Remember, remember the Fifth of November,
The Gunpowder Treason and Plot,
I know of no reason, Why the Gunpowder Treason should ever be forgot.
Guy Fawkes, Guy Fawkes, t'as his intent
To blow up the King and Parli'ent....

覚えておこう、覚えておこう、11月5日を。
「ガンパウダー・トゥリーズン・アンド・プロット」
(爆薬と反逆と陰謀の事件)の日を。
「ガンパウダー・トゥリーズン」事件が
忘れ去られるべきだという理由はどこにも無いはずだ。
ガイ・フォークス、ガイ・フォークス、
国王と国会を爆破しようとした男。

11月始め、英国で各地で花火大会が催される。
日本では花火は夏の風物詩。なぜこの寒い時期に?
その答は11月5日の「ガイ・フォークス・ナイト」にある。
ガイ・フォークスなる人物は、17世紀初め、
国会議事堂爆破・ジェームズ1世暗殺計画に関わった。
計画実行目前に犯人らは取り押さえられ、国会は難を逃れた。
これを祝う行事が「ガイ・フォークス・ナイト」となったわけだ。
今後では、このガイ・フォークスに焦点をあてることにしよう。

●サバイバー●取材・執筆/奥本 香・本誌編集部

「トム、勇気を出すんだ」 人々の罵声が飛び交う中、絞首台でガイ・フォークスは幼なじみのトーマス・ウィンターに向かって叫んだ。 時は1606年1月31日。ウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードで、処刑を一目見ようと集まった群衆は興奮の絶頂に達していた。当時、娯楽の少ない庶民生活の中で、こうした処刑は一種のエンターテインメントとも呼ぶべき役割を果たしており、凍てつく寒さをものともせず、この日も数多くの民衆が処刑囚を取り囲んでいた。 「さらば、友よ」 返事が返ってきた。 「もっと良い所で再会するまでの辛抱だ」 絞首刑執行人が会話を遮り、2人を黙らせる。「お前らのような国賊は天国には行けない。地獄行きだ」。 しかし、フォークスの頭の中には、天国ではない「もっと良い所」が次々と浮かんでいた。生まれ故郷ヨークの町並み、子供の頃自由に走り回った、緑鮮やかなヨークシャー渓谷、仲間たちと通った学校。思えばウィンターとは色々な体験を共にした。 子供時代、2人は将来の夢も共有していた。「兵士になりたい。そしてイングランドをもう一度カトリックの国にしたい」―願い事が叶うという奇跡の井戸に2人で行ったことをフォークスは思い出した。「あの頃の夢と希望が、なぜこんな悲惨な結末になってしまったのだろう」とフォークスは我に返った。絞首刑になろうとしている自分の境遇が信じられなかった。

