実録生麦事件 後編
幕末に薩摩藩士が英国民間人を殺傷したという「生麦事件」―。
近代日本史を学ぶ際、必ずといっていいほど取り上げられる出来事のひとつだが、なぜそこまで重要であると位置づけられているのか。 薩英戦争、さらには倒幕、明治維新へと日本が近代国家への道を歩むに至るきっかけとなった「生麦事件」を前編に引き続き検証する。
※『生麦之発殺』早川松山〈はやかわ・しょうざん〉画/1893年。

●サバイバー●取材・執筆/黒澤 里吏・本誌編集部
※本特集は、2009年3月5日号に掲載したものを再編集し、2号に分けてお届けしています。



【参考文献】『生麦事件』(吉村昭著・新潮社刊)
【参考ウェブサイト】www.tokyo-kurenaidan.commiraikoro.3.pro.tok2.comほか
【取材協力】生麦事件参考館
*同館館長の浅海武夫氏には多大なご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。


生麦事件概要
【日時】1862年9月14日(旧暦の8月21日)午後2時頃
【場所】現・神奈川県の生麦村(当時)
【英国側『被害者』】 横浜の貿易商ウィリアム・マーシャル、義妹マーガレット・ボラデイル、マーシャルの遊び友達のウッドソープ・チャールズ・クラーク、クラークの友人のチャールズ・レノックス・リチャードソン(死亡)
【薩摩藩側『加害者』】 薩摩藩最後の藩主、島津茂久(もちひさ=後に忠義)の父、久光(ひさみつ)の行列につき従っていた次の3家臣たち。
リチャードソンに最初に切りかかった奈良原喜左衛門(ならはら・きざえもん)、リチャードソンに二の太刀をあびせた久木村治休(くきむら・はるやす)、武士の情けで「楽にしてやるため」、瀕死のリチャードソンに止めをさした海江田武次(かいえだ・たけじ)。

生麦事件はなぜ起きた?

背景その1

日本の文化・慣例に対する英国人たちの認識の低さ


薩英戦争の模様を伝えるイラスト(1863年11月7日付け『Illustrated London News』より)
江戸時代以降、大名行列(*1)は大名の権威と格式の象徴とされるようになる。参勤交代など幕府の公用により行われるものについては、大名の規模によって参列人数が定められており、藩が負担する費用もかなりのものだった。それだけに行列の前を横切ったり、列を乱したりするような行為は無礼とされ、そのような者は現場で斬り捨てること(無礼討ち)が公的に許されていた。生麦事件発生の少し前に同じく行列に遭遇した米国人のユージン・ヴァン・リードは、日本の文化や慣習に精通しており、下馬して脱帽した上で膝をつき、行列に敬意を示したため何の問題も起こらなかった。しかし事件の被害者となった英国人たちは認識が甘く、最悪の結果を招くに至る。ヴァン・リードは彼らについて「自ら招いた悲劇」と非難しており、また英国外務省も内々に英国側の非を認めていたとも言われている。

*1…正確にいうと、島津久光は藩主ではないため、「大名行列」とは呼べないのだが、ここでは便宜上、藩士たちの大行列を指し、「大名行列」と呼ぶことにする。

背景その2

外国人に対する強い反感と攘夷殺傷を英雄行為とする風潮

ペリーの来航以来、欧米各国との条約締結が進んで下田、函館、浦賀、横浜などが次々に開港され、周辺地区では各国の外交官や貿易商人の姿が日増しに多くなっていた。その一方で諸藩では「外国人たちは尊大な態度で日本人に接して神聖な国土を汚し、身勝手な商業を行い日本の経済に打撃を与えている」と見られており、各地で攘夷論がうずまいていた。攘夷殺傷は一般に英雄行為として称えられており、外国人たちの傍若無人な振る舞いを見聞きしては攘夷気分を高ぶらせていた藩士も多かったのである。事実、米総領事館の通訳者ヒュースケン暗殺事件や、2度にわたって英国公使館を襲った東禅寺襲撃事件など、急進攘夷派の藩士による外国人襲撃事件が相次いでいた。生麦事件でリチャードソンに二の太刀を浴びせた久木村治休は、後年の回顧録で「私ども薩藩の若侍は、夷人となると斬ってみたかったものだ。しかし、やたらに斬るわけにはいかない。実際、負傷外人が駆けてきた時は『ご馳走がきたな』と思った」と語っている。

