野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
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近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{前編}
幕末に薩摩藩士が英国民間人を殺傷したという「生麦事件」―。
当時の日本で立て続けに起きていた外国人殺傷事件の中でも、この事件が歴史の教科書で扱われるほど重要なのはなぜか?薩英戦争を引き起こし、倒幕、明治維新へと日本が近代国家への道を歩むに至るきっかけとなった「生麦事件」を前編と後編の2回にわたって検証する。
※リチャードソンの遺体(1862年撮影)

●サバイバー●取材・執筆/黒澤 里吏・本誌編集部
※本特集は、2009年3月5日号に掲載したものを再編集し、2号に分けてお届けしています。



【参考文献】『生麦事件』(吉村昭著・新潮社刊)
【参考ウェブサイト】www.tokyo-kurenaidan.commiraikoro.3.pro.tok2.comほか
【取材協力】生麦事件参考館
*同館館長の浅海武夫氏には多大なご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
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1862年9月14日(旧暦の8月21日)、日本が近代国家へと生まれ変わる鍵となる、「小さな大事件」が起こった――。

運命の遭遇

どこまでも青空が広がる、快晴の日曜だった。横浜の貿易商ウィリアム・マーシャルは、2ヵ月ほど前より香港から訪ねてきていた義妹マーガレット・ボラデイルに日本の美しい景色と文化を楽しんでもらおうと考え、遠乗りに誘ったところ、乗馬好きのボラデイル夫人は二つ返事で了承。そこでせっかくだからと、マーシャルの遊び友達のウッドソープ・チャールズ・クラークにも声をかけると、彼も即座に賛成した。さらに、クラークの友人のチャールズ・レノックス・リチャードソンも誘い、4人で馬に乗って東海道散策に出かけることになった。
居留地の横浜村からボートで神奈川宿まで行き、そこから川崎大師を目指すという、外国人遊歩区域が定められていた当時ではお決まりの、風光明媚な人気コースだった。

生麦村への入り口の様子(1862年頃撮影)。
東海道の街道筋には茶屋や商店が並び、右手には海(現在の東京湾)が広がる。美しい景観を堪能しながらゆっくりと馬を進ませていた4人は、午後2時ごろ、生麦村に差し掛かった。道の両側に松並木が続き、藁葺き屋根の民家が並ぶのどかな村である。それにしても昼間だというのにやけに静かだ。気づけば、ついさっきまで道端で遊んでいた子どもたちも姿を消している。人々はなぜかすっかり家の中に閉じこもってしまっているようだった。
しかし、そんな変化もさほど気に留めず、4人はそのまま北東方面へと向かう。するとまもなくして、前方に陣笠をかぶった人々の行列が近づいてくるのが見えた。「大名だ」とマーシャルが鋭くつぶやいた。
日本の文化や慣習にさほど明るくない彼らでも、大名のことや攘夷派による外国人殺傷事件のことは話に聞いていた。しかしそれらの被害者は政治・外交関係者であり、民間人の彼らが突然、襲われるようなことはまずないだろうと踏んでいたのだろう。4人は武器を一切所持しておらず、ましてや、大名に対して下馬して敬意を表すなどといった知識は全く持ち合わせていなかったようだ。
それでも4人の中で一番年上のマーシャルは、噂に聞く大名行列(*1)を目の当たりにして緊張をおぼえ、他3人に道の端に馬を寄せて進むように指示した。 その時、リチャードソンが道の内側、ボラデイル夫人が外側で2列に並び、その約10メートル後ろにマーシャルとクラークが続いた。
4人が遭遇した大名行列というのは、薩摩藩主島津茂久の父、久光の一行。5ヵ月前に鹿児島城下を離れ、上洛して朝廷に幕政改革および公武合体を訴えた久光は、天皇より急進攘夷派を鎮撫するよう命じられてこれを遂行した後、勅使の大原重徳を警護して京から江戸に向かった。そして文久の改革(*2)を成し遂げた後、勅使に先立ち江戸を離れ、再び京へ戻るところだったのである。
4人はまず、先導組とすれ違う。駕篭の後に鉄砲隊が続き、みな一様に険しい目を自分たちに向けている。4人は彼らと目を合わせないように前を見据え、無言で馬の手綱を握りしめた。そしてどうにか難なくやり過ごし、安堵したのも束の間、それよりはるかに大規模な本隊の行列が迫ってくるのが見えた。今度ばかりはさすがに圧倒された4人だったが、それでもまだ危機感を感じるまでには至っておらず、そのまま馬の動きに身を任せて前進。しかし行列は幅7メートルほどの道いっぱいに広がっており、このまま行けば接触することは明らか。悲劇はすぐそばまで近づいてきていたのだった。

