2010年11月4日 No.650

●サバイバー●取材・執筆/奥本 香・本誌編集部

 

ガイ・フォークスの陰謀

ジェームズ1世を爆殺せよ

11月始め、英国で各地で花火大会が催される。
日本では花火は夏の風物詩。なぜこの寒い時期に?
その答は11月5日の「ガイ・フォークス・ナイト」にある。ガイ・フォークスなる人物は、
17世紀初め、国会議事堂爆破・ジェームズ1世暗殺計画に関わった。
計画実行目前に犯人らは取り押さえられ、国会は難を逃れた。
これを祝う行事が「ガイ・フォークス・ナイト」となったわけだ。
今後では、このガイ・フォークスに焦点をあてることにしよう。




Remember, remember the Fifth of November,
The Gunpowder Treason and Plot,
I know of no reason, Why the Gunpowder Treason should ever be forgot.
Guy Fawkes, Guy Fawkes, t'as his intent
To blow up the King and Parli'ent....


覚えておこう、覚えておこう、11月5日を。
「ガンパウダー・トゥリーズン・アンド・プロット」
(爆薬と反逆と陰謀の事件)の日を。
「ガンパウダー・トゥリーズン」事件が
忘れ去られるべきだという理由はどこにも無いはずだ。
ガイ・フォークス、ガイ・フォークス、
国王と国会を爆破しようとした男。
 

 


 「トム、勇気を出すんだ」 人々の罵声が飛び交う中、絞首台でガイ・フォークスは幼なじみのトーマス・ウィンターに向かって叫んだ。 時は1606年1月31日。ウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードで、処刑を一目見ようと集まった群衆は興奮の絶頂に達していた。当時、娯楽の少ない庶民生活の中で、こうした処刑は一種のエンターテインメントとも呼ぶべき役割を果たしており、凍てつく寒さをものともせず、この日も数多くの民衆が処刑囚を取り囲んでいた。 「さらば、友よ」 返事が返ってきた。 「もっと良い所で再会するまでの辛抱だ」 絞首刑執行人が会話を遮り、2人を黙らせる。「お前らのような国賊は天国には行けない。地獄行きだ」。 しかし、フォークスの頭の中には、天国ではない「もっと良い所」が次々と浮かんでいた。生まれ故郷ヨークの町並み、子供の頃自由に走り回った、緑鮮やかなヨークシャー渓谷、仲間たちと通った学校。思えばウィンターとは色々な体験を共にした。 子供時代、2人は将来の夢も共有していた。「兵士になりたい。そしてイングランドをもう一度カトリックの国にしたい」―願い事が叶うという奇跡の井戸に2人で行ったことをフォークスは思い出した。「あの頃の夢と希望が、なぜこんな悲惨な結末になってしまったのだろう」とフォークスは我に返った。絞首刑になろうとしている自分の境遇が信じられなかった。


 

○●○ 獅子身中の虫 ○●○

 


ジェームズ1世の両親、ダーンリー卿=肖像画の左側=とスコットランド女王メアリー=同右側。ダーンリーとメアリーはいとこ同士で、ともにイングランド王位継承権を有していた。
  冒頭の歌の主人公であり、今も英国史上で語り継がれるガイ・フォークスは、カトリック教徒による1605年の国会議事堂爆破陰謀事件の犯人として処刑された。同事件を理解するには、当時のイングランドにおけるカトリック教徒弾圧の事情を知る必要がある。 父ヘンリー8世が創設したものの、異母姉であるメアリー1世により否定された英国国教会を信奉するエリザベス1世(以降、「エリザベス」と記す)は、1558年に即位して以来、イングランドを再び英国国教会の国とすべく様々な策を弄していた。プロテスタントを火刑にし、それを眺めて楽しんでいたとさえ言われるメアリー一世のように、反対勢力への残酷かつ露骨な弾圧は行わなかったものの、イングランドからのカトリック締め出しを進めた。 当時はまだ弱小国に過ぎなかったイングランドは、大国スペインを筆頭とする、ヨーロッパのカトリック勢力がいつ侵攻してきてもおかしくない状況にあったからだ。エリザベスは国内のカトリック教徒たちが、『獅子身中の虫』 のごとく、敵の侵略を手助けするであろうことを予測し、非常に恐れていたのである。 このエリザベスのもと、1588年、イングランド海軍はスペインの無敵艦隊を撃破(実は自滅に近かったが)したことは、本誌10月7日・14日号で詳しくお届けした通りだ。 生涯、結婚することなく、子供のないままエリザベスが逝去。その後継者に、信仰心篤きカトリックとして知られたスコットランド女王メアリー(Mary, Queeen of Scots)の息子である、スコットランド王ジェームズ6世(以降、「ジェームズ」と記す)の名が挙がった時、カトリック教徒たちに希望の光が差した。ジェームズはプロテスタントではあったが、当初、カトリックに対して寛容な姿勢を保っていたからだ。 1603年、このジェームズがジェームズ1世としてイングランド王に即位。かくして、常に敵対関係にあったスコットランドとイングランドは、少なくとも形式上は、同じ国主をいただくひとつの国家となった。 ジェームズの母、スコットランド女王メアリーは、ヘンリー8世の姉の孫であったことから、イングランドの王位継承者であると亡くなるまで主張し続け、スペインのフェリペ2世もメアリーを支持。権力闘争に敗れ、スコットランドを追われてイングランドに逃げ込んでからもメアリーは、この主張を取り下げることはなかった。エリザベスの温情のもと、イングランドで軟禁生活を送りながらも、イングランド女王となって、イングランドをカトリックの国にする夢を捨てず、エリザベス暗殺計画に加担。メアリーはついに1587年、反逆罪で処刑され、これがスペインの無敵艦隊出撃へとつながったのだった。