背景その3

各国公使館に通行自粛要請を正式に行わなかった幕府の落ち度

日頃から乗馬を好み、遊歩地内の行楽地や名所を自由に訪れていた外国人と、それを快く思っていない藩士たちの接触によって起こりうる事態を懸念していた薩摩藩は、各国大使にあてて注意を促すよう、幕府に要請していた。これを受けて幕府は、米、英、仏、蘭の各国公使にあて、薩摩藩をはじめ諸藩主の行列と出会った場合は日本の慣習に従って礼を尽くすよう、書状を送っていた。そして文久の改革後、9月15日(旧・8月22日)に勅使(天皇の使い)の大原重徳が江戸を離れることが決まった折には各国公使に「勅使一行の行列が東海道を通行するゆえ、付近に出かけないように」との通達を出す。しかし、幕府は、大原に先立って前日に江戸を出立する久光のことには触れていなかった。そもそも事件現場は外国人たちにとっての遊歩地域内であり、外国人の通行の安全を保障することは幕府の義務。この規制要請を正式に発行しなかったことは明らかに幕府側の不手際だったといえる。
幕末年表 (日付は旧暦)
1853年6月3日 ペリー提督、浦賀に来航(黒船来航)
1854年3月3日 日米和親条約締結
1858年6月19日 日米修好通商条約締結
1860年3月3日 桜田門外の変
1861年12月5日 米総領事館の通訳者、ヒュースケン暗殺
1862年8月21日 生麦事件
1863年1月31日 英国公使館焼き討ち事件
5月10日 長州藩、下関で外国商戦を砲撃
7月2日 薩英戦争
1864年8月5日 四国連合艦隊、下関砲撃事件
1865年3月22日 薩摩藩士、英国留学のため長崎を出発
1866年1月21日 薩長同盟成立
1867年10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古の大号令
1868年1月3日 戊辰戦争
4月11日 江戸城無血開城
7月7日 江戸を東京と改称
9月8日 明治と改元、一世一元の制を定める

事件後の薩摩藩の反応

英国からの要求と、上洛中だった将軍家茂より突然発せられた攘夷決行の知らせに頭を抱えた江戸の閣老たちは、戦闘が始まれば勝つ見込みはほぼないと判断し、この危機を打開するには賠償金支払いに応じる以外にないという結論に達する。そして未解決となっていた第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンドも含めた11万ポンドを、何の交渉もなく英国に支払うことを決定してしまう。
対する薩摩藩は、英国側の要求の中にある、リチャードソンを殺害し、同伴者に傷を負わせた者の「魁首を直に捕へ、之を吟味して女王海軍士官の面前に於いて斬首すべき事」という部分を「魁首=久光」と誤解。藩の象徴的存在である久光の処刑という要求は藩に対する最大の侮蔑であると激怒し、殺気立つ。
また、行列を乱した者は斬り捨てるのが公法ゆえ非は英国人にあり、彼らを殺傷したことは当然の措置で賠償金を支払う義務などないとして、英国の要求を断固として拒否する意向だった。薩摩は、世界一と謳われた英国の海軍力に臆することなく防備力の強化を図り、死力を尽くして応戦する構えだったのだ。
文書は徹夜で翻訳されたと言われ、翻訳グループの中には福沢諭吉も含まれていたが、処刑の対象を事件の責任者ではなく、藩の代表と誤解してしまったことが、戦火を交える大きなきっかけとなったとも言えるだろう。
ちなみに当時、英国政府通訳官のアーネスト・サトウのような優秀な通訳者が存在していたとはいえ、意思疎通を図るのに手間取ることも少なくなかった。たとえば、強い薩摩訛りを理解するのは難しいため、間にオランダ語通訳を挟むといった対策が取られるなど、さまざまな苦労があったのだ。

