生死を分けた防御網

 では一体、メアリー・ローズはなぜ沈没したのか、船内で何が起こったのか。乗組員のほとんどが命を落とした後となっては、その確かな原因を探るのは簡単なことではなかった。生き延びることができたわずか35名(生存者数については諸説ある)の証言もまちまちで、沈没前に突風に見舞われ、傾いた拍子に、開いたままとなっていた砲門から水が大量に入り込んだ、あるいは多くの武器を積み込みすぎて重量オーバーであったため、突風によってバランスを崩したなど、沈没の原因を知る手がかりとはなっても、決め手とはなり得なかった。
近年の研究では、英語を母国語としない外国人傭兵が含まれており、司令官の指示が的確に伝わらなかったという人為的ミスとの見方もされている。
一方で、岸から近いにもかかわらず、生存者が極めて少なかったのはなぜなのか。そう疑問を持つ人もいるだろう。船長、砲手、射手、船医、料理人など、500人以上の命運を分けるその鍵は、頑丈に編まれた網が最上デッキに張りめぐらされていたことにあると考えられている。当時の海戦といえば、敵船に乗り込んでの接近戦が主流だったため、メアリー・ローズには、敵の侵入を防ぐ工夫が施されていたのだ。ところが侵入を防ぐことは同時に、中からの脱出を困難にすることにほかならない。敵から身を守るためのものが、皮肉にも逃げ道をさえぎる結果となり、乗組員は船と運命をともにすることになったという説が有力だ。
予期せぬ大惨事に見舞われたイングランド軍だが、幸いにも、それ以上の攻撃を受けるにはいたらなかった。フランス軍は、戦況を打破できぬまま、数週間のうちに撤退していった。その後、メアリー・ローズの帆や索具が可能な限り回収された。艦船だけでなく、兵士、大量の武器を失い、イングランド海軍にとって大きな打撃となったのは、想像に難くない。しかし、それによって、チューダー朝時代の様子を現代に伝える貴重な財産として、現代の私たちの前に姿を見せることになるのである。

 

激しい嵐の冬の後

 冒頭で紹介した最初の発見から、100年以上が過ぎ、再びこの沈没船に関心が寄せられるようになったのは1960年代のことだ。人々の間ではスキューバ・ダイビングの人気が高まった時期でもある。軍事歴史家アレグザンダー・マキーに率いられたダイビング・チームによって、海に眠るメアリー・ローズの探索が始まった。
1800年代に初めて活動が行われたときよりも、潜水、海底調査の両面において、はるかに技術が進歩していたのは言うまでもない。過去の記録を元に、ダイバーらは海底を探し回る一方で、ソナー(超音波探信儀)などを用いて、調査は一歩一歩着実に行われた。
1971年。激しい嵐が吹き荒れた冬が過ぎ去ると、海中探索が再開され、プロジェクトは大きな動きを見せる。5月5日、海底から3、4本の木材が列を成して姿を現しているのが発見されたのだ。そしてそれらはメアリー・ローズの側面の一部であると断定された。その後、調べを進めていくうちに、泥の下で船体の一部が形をとどめていることや、その形状などが徐々に示されていった。そこで探索チームは、海底に現存すると推測される部分を救出することを決定した。
これまで以上に大きなプロジェクトとなることは必至だ。資金集めもさることながら、補修や展示、メンテナンスにあたっても多大な労力を要することになる。こうして1979年、メアリー・ローズ・トラスト(財団)が組織され、1975年にダイビング・チームとともに海へ潜り、以来、関心を抱き続けてきたチャールズ皇太子が委員長に就任した。

 

ポーツマス造船所 500年超の歴史に幕

1495年にヘンリー7世の命によって設けられ、1509~11年にはメアリー・ローズが建造されたポーツマス造船所。世界でも最古級とされる乾ドックを持つ同造船所が、来年閉鎖される見通しであるという。今月6日に国防・情報セキュリティ・航空宇宙関連企業のBAEシステムズが発表したところによると、現在同造船所では、クイーン・エリザベス級航空母艦の一部が作られているが、完成以降は、造船の需要が少ないため、今後の造船・修理などはスコットランドなどの造船所で行うこととし、ポーツマスを閉鎖する意向であるという。これにより、同造船所は長い歴史に幕を下ろすことになる。
またこの決定により、1700人超が失業することになり、うち半数はスコットランドを中心とした造船所に異動となる予定。来年実施されるスコットランド独立の是非を問う住民投票を見越しての、同国住民のご機嫌取りという非難の声も上がっている。