*1 大名行列―本来は、島津久光は藩主ではないので、「大名行列」とは呼べないのだが、ここでは便宜上、藩士たちの大行列を指し、「大名行列」と呼ぶことにする。
*2 文久の改革―1862年に江戸幕府で行われた人事・職制・諸制度の改革のことで、薩摩藩主の父・島津久光はその主導者のひとり。鎖国体制から開国への移行にともなう尊王攘夷運動の激化などの政治混乱をおさめ、幕政の改革、公武一和を真意とした。
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① 生麦事件発生現場

当時の東海道筋で、生麦村のちょうど中間点にあたる、村田屋勘左衛門の営む質屋兼豆腐屋の前で事件は起こった。現在は、個人宅の前に説明板=写真=が設置されている。


② リチャードソンが贓物を落としたところ


③ 生麦事件石碑

リチャードソン落命の地。1883年(明治16年)12月28日、少年時代にこの事件を目撃し、事件の重大さを認識していた鶴見神社の宮司・黒川荘三が、異国の地で非業の死を遂げたリチャードソンの死を悼み、そして事件の風化を防ぎ、後世に伝えるため私費を投じて建てたもの。1911年(明治44年)8月21日の50年祭は黒川氏が独力で行ったが、1922年(大正11年)の60年祭は地域の人々と共同で盛大に行った。

④ 生麦事件参考館


⑤ 宗興寺

ヘボン博士の診療所だった場所。
ヘボン博士の正式名はジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn、当時の日本人には、ヘップバーンがヘボンと聞こえたとか)=写真右。米国のプリンストン大学で学んだ後、ペンシルバニア大学で医学博士号を取得。ニューヨークで開業していたが、日本の開国を知り、1859年に宣教医として神奈川に上陸。以後、33年間にわたり日本に滞在した。日本語の研究も行い、ヘボン式ローマ字を生み出した。日本初の和英辞典の編纂を手がけたほか、聖書和訳にも従事。明治学院初代総理でもある(写真提供:明治学院)。


⑥ 甚行寺

当時、フランス領事館があった場所。

⑦ 浄瀧寺

かつて英国領事館があった場所。事件発生時には横浜の居留地に移転していたため、マーシャルらは米国領事館へ逃げ込んだと推測されている。

⑧ 本覚寺

マーシャル、クラークが助けを求めて逃げ込んだ場所。当時、米国領事館があった。

不幸な判断ミス

小姓組の男たちが、すれ違いざまに憤った表情で手を激しく降り、口々に「脇に寄れ!」と叫んでいた。しかし先を行くリチャードソンとボラデイル夫人は日本語がほとんど理解できない。内心動揺し、判断に迷っていたリチャードソンの手綱さばきが乱れ、その拍子に彼の馬がボラデイル夫人の馬に接触し、馬の足が溝に落ちた。すると馬は平静さを失い、意図せずして行列に入り込んでしまったのである。
そこに供頭の奈良原喜左衛門が血相を変えて駆け込んできて「引き返せ!」と怒号を浴びせた。
後ろに続いていたクラークは、さすがに危険を感じて「引き返そう」と大声で呼びかけ、それを聞いたリチャードソンとボラデイル夫人は慌てて馬首を返そうとするが、行列が道いっぱいに広がっているためうまくいかない。2頭の馬はますます深く踏み込んでしまい、行列の進行を完全に妨げてしまった。
奈良原は怒りに満ちた声で「無礼者!」と叫んで抜刀し、リチャードソンの左脇腹を深く斬り上げ、そのまま刀を返して左肩から斬り下げた。これを皮切りに4人の小姓組の侍がマーシャルたちを一斉に襲撃。激しい怒号と悲鳴があたりに響き渡り、鮮血が飛び散った。太刀を浴びた男3人は、それでも暴れる馬の首を必死に返してその場から逃れ、もと来た道を一目散に駆け戻る。
先にすれ違った先導組の行列がこの様子を遠巻きに眺めていたが、衣服を血で染めたクラークの馬が突進してくると、そのあまりにも激しい勢いに気圧され、道端に退いて道を開けた。ところがその後、右手で脇腹を押さえながら、うずくまるようにして馬に身を預けていたリチャードソンが通り抜けようという時、鉄砲組の久木村治休が道の中央にずいと踏み出して刀を抜き、すれ違いざまにリチャードソンに斬りつけた。久木村の太刀は、傷口を押さえていたリチャードソンの右手を落とし、さらにすでに斬られていた脇腹を再びえぐった。
続けざまにマーシャルの馬が近づいてくると、久木村は再び構えを見せたが、これに気づいたマーシャルが馬の鼻先を振り払って走り抜けたため、太腿をかすめる程度に留まった。一方、ボラデイル夫人は、女性とあって薩摩藩士もさすがに躊躇したのだろう、帽子を刀で飛ばされ、髪を切られただけだった。しかし恐怖で狂わんばかりの彼女は一心不乱に馬を駆り、真っ先に居留地にあるジャーディン・マセソン商会へ辿りつく。ボラデイル夫人から只事ならぬ事件の概要を聞きつけた商館の商人たちは、すぐさま英国公使館のニール代理公使のもとへと走った。