獅子身中の虫

ジェームズ1世の両親、ダーンリー卿=肖像画の左側=とスコットランド女王メアリー=同右側。ダーンリーとメアリーはいとこ同士で、ともにイングランド王位継承権を有していた。
冒頭の歌の主人公であり、今も英国史上で語り継がれるガイ・フォークスは、カトリック教徒による1605年の国会議事堂爆破陰謀事件の犯人として処刑された。同事件を理解するには、当時のイングランドにおけるカトリック教徒弾圧の事情を知る必要がある。
父ヘンリー8世が創設したものの、異母姉であるメアリー1世により否定された英国国教会を信奉するエリザベス1世(以降、「エリザベス」と記す)は、1558年に即位して以来、イングランドを再び英国国教会の国とすべく様々な策を弄していた。プロテスタントを火刑にし、それを眺めて楽しんでいたとさえ言われるメアリー一世のように、反対勢力への残酷かつ露骨な弾圧は行わなかったものの、イングランドからのカトリック締め出しを進めた。
当時はまだ弱小国に過ぎなかったイングランドは、大国スペインを筆頭とする、ヨーロッパのカトリック勢力がいつ侵攻してきてもおかしくない状況にあったからだ。エリザベスは国内のカトリック教徒たちが、『獅子身中の虫』 のごとく、敵の侵略を手助けするであろうことを予測し、非常に恐れていたのである。
このエリザベスのもと、1588年、イングランド海軍はスペインの無敵艦隊を撃破(実は自滅に近かったが)したことは、本誌10月7日・14日号で詳しくお届けした通りだ。
生涯、結婚することなく、子供のないままエリザベスが逝去。その後継者に、信仰心篤きカトリックとして知られたスコットランド女王メアリー(Mary, Queeen of Scots)の息子である、スコットランド王ジェームズ6世(以降、「ジェームズ」と記す)の名が挙がった時、カトリック教徒たちに希望の光が差した。ジェームズはプロテスタントではあったが、当初、カトリックに対して寛容な姿勢を保っていたからだ。
1603年、このジェームズがジェームズ1世としてイングランド王に即位。かくして、常に敵対関係にあったスコットランドとイングランドは、少なくとも形式上は、同じ国主をいただくひとつの国家となった。 ジェームズの母、スコットランド女王メアリーは、ヘンリー8世の姉の孫であったことから、イングランドの王位継承者であると亡くなるまで主張し続け、スペインのフェリペ2世もメアリーを支持。権力闘争に敗れ、スコットランドを追われてイングランドに逃げ込んでからもメアリーは、この主張を取り下げることはなかった。エリザベスの温情のもと、イングランドで軟禁生活を送りながらも、イングランド女王となって、イングランドをカトリックの国にする夢を捨てず、エリザベス暗殺計画に加担。メアリーはついに1587年、反逆罪で処刑され、これがスペインの無敵艦隊出撃へとつながったのだった。

早く生まれすぎた人道主義者 ジェームズ1世

◆イングランド王ジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)は1566年に誕生。母親のスコットランド女王メアリーが退位させられたことにより、生後わずか13ヵ月で王位を継承した。本人が統治を開始したのは、1581年以降。15歳を過ぎてからのことだった

◆母親メアリーが敬虔なカトリック教徒であっただけに、ジェームズを即位させた側近たち(プロテスタントの有力者たち)は、ジェームズをプロテスタント王として育てることに全力を挙げる。スコットランドの枢密院がジェームズの教育係として選んだのはジョージ・ブーキャナン(George Buchanan 1506-1582)=肖像画。厳しい人物だったようで、ジェームズにしばしば体罰を加えたとされている。
◆1603年、チューダー朝の最後の君主、エリザベス1世が亡くなったのをうけ、ジェームズはイングランド王(※)として即位。58歳で亡くなる1625年まで「大英帝国君主」として、イングランド、スコットランド、アイルランドの3国を治めた。 (※)「イングランド王」は正確には「イングランド・アイルランド王」を指す。
◆1603年以降、ジェームズはイングランドに住んだが、スコットランド人としてのルーツを誇りとし、言葉もスコットランドなまりのままで通した。
◆ジェームズはもともと平和主義者で、「地上に平和を、人々に良心を」がモットーだった。信仰にこだわりなく、統合された平和なヨーロッパを夢見ていた。ジェームズがイングランド王となった時、対スペイン戦により、イングランドは40万ポンドの借金を抱えていた。ジェームズはこれを機に、ヨーロッパの宗教戦争を終結させようとスペインに停戦を提案、合意にこぎつけたほか、数々の友好的な外交政策を展開。

◆しかし、ジェームズはイングランドでは『外国人』、つまりよそものであり、何とか王を取り込もうと機会を狙う強硬派に囲まれていた。気弱な性格と世間知らずであることが更に立場を悪くしていた。スペインとの停戦という決断を歓迎しない有力貴族が少なくなく、また、友好的な外交政策が議会から支持を得ることはなかった。それどころか「ジェームズ1世はカトリック教徒に加担している」という噂が出回る始末。一部のプロテスタント教徒が反カトリック政策の強化を訴えジェームズに詰め寄った。こうしてジェームズは、意に反してカトリック弾圧を強めるように追い込まれていったのである。ジェームズの人道主義的な信念と政策は、時代にそぐわなかったと言えよう。