 

 早く生まれすぎた人道主義者 ジェームズ1世

◆イングランド王ジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)は1566年に誕生。母親のスコットランド女王メアリーが退位させられたことにより、生後わずか13ヵ月で王位を継承した。本人が統治を開始したのは、1581年以降。15歳を過ぎてからのことだった 

 ◆母親メアリーが敬虔なカトリック教徒であっただけに、ジェームズを即位させた側近たち(プロテスタントの有力者たち)は、ジェームズをプロテスタント王として育てることに全力を挙げる。スコットランドの枢密院がジェームズの教育係として選んだのはジョージ・ブーキャナン(George Buchanan 1506-1582)=肖像画。厳しい人物だったようで、ジェームズにしばしば体罰を加えたとされている。 

 ◆1603年、チューダー朝の最後の君主、エリザベス1世が亡くなったのをうけ、ジェームズはイングランド王(※)として即位。58歳で亡くなる1625年まで「大英帝国君主」として、イングランド、スコットランド、アイルランドの3国を治めた。
(※)「イングランド王」は正確には「イングランド・アイルランド王」を指す。

 ◆1603年以降、ジェームズはイングランドに住んだが、スコットランド人としてのルーツを誇りとし、言葉もスコットランドなまりのままで通した。 

 ◆ジェームズはもともと平和主義者で、「地上に平和を、人々に良心を」がモットーだった。信仰にこだわりなく、統合された平和なヨーロッパを夢見ていた。ジェームズがイングランド王となった時、対スペイン戦により、イングランドは40万ポンドの借金を抱えていた。ジェームズはこれを機に、ヨーロッパの宗教戦争を終結させようとスペインに停戦を提案、合意にこぎつけたほか、数々の友好的な外交政策を展開。

 ◆しかし、ジェームズはイングランドでは『外国人』、つまりよそものであり、何とか王を取り込もうと機会を狙う強硬派に囲まれていた。気弱な性格と世間知らずであることが更に立場を悪くしていた。スペインとの停戦という決断を歓迎しない有力貴族が少なくなく、また、友好的な外交政策が議会から支持を得ることはなかった。それどころか「ジェームズ1世はカトリック教徒に加担している」という噂が出回る始末。一部のプロテスタント教徒が反カトリック政策の強化を訴えジェームズに詰め寄った。こうしてジェームズは、意に反してカトリック弾圧を強めるように追い込まれていったのである。ジェームズの人道主義的な信念と政策は、時代にそぐわなかったと言えよう。

 

○●○ ふみにじられた希望○●○ 

 


陰謀事件の主なメンバーたち。左から:トーマス・ベイツ、ロバート・ウィンター、クリストファー・ライト、ジャック・ライト、トーマス・パーシー、グイド(ガイ)・フォークス、ロバート・ケイツビー、トーマス・ウィンター
  このメアリーの一粒種であるジェームズなら、エリザベスとは違って、カトリックを擁護する統治を行ってくれるのでは、という期待はいやが上にも高まった。イングランドのカトリック教徒はイングランド北部を本拠地としており、カトリック系の有力貴族などもジェームズ1世誕生を歓迎した。しかし、期待は無惨にも裏切られた。救済者どころか、ジェームズは、エリザベス以上にカトリック教徒に対して強硬な態度をとった。宮廷内の要職はいうまでもなく、庶民レベルでも職につきづらくするなど、カトリック教徒は虐げられた。 ジェームズ1世即位から1年。カトリック教徒の間の不満は募るばかり、彼らは追い詰められ抑圧に耐え切れなくなりつつあった。 エリザベスの時代にも暗殺計画は絶えず噂されたが、今回、一部の急進派カトリック教徒が集まって密かに立てた計画は、単なる暗殺にとどまらぬ大それたものだった。すなわち、国王ジェームズ1世と議会を、国会議事堂もろとも一挙に爆破してしまうという謀反を企てたのだった。彼らは、国王を殺害し議会を壊滅させ、その混乱に乗じてカトリック勢力でイングランドを掌握することを画策。これにより、イングランドにカトリックの時代が来ると信じたのである。決行は次の議会召集日。準備は着々と進められた。 この前代未聞の爆破計画の主要メンバーは、リーダーのロバート・ケイツビー、トーマス・パーシー、ジャック(ジョンとする史料もあり)・ライト、トーマス・ウィンター、ガイ・フォークスの5人だったと言われている。最終的にこの他にも8名が何らかの形で加担した。ケイツビーは、ウィリアム・ケイツビー卿の息子で、親子共々、筋金入りのカトリックというリーダー的存在だった。パーシーは、カトリック系反乱軍を率いたこともあるノーサンバランド伯の子孫。一方、ウィンターとライトは貴族ではなくジェントリ(地主)階級の出身だったが、プロテスタント勢力により痛い目に遭わされ続けていた。 そして、ここに加わることになるのがガイ・フォークスである。厳密にいえば、計画の発案者は既述の4人で、計画が持ち上がった時、敬虔なカトリック信者であったフォークスは、スペイン軍の一兵卒(後述)としてオランダ(当時の北部ネーデルランド)に駐留していた。