生麦事件の登場人物たち その1
事件を引き起こした当事者

Charles Lennox Richardson
チャールズ・レノックス・リチャードソン

1853年、20歳で英国から上海へ渡り貿易商を営む。62年、英国に帰郷する前に日本に立ち寄り、上海時代の友人クラークと再会、1ヵ月ほど観光を楽しむ。帰国予定日に船の機関故障により出港が2日遅れて時間を持て余していたところ、クラークらに誘われ遠乗りに参加、そのまま帰らぬ人となった。ちなみに上海時代は、中国人に対して粗暴な振る舞いを見せ、法に抵触するような商売を行うなど、商人としての評判は決してよいものではなかった。

Margaret Watson Borradaile
マーガレット・ボラデイル

香港で貿易を営んでいた英国人商人トーマス・ボラデイルの妻で、マーシャルの義妹にあたる。1862年、横浜に住む姉(マーシャルの妻)を訪ねて来日。乗馬好きで、時折、馬を借りては馬場を乗り回していた。事件後まもなくして帰国するが、事件の衝撃があまりにも大きく、以後、精神疾患に悩まされ、8年後の70年に逝去。

William Marshall
ウィリアム・マーシャル

上海、香港を経た後、横浜で絹輸入業を営んでいた英国人貿易商人。高い業績をあげ、周囲からの人望も厚く、居留地における委員会の委員長も務めていた。事件後も横浜に留まって商売を続け、1872年には新橋-横浜間の鉄道開通記念祝賀会において、外国人代表として明治天皇の前で祝辞を述べる大役を果たす。翌1873年、横浜にて46歳で逝去。

Woodthorpe Charles Clark
ウッドソープ・チャールズ・クラーク

日本における米国の総合商社第1号となった貿易商社「ハード商会」で、生糸の検査員として働いていた英国人。1860年に上海支局に派遣された際に、同郷のリチャードソンと出会う。マーシャルとはビリヤード仲間。事件後は肩に後遺症を負い、生涯左腕が上がらなくなったものの、後に居留地の消防士として活躍。1867年に33歳で逝去。

血にまみれた、波乱の前触れ

奈良原と久木村の2人から同じ箇所を深々と斬られたリチャードソンは、傷口から内臓が露出し、意識朦朧の状態となっていた。それでも彼は馬に身を預け、3町ほど進んでいく。そして「桐屋」という茶屋の前を通り過ぎた時、傷口からはみ出した臓腑が路上に落ちた。脇腹からはとめどなく血が流れ、顔にはすでに死相が浮かんでいた。意識はどんどん遠のいてゆき、やがて手綱を握っていた手も力を失って馬の動きが止まったと同時に、ついに落馬した。
リチャードソンの傷がひどいのを気にかけ、ボラデイル夫人とクラークに先に行くよう指示し、その場に留まっていたマーシャルも、落馬したリチャードソンを見て、もはやこれまでと判断。自身もかなり深手を負っており、リチャードソンの体を馬に戻す力など残されておらず、しかも、先ほどの侍たちが追ってくる可能性を考えると、恐怖で身が震え、やむなくリチャードソンに別れを告げた。
マーシャルは左腕、クラークは左肩に深い傷を負いながらもなんとか馬を走らせ、米領事館のある本覚寺に駆け込む。そこでヘボン博士の手当てを受け、どうにか一命を取り留めた。
現場にひとり取り残されたリチャードソンは、しかし、まだ息絶えたわけではなかった。マーシャルが去った後、わずかに残る力を振り絞り、近くにあった松の木まで体を這わせ、幹にもたれかかった。すぐ近くにあった水茶屋の女主人ふじが、この様子を恐る恐る見ており、リチャードソンは彼女に日本語で水を乞うたという。
そこに供目付海江田武次を含む数名の藩士たちが追いつき、瀕死のリチャードソンを発見、彼の体を畑に引き入れた。久光の行列が通る道に、血まみれの体を横たえておくわけにはいかないのだ。海江田は、苦悶の表情を浮かべるリチャードソンの顔を見つめ、もはや助かる見込みはないと判断。脇差を抜き、「今、楽にしてやる」と言い放ち、止めを刺したのだった。そして、路面についた血を洗い流した後、もと来た道を引き返していった。まもなくして村は再び静寂に包まれた。