①生麦事件発生現場

②リチャードソンが贓物を落としたところ

③生麦事件石碑

リチャードソン落命の地。

④生麦事件参考館

⑤宗興寺

ヘボン博士の診療所だった場所。マーシャル、クラークはヘボン博士の治療のおかげで一命をとりとめた。

⑥甚行寺

当時、フランス領事館があった場所

⑦浄瀧寺

かつて英国領事館があった場所。ただし、事件発生時には横浜の居留地に移転していたため、マーシャルらは米国領事館へ逃げ込んだと推測されている。

⑧本覚寺

マーシャル、クラークが助けを求めて逃げ込んだ場所。当時、米国領事館がここに置かれていた。

英国の思惑に反して交渉は決裂ついに薩英戦争が勃発

1863年8月6日(旧・6月22日)、一向に要求に応じない薩摩藩に業を煮やしたニール代理公使は、直接交渉のため7隻の戦艦とともに鹿児島に向かった。数日後に現地に到着すると、藩主にあてて再び賠償請求書を呈示し、24時間以内に回答するよう迫る。しかしこの時点でも英国側に戦闘の意志はなく、戦艦で威圧すれば薩摩藩も恐れをなして要求に応じるだろうと高を括っていた。
これに対し藩側は、戦いの火蓋はすでに切られているものと鼻息荒く、さまざまな策を講じて英国軍を襲撃しようと試みる。まずは、ニールとその他の要人を陸上におびき出して捕縛しようと考え、彼らに城内の客殿で会議を行いたいと告げるが、警戒した英国側はこれを拒否。そこで藩の奈良原喜左衛門は、自らスイカ売りの商人を装って各艦上に上がり、隙を狙って要人たちを襲うという奇策を提案する。そして、奈良原と同様、生麦事件に関わった海江田武次をはじめ、賛同した77名の藩士たちとただちに計画を実行に移す。加えてニール宛ての回答書を携えた高官の使者を派遣し、その従士の1人が刺客となる策も同時に実行され、藩士たちはどうにか英国艦上に上がることに成功するが、完全武装の兵士たちに囲まれて身動きできない状態に陥ってしまう。そんな矢先に司令塔より引き返せとの合図があり、計画は失敗に終わった。
翌日、急激に天候が悪化して暴風雨が吹き荒れる中、英国側は鹿児島湾に停泊中の薩摩の汽船3隻を拿捕するという示威行動に出る。これでさすがに薩摩も交渉に応じるだろうと目論んでいた英国側だったが、これを見た藩側は憤慨し、ついに砲撃を開始。突然の攻撃に慌てた英国側は、まず拿捕した3隻を焼き払って応戦するが、そもそも開戦するつもりがなかったため、戦闘準備はほとんどされていなかった。
旗艦ユーリアラス号では、幕府からの賠償金の金貨が入った大量の箱が爆弾庫の前に積み上げられていたため、初弾発砲まで2時間を要すという失態を演じることになる。また同戦艦は桜島の袴腰砲台の真下に錨泊していたため集中砲火を浴び、艦長をはじめ多数の死傷者を出した。しばらくして態勢を立て直した英国艦隊は反撃を開始し、薩摩の砲台を次々と破壊、さらにロケット弾で市街地まで攻撃し、鹿児島の2割の土地が焼き払われた。
英国はこの戦いで初めてアームストロング砲を使用し、薩摩藩を驚嘆させたものの、尾栓部分が爆発するなど艦上でも事故が多発して死傷者を出すはめになる。
そしてついに英国艦隊は横浜に引き上げることを決定。結局、英国側は死者10数名、負傷者60余名、そして薩摩藩側は死者約5名、負傷者10数名となり、薩摩が英国艦隊を撃退する形で幕引きとなった。

下関戦争

フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台。
1863年6月(旧5月)、過激な攘夷政策を推し進めていた長州藩が、幕府による攘夷実行の通達を受けて馬関海峡(現在の関門海峡)を封鎖し、米国の商船ペンブローグ号をはじめ、フランスやオランダの軍艦に砲撃を加えた。これに対し、米仏軍艦が報復する形で長州軍艦に砲撃を開始、壊滅的な打撃を与えるも、長州側は海峡封鎖を続行する。しかしこの封鎖により多大な経済的損失を被っていた英国が翌年8月(旧7月)に米、仏、蘭の三国に呼びかけ、四国連合艦隊を結成。17隻の軍艦を率いて下関に来襲し、9月17日~19日(旧・8月5日~7日)にかけて長州の砲台を猛攻撃のうえ破壊した。この一連の戦いによって、欧米列強との軍事力の差を目の当たりにした長州藩は、攘夷が不可能であることを身をもって知り、薩英戦争で同様の体験をして討幕派に転じた薩摩藩に歩み寄ることになる。