ふみにじられた希望

陰謀事件の主なメンバーたち。左から:トーマス・ベイツ、ロバート・ウィンター、クリストファー・ライト、ジャック・ライト、トーマス・パーシー、グイド(ガイ)・フォークス、ロバート・ケイツビー、トーマス・ウィンター
このメアリーの一粒種であるジェームズなら、エリザベスとは違って、カトリックを擁護する統治を行ってくれるのでは、という期待はいやが上にも高まった。イングランドのカトリック教徒はイングランド北部を本拠地としており、カトリック系の有力貴族などもジェームズ1世誕生を歓迎した。しかし、期待は無惨にも裏切られた。救済者どころか、ジェームズは、エリザベス以上にカトリック教徒に対して強硬な態度をとった。宮廷内の要職はいうまでもなく、庶民レベルでも職につきづらくするなど、カトリック教徒は虐げられた。 ジェームズ1世即位から1年。カトリック教徒の間の不満は募るばかり、彼らは追い詰められ抑圧に耐え切れなくなりつつあった。 エリザベスの時代にも暗殺計画は絶えず噂されたが、今回、一部の急進派カトリック教徒が集まって密かに立てた計画は、単なる暗殺にとどまらぬ大それたものだった。すなわち、国王ジェームズ1世と議会を、国会議事堂もろとも一挙に爆破してしまうという謀反を企てたのだった。彼らは、国王を殺害し議会を壊滅させ、その混乱に乗じてカトリック勢力でイングランドを掌握することを画策。これにより、イングランドにカトリックの時代が来ると信じたのである。決行は次の議会召集日。準備は着々と進められた。 この前代未聞の爆破計画の主要メンバーは、リーダーのロバート・ケイツビー、トーマス・パーシー、ジャック(ジョンとする史料もあり)・ライト、トーマス・ウィンター、ガイ・フォークスの5人だったと言われている。最終的にこの他にも8名が何らかの形で加担した。ケイツビーは、ウィリアム・ケイツビー卿の息子で、親子共々、筋金入りのカトリックというリーダー的存在だった。パーシーは、カトリック系反乱軍を率いたこともあるノーサンバランド伯の子孫。一方、ウィンターとライトは貴族ではなくジェントリ(地主)階級の出身だったが、プロテスタント勢力により痛い目に遭わされ続けていた。 そして、ここに加わることになるのがガイ・フォークスである。厳密にいえば、計画の発案者は既述の4人で、計画が持ち上がった時、敬虔なカトリック信者であったフォークスは、スペイン軍の一兵卒(後述)としてオランダ(当時の北部ネーデルランド)に駐留していた。