生麦事件の登場人物たち その2
対応にあたった英国側

Edward St. John Neale
ジョン・ニール代理公使

英国の陸軍中佐として活躍するが、1837年に退役して外交官となる。清国の英国公使館書記官を経て、62年に日本の公使館書記官として来日。同年、休暇で帰国中のオールコックに代わって公使を務める。在任中、第二次東禅寺事件(松本藩藩士による暗殺未遂事件)で命を狙われる危機に遭い、さらに生麦事件、薩英戦争の勃発と多忙を極めるが、本国と連携を保ち、冷静に対処する。64年にオールコック公使帰任をもって帰国。

F. Howard Vyse
横浜領事ヴァイス大尉

生麦事件発生後、ニール代理公使の通達にも応じず警備兵を率いて現場へ赴き、居留地の外国人たちと集会を開くなど、独断で行動して公使と対立。この過激な行動が原因となり、後に函館領事に左遷される。1865年に同地でアイヌ墳墓盗掘事件(アイヌの人骨を盗掘して英本国へ輸送した事件)を計画、指示したとして処分され、罷免。

William Willis
ウィリアム・ウィリス医師

英国公使館付医師として1861年に来日。生麦事件の負傷者の治療や検死にあたった後、薩英戦争で英国艦船に同乗。戊辰戦争時には相国寺に薩軍臨時病院を設置し、負傷者の手当てに従事。1869年、31歳の若さで東京医学校(のちの東京大学医学部)の院長に就任するも翌年に退任、西郷隆盛や大久保利通らの斡旋により、鹿児島医学校(のちの鹿児島大学医学部)に赴任。81年に帰国するまで日本の医療システムの構築に多大な功績を残す。通訳として活躍したアーネスト・サトウ(詳細は次号参照のこと)とは生涯を通じて親友同士。

高まる報復の声

事件の知らせを受けて真っ先に現場へ向かったのは、医師のウィリアム・ウィリスだった。再び行列に遭遇し、同じ目に遭うかもしれぬ危険を冒してまでリチャードソンを救出しようとした彼の果敢さは特筆に価する。
そのころ、横浜は大変な騒ぎとなっていた。激怒する外国人商人たちは薩摩藩の行列に報復するため、公使館付の警備兵を出動させるようニール代理公使に詰め寄ったが、冷静なニールはそれを無謀な行為として拒否。納得のいかない商人たちが横浜領事ヴァイス大尉に掛け合うと、ヴァイスはこれを即座に受け入れて独断で警備兵を率い、現場へと向かったのである。
ウィリス医師とヴァイスらはやがて、リチャードソンの遺体を発見。事件発生から約3時間後のことだった。見るも無残に斬りつけられたその遺体は米領事館に運ばれ、3人の医師たちの手ですべての傷が縫い合わせられた後、場所を変えて検死が行われた。
事件に衝撃を受けた居留地の外国人たちは、久光一行に対して報復の念を募らせ、反撃を決議するための集会を開く。会議は白熱し、オランダやフランスも軍事行動を起こすことに賛成の意向を示したものの、英国の代理公使ニールだけはヴァイス領事と対立する形で反対し、最後まで慎重な姿勢を崩さなかった。
会議は深夜にまで及びながらも決議に至らず、翌日に持ち越されたが、最終的にニールの意向どおり、事件の処理を外交交渉に委ねる形で落ち着いた。
一方、久光の一行は、英国と一戦交える可能性も念頭に入れ、神奈川宿で休息する予定を変更し、保土ヶ谷宿に直行。また事件を幕府に報告するため、江戸薩摩邸に遣いを走らせて詳細を伝えた。これを受けた留守役の西筑右衛門は翌日、幕府に書状を届けるが、実際に手を下した侍の名は出さず、岡野新助という架空の藩士の仕業であるとした。彼のこの機転により、藩内でも将来有望とされていた奈良原、海江田、久木村の3人は切腹を免れたのだった。