明治維新にかかわった重要人物たち

小松帯刀
こまつ たてわき

島津久光に手腕を認められて側近となり、1862年、弱冠28歳で家老に昇進。藩政改革に積極的に取り組み、諸藩と交易することで藩の財政を豊かにし、軍事力を拡大するなど、藩の活性化、近代化に大きく貢献する。薩英戦争では久光と藩主・茂久(維新後は忠義)の側近として戦いの総指揮にあたり、戦後は英国と薩摩藩の友好に尽力。卓越した政治力で朝廷、幕府、諸藩との連絡、交渉役を務め、同年生まれの坂本龍馬とも意気投合して薩長同盟実現のために奔走する。67年には将軍徳川慶喜に大政奉還を進言。明治新政府においては参与や外交事務掛などの要職を歴任するが、69年、病のため退任。70年に36歳の若さで惜しまれながらも病死する。「幻の宰相」とも称され、明治維新の陰の功労者と言われる。

アーネスト・サトウ
Ernest Satow

英国の外交官。スウェーデン人の父と英国人の母の間に生まれる。1862年、弱冠19歳で、かねてから興味を抱いていた日本に通訳見習いとして赴任。到着6日後に生麦事件が起こる。その後の薩英戦争から下関戦争、戊辰戦争にいたるまで、激動の幕末~近代日本の変革をつぶさに体験。68年からは書記官となり、83年まで滞在して一度日本を離れるが、95年に英国公使として再来日し、1900年まで滞在する。日本滞在歴は計25年に及び、「一外交官の見た明治維新」をはじめ多数の著作を残しているほか、日本学者として日本アジア協会の設立にも尽力し、神道の研究も行っている。ちなみに東京の英国大使館前の桜並木は、1898年にサトウが植樹して寄贈したもの。またサトウという姓はスラヴ系の希少姓で、日本の姓とは全く関係なかったが、この名前のお陰で日本社会に溶け込みやすかったと本人が語っている。

大久保利通
おおくぼ としみち

鹿児島城下の下加冶屋町で薩摩藩の下士として生まれる。西郷隆盛とは幼なじみ。藩内若手改革派、精忠組の中心人物となり、島津久光のもとで公武合体運動を推進。幕府の長州征伐が失敗に終わった後、西郷らと倒幕運動を進め、岩倉具視らとともに王政復古のクーデターを敢行。明治維新後の1869年には参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県など中央集権体制確立を行い、71年には大蔵卿に就任。特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行する。帰国後は内務省を設置し、初代内務卿となって地租改正や徴兵令などを実施する。西南戦争では政府軍を指揮し、鹿児島士族の反乱を鎮圧。78年5月14日、石川県士族の島田一郎ら不平士族により紀尾井坂で暗殺される。享年47。

薩摩の柔軟な態度が功を奏し一転して英国と和解へ

負け戦に近い苦戦を強いられた英国艦隊は、鹿児島の市街地を焼き払った件で本国から非難を浴びるが、態勢を整えて再び薩摩藩を砲撃する意向だった。一方、薩摩藩は艦隊の再来襲に備えて軍事力の強化を図ろうとするが、同時に今回の戦闘で自分たちの兵器と英国戦艦の兵器に歴然とした差があることを、身をもって痛感していた。特にアームストロング砲の射程距離の長さと破壊力は驚異的で、次回、好天の中、英国戦艦が万全の態勢で襲撃してきた場合、勝てる見込みはまずないという意見で一致した。そこで、協議を重ねた結果、英国と和議を結ぶ方向で交渉を進める意志を固める。しかしこれから先、英国と対等な関係を築いていくためには、藩から和議を請うのではなく、自然とその方向に持っていく必要がある。
検討の末、幕府が和議を薦めるように仕向けるのが最良であるとの結論に達する。まず藩から幕府に、英国戦艦が藩の汽船を拿捕した不当性を訴える。おそらく英国側はすでに幕府に対し薩摩藩への苦情を訴えているはずなので、自然と話し合いの場がもたれることになるだろうという算段だ。そして実際、事は藩の思惑どおりに進んでいったのである。
和議の場では、応接役の重野厚之丞が抜群の交渉力を発揮した。賠償金の支払いに応じる代わりに、軍艦購入の斡旋を求めるという大胆かつ明快な交渉で英国側を驚かせ、また藩主が攘夷に反対しており、各国との和親を望んでいる旨を伝えて、英国との距離を一気に縮めたのである。英国側もまた、幕府の弱体化に気づいており、有力な藩と手を組むことはその後利権をもたらすであろうことを予測していたことがうかがえる。
ちなみに薩摩藩は賠償金を幕府から250年という期限付で借用して支払ったが、この借金は幕府に返されることはなかったという。