運命を変えた、母親の再婚

フォークスは1570年にヨークに生まれた。母親はカトリック教徒だったが、父親は裁判所の職員でプロテスタント教徒。父親にならい、フォークスも最初はプロテスタント教徒として育てられた。もし、この父親が健康で、長生きしていたら、フォークスの運命は大きく変わっていたに違いない。当時イングランドでは、カトリックかプロテスタントかは生死をも分ける大問題だったことは既に述べた。カトリック教徒は敵国スペインを支援する裏切者と見なされるため、信者であることを隠さねばならず、著しく肩身の狭い思いをして生きていた。  8歳の時、フォークスの父親が死去。母親の再婚相手がカトリック教徒だったため、フォークス自身も改宗した。カトリック教徒として困難な人生を歩むことになったのだ。この時から、フォークスの運命は、絞首台へと続く道に大きく軌道を変えたといっていいだろう。もちろん、当のフォークスは、その28年後に死刑囚として群集の前に引き出される日がくることになるなどとは、夢想だにしていなかった。  フォークスはセント・ピーター小学校に入学。この学校は今もあるが、その頃は校長をはじめ教員も生徒たちも皆隠れカトリックだった。フォークスの親友のひとり、キット・ライトのおばは、カトリック神父を匿っていたことが見つかり、押し潰しの刑に遭い落命している。キットの兄弟が、後に爆破陰謀計画の主要メンバーとなるジャックであり、キット自身もほどなくして計画に加わっている。  信仰心の強いカトリック教徒たちの間でフォークスは成長した。しかし、カトリック教徒は仕事を見つけることも容易ではなく、フォークスも職探しに苦労する。カトリックというだけで差別される日々。怒りや苦悩は、この純粋な青年の信仰心をさらに高めていった。  学校卒業後、フォークスはようやく仕事を見つけた。隠れカトリック教徒だったモンタギュー卿の下働きとなりサセックスに移住。だが、モンタギュー卿に疎まれ、短期間で解雇されてしまう。  21歳でイングランドでの生活に見切りをつけたフォークスは、もてあますほどの強い信仰心を携えてスペイン軍に加入。オランダのプロテスタント軍と戦うことにより、カトリック教徒としての責務を果たそうと考えたのだった。「ガイ」をスペイン語名「グイド(Guido)」と呼び換えた。  フォークスは優秀で、間もなく大尉に昇進。この頃に導火線や火薬について知識を得たとされている。  やがて、イングランド王ジェームズが予想に反してカトリック弾圧に傾いたことを知った時、フォークスはスペイン軍幹部に直訴。イングランドに攻め入るよう、説得を試みる。しかし、一兵卒の言葉でスペイン軍が動くわけもなく、また、無敵艦隊の敗北後、イングランドに対して慎重になっていたこともあり、軍幹部はフォークスの言うことに耳を貸さなかった。

宿命の対決 カソリックvsプロテスタント

◆キリスト教は大きく2つの教会に分かれる。ローマ=カトリック(以降「カトリック」と記す)およびプロテスタントの属する西方教会と、正教会をはじめとした東方教会である。

◆西方教会を構成するうちのプロテスタントは、カトリック教会から分離した諸派の総称。分離のきっかけとなったのが1517年以降のマルティン・ルター=肖像画=率いる宗教改革運動であることは、世界史の時間に学んだ読者も多いはず。ルター派がローマ帝国カール5世に対してカトリック教会の改革を求める「抗議書(プロテスタティオ)」を送付。「抗議者(プロテスタント)」という名はこれに由来する。また、カトリックを「旧教」、プロテスタントを「新教」と呼ぶことも多い。
◆ルター派は聖書に基づく福音主義を唱え、カトリック教会の7つの秘蹟(Sacrament=洗礼、聖体、婚姻、叙階、堅信、告解、病者の塗油)を廃止することを訴えた。また、それまでラテン語だけだった聖書や典礼をドイツ語に翻訳。これが大きく影響し、ルター派の教えはドイツ全体へ、そして北ヨーロッパに一気に広まっていった。

◆イングランドに目を向ければ1520年代、世継ぎ問題に悩む国王ヘンリー8世=肖像画=は、ローマ法王に離婚の許しを得られなかったことから宗教改革を断行。そして英国国教会(Church of England、日本では「聖公会」とも言う)の長となり、自らカトリックから決別。さらにイングランド国内のカトリック勢力を駆逐しようと努め、修道院や教会を破壊したり、土地をはじめとする所有財産を没収したりし(これにより、イングランド国庫は大いにうるおった)、カトリック教会と完全に対立した。
◆実はヘンリー8世の設立した英国国教会は、伝統的なカトリック信仰に近いものだったが、プロテスタントであることに変わりはなく、当時、まだ弱小国だったイングランドは、カトリック大国スペインなどからの圧力と戦うことを余儀なくされる。

