではなく、より英国から遠い日本。1931年7月28日にロンドンを発ち、8月6日に東京へたどり着くという、これまた金字塔を打ち立てた。

運命の出会いは突然に

1930年に、オーストラリアでの事故で出会ったエイミーとジム・モリソン。2年後に結婚した。

さて、飛行士としての実績だけでなく、この頃はプライベートも非常に充実していた。1932年にはスコットランド出身の飛行士で、2歳下のジム・モリソンと結婚している。

2人の出会いは運命的と言えるものだった。デビュー・フライトが大成功を収めた後、エイミーはオーストラリア各地を飛行機でめぐりながら、祝賀セレモニーが行われる最終地シドニーへ数日かけて移動することになっていた。世界一の若き女王の姿を一目見ようと多くの市民が押し寄せ、各地は大混乱。エイミーは感謝の気持ちを込めて頭上で旋回するなど、パフォーマンスを見せていた。だが、長旅でフル活動を余儀なくされていた中古の飛行機は限界を迎えていたのだろう。ブリスベンで着陸直前にプロペラが外れて墜落。彼女にけがはなかったものの、機体は大きく損壊して、第一号の愛機とは別れることになった。このときに手助けし、シドニーまで飛行機で送ってくれたのがジムだ。2人は出会ってから2年後の1932年に結婚した。

結婚後、エイミーは夫とペアを組んで飛ぶようになったが、飛行士としての相性はまったく合わなかったようだ。ニューヨークへの飛行中にエンジン・トラブルに見舞われたり、オーストラリアがゴールの航空レースで離脱したり、そもそもロンドンを飛び立てなかったりしたこともあり、夫妻のフライトは一度も成功しなかった。こうした失敗は2人の仲を徐々に悪化させていき、やがてジムは飲酒や女性問題が報じられて飛行士としての名声も失墜させてしまう。エイミーは再び単独飛行に挑戦し、1936年にはロンドン~ケープタウン(南アフリカ)間を最短時間で飛行、ジムが所持していた世界記録を破った。大きくプライドを傷つけられたジムは、この出来事が決定打となって2人は別居、2年後に離婚している。

これを機に、体力的に世界記録に挑戦するには限界を感じはじめていたエイミーは、航空会社の操縦士へ転向した。当時はどれほど「一流の飛行士」として有名であっても女性が操縦士として企業に所属することは難しく、いかに彼女の腕前が買われていたかがわかるだろう。そうした中で第二次世界大戦が勃発。エイミーは英空軍の操縦士に抜擢されることになる。そして1941年1月。ついに、「その日」がやって来る――。

© Spudgun67
結婚するまでエイミーが暮らしていた、クリックルウッドにあるハーフティンバー様式のフラット。壁にブループラークが飾られている。

週刊ジャーニー No.1225(2022年2月3日)掲載