サツマの由来

英国のスーパーの果物売り場で、時折目にすることがある「satsuma」。実はこれは、薩英戦争後の賠償交渉がスムーズに運んだことに対し、薩摩藩が英国側に感謝のしるしとしてミカンを進呈したことに由来している。代理公使ニールが本国のラッセル外務大臣に送った書状に「カゴいっぱいのミカンが戦艦ユーリアラス号に持ち込まれた」と記載されているのだそう。その後、米国、スペインなどにも苗木が薩摩から輸出され、各国で栽培されるようになった。

事件の余波戊辰戦争から明治維新へ

薩英戦争で西欧文明の強大なパワーに圧倒された薩摩藩は、西欧の技術や知識を積極的に学んでいこうという姿勢に転じ、1865年、15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣する。海外渡航が許可されておらず、密航だったが、無事に英国に到着してロンドン大学で海軍測量術や機械術、医学、化学などを学ぶ。そして、同じく海軍研究を目的に英国入りしていた長州藩留学生と情報交換するなどお互い助け合ったと伝えられる。
一方、日本国内においても、長州征伐での薩摩藩の寛大な処置をきっかけに、薩長両藩は友好の姿勢を示し始める。そして1866年、土佐藩の中岡慎太郎や坂本龍馬の仲介のもと、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀と、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が薩長同盟を締結。倒幕へ向けて一気に加速することになる。また薩摩藩は、幕府の弱体化と自由貿易の必要性を在日公使ハリー・パークスに訴え、藩への支援を要請。英国側はこれに同意し、両者の関係はますます密接となる。
その後の王政復古の大号令発令に対し、幕府陣営(旧幕府軍)は薩摩藩に猛反発。旧幕府軍と薩長の軍勢(新政府軍)との間に戊辰戦争が始まる。旧幕府軍に対し、新政府軍は3分の1程度の兵力だったにもかかわらず、英国から入手した兵器で戦闘に臨み、旧幕府軍に圧勝。将軍慶喜は兵を捨てて大阪城を脱出してしまうが、パークス公使からの圧力などにより徳川家への総攻撃は中止され、ここに江戸城の無血開城が実現した。
これによって家康公から約260余年続いてきた徳川の天下、江戸幕府は滅亡。そして1868年10月23日(旧・9月8日)、年号が明治と改元され、明治天皇が即位。以後、明治新政府による新しい国家体制が築かれていくのである。
生麦事件が起こってから約6年。
薩英戦争で西欧パワーに圧倒され、その差を思い知ったことにより、逆に、その進んだ技術や制度を西欧から取り入れようと180度の転換を図るに至った薩摩。そして、利を求めて、薩摩に手を貸すようになる英国。思惑は大きく違えど、この両者なくして明治維新は成っていなかった、いや、成っていたとしても、もっと時間がかかったことだろう。リチャードソンの命を奪った一太刀が、歴史に果たした役割の大きさを考えると、深い感慨を覚えずにはいられない。

前編に戻る…

幕末の政治思想を表す3つのキーワード

幕藩体制

江戸幕府を頂点とし、その支配下にありながらも、各大名がそれぞれ独立した領地をもつ統治機関(藩)を形成している封建的支配体制。幕府、諸藩が領主として、小農民から米を主とする現物年貢を直接徴収する石高制で成り立っている。豊臣秀吉による楽市楽座制、太閤検地、刀狩といった兵農分離の諸政策から次第に形成されたもので、江戸幕府以降、将軍は広大な直轄領を支配すると同時に大名統制権を掌握していった。さらに鎖国体制、参勤交代制、武家諸法度などにより、大名の権力拡大や経済発展を阻止する支配体制を確立したのである。明治維新後の中央集権政策のもと、版籍奉還、廃藩置県によって終結。