◆ヘンリー8世の死後しばらくは、英国国教会の立場は不安定だった。次期国王エドワード6世がプロテスタントへの移行を強化しようとしたが、病弱だったため若くして逝去すると、その次の統治者(腹違いの姉)メアリー1世=右下の肖像画=はカトリック国家に戻そうと、スペインのフェリペ2世と結婚するかたわら、プロテスタントを徹底的に弾圧。多くのプロテスタントが処刑され、メアリー1世は『ブラディ・メアリー(血まみれメアリー)』と揶揄され、後世には、その名前のカクテルまで作られた。
◆ようやくエリザベス1世(メアリー1世の腹違いの妹)の時代となり、イングランドは再び英国国教会の国家へと舵を切る。メアリー1世時代ほど残虐な方法ではなかったものの、カトリック弾圧が行われた。この後に、やはりプロテスタントのジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)が王位に就き、これがガイ・フォークスらの陰謀へとつながる。
◆現在の英国国教会は、教義はプロテスタントに大きく影響を受ける反面、カトリックの典礼などを重視する。一般的には英国国教会をプロテスタントに含むが、信徒個人や教団によってはカトリックとプロテスタントの中道とみなすなど、意見の分かれるところであるようだ。

幼なじみからの誘い

オランダでフォークスは失望していた。
スペイン軍に入隊した頃の希望に満ちたフォークスの姿はもうなかった。フォークスは、オランダ相手に戦うことに辟易し始めており、また、ホームシックにもかかっていた。
そんなフォークスを、ある日、ひとりの男が訪ねてくる。
同じくヨーロッパでカトリック側兵士として戦っていたトーマス・ウィンターである。ケイツビーを中心に計画が進められるうち、火薬に関する知識が豊富で、しかもイングランドではカトリック教徒としてまだ目を付けられていない人物が必要ということになり、白羽の矢が立てられたのがフォークスだったのだ。
ウィンターはフォークスにイングランドに戻るように力をこめて説いた。国王ジェームズのもと、弾圧を受けているカトリック教徒を救うために「君の技術と勇気が必要とされている」。ヨークでの子供時代、「兵士になりたい。そしてイングランドをもう一度カトリックの国にしたい」と夢を語り合ったフォークスに対して、ウィンターは続けた。「僕らの願い事を覚えているかい。あれを今、実現するんだ」。
希望を失いかけていたフォークスが、幼なじみの熱意あふれる言葉に胸を打たれ、容易に『洗脳』されたのも無理はなかった。フォークスは祖国を離れて久しく、その頃のイングランド情勢を正確に判断する術を持っていなかった。このため、ジェームズを爆殺し、議会も爆破すればイングランドがカトリック教国に戻ると単純に信じ込んだのである。イングランドのカトリック教徒が全員、ジェームズの暗殺を望んでいたわけではないことを、フォークスは後に思い知らされることになる。
しかし、この時はスペイン軍に対する失望からの反動もあったのだろう。フォークスは新しい使命を与えられ、気持ちが高揚するのを感じた。そして何よりも母国を再びカトリック教国にできるという新たな希望が、フォークスの計画参加を決心させた。
1604年の春のことであった。