英国側の要求

マーシャルとクラークが助けを求めて逃げ込んだ本覚寺。当時はここに米国領事館が置かれていた。
それまでにも二度にわたって英国公使館が襲撃される事件(東禅寺襲撃事件)が発生し、賠償金問題も解決していなかったところに生麦事件が起こったことで、英国側の反日感情は悪化の一途をたどり、一触即発の状態だった。本国からの訓令を受けた代理公使ニールは、幕府に対して公式謝罪と賠償金10万ポンドを、また薩摩藩に対して犯人の公開処刑と、リチャードソンの遺族への賠償金2万5000ポンドを要求し、これを拒否した場合は武力行使に出るとした。
10万ポンドといえば、現在の通貨に換算して18億円以上という法外な金額。英国側は日本から値引き交渉を受けた場合を想定し、駆け引きしていたとも言われているが、このような強気の態度で幕府と藩に迫った英国側には、実は非常に苦しい内情があった。というのも、当時、英国は清国との植民地戦争やロシアとのクリミア戦争で手一杯の状態。極東には戦艦を47隻しか配備しておらず、そのうち大砲を十分に搭載しているのはたったの二隻だったのである。
そのうえ、戦争となれば莫大な兵力と戦費が必要になる。威圧的な態度は言ってみれば虚勢に過ぎず、本国はともあれ、駐日公使および派遣軍に戦闘を開始する気などさらさらなかったのだ。英国の要求に対し幕府や藩側が策を講じ、半年間ものらりくらりと回答期日を延期するという対応が渋々受け入れられていたのも、こういった事情が背景にあったからだと推測できる。
正直なところ、戦いたくはなかった英国―。
しかし、そのような英国の内情など知るはずもない薩摩藩の内部では、ある方向へとすべてが異常な勢いで動き始めていた。
それが日本の行く末にどれほどの影響を与える重大な出来事へとつながっていくか。当時は誰ひとりとして想像することのできなかった、その歴史的な展開の幕開けは、もうそこまで迫って来ていた。

後編に続く…

生麦事件の登場人物たち その3
加害者扱いされた薩摩藩側

しまづ ひさみつ
島津久光

島津氏27代当主、斉興(なりおき)の五男。長男である斉彬(なりあきら)との家督争いに敗れるも、1858年に斉彬が急死し、その遺言によって自身の長男、茂久(もちひさ=後に忠義)が29代当主の座に就くと国父となり、事実上、藩の実権を握る。過激な攘夷論者を取り締まり、公武合体運動を推進。西郷隆盛とソリが合わず、長きにわたり確執を抱えていた。

くきむら はるやす
久木村治休

重傷を負って逃げるリチャードソンに二の太刀を浴びせた薩摩藩士。当時19歳で、人を斬るのは初めてだったこともあり、リチャードソンを斬った際に鐙に刀が当たって曲がってしまって鞘に収まらなくなったため、手拭で巻いて持ち帰ったという。後に東京憲兵隊勤務陸軍中佐となり、1937年に95歳で逝去。

かいえだ たけじ
海江田武次

薩摩藩士、有村仁左衛門兼善の長男。生麦事件では、もはや助かる見込みのないリチャードソンに「武士の情け」をもって止めを刺す。当時30歳。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として活躍。後に子爵となり、奈良県知事、京都府知事を歴任。長女の鉄子は東郷平八郎の妻。左の写真は、67歳の時のもの(1899年撮影)。

ならはら きざえもん
奈良原喜左衛門

リチャードソンに最初に切りかかった薩摩藩士。野太刀自顕流の達人と称され、弓術にも長けていた。事件後、京に戻り、1864年の禁門の変で出水隊の隊長として活躍するが、まもなく病に冒され、翌年、京都伏見二本松の藩邸にて35歳で没す。弟の幸五郎は8代目の沖縄県知事を15年間務め、男爵位を得た。

週刊ジャーニー No.926(2016年3月31日)掲載