尊皇攘夷

「王(天皇)を尊び、夷(外国人)を攘(はら)う」の意。ペリーの黒船来航後、西欧の脅威に危機を感じていた諸国の大名や武士たちが盛んに提唱し、さまざまな活動を起こした。1858年には、大老井伊直弼が無勅許で日米修好通商条約をはじめとする安政5ヵ国条約(列強との不平等条約)を締結したため、これに反発した尊皇攘夷派の動きが激化。幕府は彼らを弾圧するが(安政の大獄)、この報復行為として攘夷派の水戸脱藩藩士らが井伊直弼を暗殺する(桜田門外の変)。このように過激な尊皇攘夷派を恐れ、弱体化していた幕府に幕政改革を迫ったのが島津久光で、公武合体運動の推進を約束させる代わりに、藩内の過激な尊王派の粛清を行ったりもした(寺田屋事件)。

公武合体

従来の幕府独裁政治を改め、朝廷の伝統的権威と幕府を一体化させることで幕藩体制の再構築を図ろうとした政策論。ペリーの黒船来航以来、社会不安が高まる中で揺れる政局を安定させようとするもので、実現すれば尊王派が幕府に反抗する理由も薄れ、幕府の統治力強化にもつながる。島津久光が亡き兄、島津斉彬の遺志を継ぐ形で推し進めた。具体策として幕府は孝明天皇の妹、和宮を14代将軍徳川家茂へ嫁がせたが、1866年に家茂が死去、その翌年に孝明天皇が崩御したことで事実上無効となる(ちなみに2008年、NHK大河ドラマで話題を呼んだ篤姫は島津家の生まれで第13代将軍家定の正室。和宮の姑にあたる)。後に幕政改革を推進する公議政体論が唱えられ、15代将軍慶喜によって大政奉還が行われるが、王政復古の大号令により討幕運動へと傾いていく。

生麦事件参考館

神奈川県横浜市の鶴見区生麦にある、個人宅を改造してつくられた資料館。酒類商、株式会社神田屋に勤めていた浅海武夫さんが1976年より仕事の傍ら、生麦事件に関する資料や文献を集め始め、1994年に自費で設立した。館内では浅海さんが情熱をかけて集めた1000点におよぶ所蔵資料のうち、約150点が閲覧できる。事件の様子が綴られた当時の文書や、オランダの博物館から10ヵ月かかって取り寄せた事件に関する写真など、貴重な資料を多数展示。「神田屋酒の記念館」を併設。

生麦事件参考館
【住所】神奈川県横浜市鶴見区生麦1-11-20
Tel: 045-503-3710
Fax: 045-503-4580

※事前にご予約の上、ご来館下さい。また、電話がつながらない場合はfaxでご連絡下さい。

館長/浅海武夫(あさうみ・たけお)さん

横浜外人墓地にある生麦事件犠牲者の墓の前で。左から32代目島津修久氏、英国大使館ダニエル・ソルダ氏、浅海武夫氏、海江田武次の曾孫にあたる海江田忠義氏。島津氏のすぐ左にあるのがクラークの墓で、マーシャルの墓(写真枠外左の方)とともに新造されたもの。2人の墓の手前にリチャードソンの墓碑がある。
生麦で生まれ育った浅海さんが事件に関する資料を集め始めたきっかけは、1976年に鹿児島から訪れた一人の男性だったという。浅海さんは生麦事件の石碑の場所を尋ねられたのだが、後日、その男性から手紙が届き、「生麦事件は日本の近代国家成立に至る重要な事件なのに、なぜ資料館がないのですか」と尋ねられたという。この言葉に開眼した浅海さんは、仕事の合間に神田の古書店などを訪ね歩き、関連資料の収集を開始。以後20年以上にわたり、国内外の資料や文献を集め続け、ついに資料館の開設に踏み切る。その功績が評価され、2000年には中曽根文部大臣より感謝状が贈られたほか、翌2001年には坂口厚生労働大臣より表彰状を授かっている。以後も、神奈川私設ミュージアムネットワークの会の初代会長を務めたり、横浜市高齢者福祉大学講師に就任したりと精力的に活動。86歳の現在も、来館者の案内を務め、生麦事件に対する情熱は衰えることをしらない。

週刊ジャーニー No.927(2016年4月7日)掲載