信念を貫く情熱の人

フォークスはイングランドに帰国した。ロンドンのストランドにあるダック&ドレイク・インの一室で、1604年5月、4人の共謀者と顔を合わせた。ウィンターの従兄弟であるケイツビーがリーダーで、議事堂を、国王と議会もろとも爆破し、イングランドを再びカトリック教国にするという計画の詳細を告げた。5人は神の前で秘密を守る誓いを交わした。その後、隣の部屋に移り、友人の司祭によって秘密のミサが執り行われた。
繰り返しになるが、フォークスは最初から計画に参加していたわけではなかった。しかし、後世、この陰謀計画は「ガイ・フォークス」の仕組んだものとして語り継がれる。火薬担当であったこと、そして、計画実行の直前に火薬の詰まった樽の前で逮捕されたのが、他でもなく、フォークスその人だったことが大きく関係していると考えられる。
ケイツビーたちに「議事堂爆破、国王暗殺しかカトリック教徒を救う道はない」と言われ、フォークスの持つ火薬の知識が必要だと頼られ、「同胞の危機を救わねば」と、彼は強い使命感を抱いたに違いなかった。ヨーロッパでは、同じキリスト教徒同士でありながら、カトリックとプロテスタントに分かれ、血で血を洗う戦いが至るところで繰り広げられていた。その頃の異常なまでに高まっていた緊張の中、信仰に命をかける者が後を絶たなかったのである。フォークスは、そうした『殉教者』のひとりであったが、その陰謀の規模の大きさが破格であったため、比類なき国家反逆者というレッテルをはられてしまったといえる。
選んだ方法は、決して正当化されるものではないが、フォークスの信念と信仰心の強さは誰にもひけをとらなかった。情熱の人であったと断言して良いだろう。

ガイ・フォークス・ナイトの祝い方

1605年11月5日、国王ジェームズ1世が九死に一生を得たことを祝って火薬に火が点されて以来、この日には花火をあげる習慣が定着。やがて、家庭でも庭で花火や焚火を楽しみながら、親戚や友人が集まって食卓を囲むようになる。さらに、子供たちは新聞紙やワラに古着を着せてガイ・フォークス人形を作り、11月5日に燃やす習慣が加わった。また、花火を買うお金を稼ぐために通りがかりの人たちに「ガイにペニーを!(A penny for the Guy!)」と呼びかけ、手作りの人形を買ってもらう姿が、英国でも60~70年代ごろまで見られたという。子供たちは人形を売って集めたお金で花火を買い、人形を買った大人たちはその人形を焚火の中に放り投げて燃やすこの伝統は、近年では、自治体主催の大規模な花火大会と移動遊園地にとってかわられている。宗教色は薄れつつあるが、「ガイ・フォークス・ナイト」は冬空の花火を楽しみながら、イングランドの歴史の一頁を思い起こす日として続けられることだろう 。

◆「ガイ・フォークス・ナイト」に口ずさむのが以下の歌。事件直後に書かれたと伝えられている。 Remember, remember the Fifth of November, The Gunpowder Treason and Plot, I know of no reason Why the Gunpowder Treason Should ever be forgot. Guy Fawkes, Guy Fawkes, t'was his intent To blow up the King and Parli'ment. Three-score barrels of powder below To prove old England's overthrow; By God's providence he was catch'd (or by God's mercy*) With a dark lantern and burning match. Holla boys, Holla boys, let the bells ring. Holloa boys, holloa boys, God save the King! And what should we do with him? Burn him!

皮肉な予言

年は1605年に移り、準備はさらに進められた。
5人の主犯格に数人のカトリック教徒が新たに加わった。スペイン軍での爆薬の経験の豊富なフォークスが運搬・貯蔵責任者だった。「ジョン・ジョンソン」を名乗り、議事堂の隣の家を借りた。一方、火薬の詰まった36の樽は、テムズ川対岸にケイツビーの借りた家に保管。船でフォークスの待機する家にまず運び、トンネルを掘って隣の議事堂へ運ぶ予定だった。しかしトンネルを掘る作業は、辛いばかりで遅々として進まず、フォークスたちを焦らせていた。
それだけに、貴族院本会議室の真下の貸し貯蔵庫に空室ができたという知らせが入った時には、フォークスらは飛び上がらんばかりに喜び、神の導きだと感謝した。貯蔵庫に入れるものに対してのチェックは厳しくなかったらしく、36の樽が一つずつ、ケイツビーの家から船で貯蔵庫に運び込まれた。
ところが、ここで想定外のことが起こる。ロンドンがペスト(黒死病)に襲われたのである。このため次期国会開始日が秋まで延期された。この時間を利用し、フォークスは再びオランダに渡り、スペイン軍の友人に計画遂行後の支援を頼んだ。ところが、交渉が済み、ロンドンに戻ったフォークスをショッキングな知らせが待っていた。当時の火薬には使用期限があり、それが切れたというのだ。36樽の火薬が無駄になり、全てを再調達しなければならなかった。
このような回り道もあったものの、10月に入る頃には、準備作業は無事完了した。フォークスは36樽の火薬を薪木と石炭で完璧に隠した。ケイツビーはフォークスの仕事ぶりに大いに満足し、計画日に爆薬に点火する栄誉ある役割を彼に任じた。点火後の段取りも固まっていた。フォークスはテムズ川を渡って逃げ、主要メンバーの数人は、国王ジェームズ1世の9歳の娘エリザベスを名目上の女王にするため誘拐し、ミッドランドに馬を走らせることが決まっていた。
ケイツビーはフォークスに言った。「君の名は長く語り継がれることになるだろう」。しかし皮肉にも、歴史は計画とは異なる方向へと進み始めており、この予言は別の意味で実現されることになる。
共謀者の間では不安が高まっていた。何ヵ月にも及ぶ準備期間中、ケイツビーは富裕層の信者達から陰謀計画への支援を募っていた。現金、武器、馬などの寄付が約束されたのは有り難かったが、しかし同時に多くの人が知れば知るほど、陰謀計画が漏れる可能性も高まることを共謀者たちも認めていた。そしてその懸念は現実のものとなってしまう。

すべてを台無しにした1通の手紙

密告は10月最後の土曜日に起こった。 議員の1人モンティーグル卿の召使が夜道を歩いていると、ある男が近寄って来て、モンティーグル卿宛の匿名の手紙を手渡した。議会開催日、すなわち爆破決行予定日の10日前の出来事だった。モンティーグル卿は熱心なカトリック教徒だったが、ジェームズの治世下で「議員」という優遇処置を受けていた。
手紙には、議会開催日に出席しないようにという警告が記されていた。「議会は『errible blo』に見舞われるだろう」。「blo」には、様々な意味がある。また、単なる嫌がらせである可能性もある。しかし、その意味を完璧には理解できないまま、モンティーグル卿は直ちに馬を走らせ、国務長官ロバート・セシルにその手紙を届けた。もし、何か事件が起こった場合、カトリックの立場がさらに悪くなると考えたためと見られている。
「モンティーグルの手紙」の存在は、すぐに犯人側にも伝わった。しかし今さら計画を中止することはケイツビーをはじめ主要メンバーには考えられなかった。政府が警告を悪戯だと判断し、手紙を破り捨て、予定通り議会を開催することを信じ、計画は決行されることになった。
 密告者が誰だかわからないままだったが、メンバーに後から加わったフランシス・トレシャムが疑われた。モンティーグル卿の義理の弟だったためである。トレシャムは強く否定したが、フォークスも他の共謀者も信じなかった。そのかたわらで、密告後、失敗の危険性は増したもののフォークスは、勇敢な兵士であった頃と同じように、任務に忠実に、1人で貯蔵庫を見張り続けた。
1605年11月4日、夜。
議事堂地下の貯蔵庫には薪束と炭で覆われた36樽の火薬がフォークスによって点火されるのを待っていた。一時も側を離れず待機するフォークスは、極限の緊張状態にあった。 午前零時、唐突に大きな物音がした。
貯蔵庫に捜査が入ったのだ。点火どころか事態を把握する間もなくフォークスは現行犯で捕らえられた。コートのポケットに潜められていた導火線はたちまち没収された。入念に隠された36の火薬の樽は呆気なく発見されてしまったのである。
ケイツビーたちは国王と議会を甘く見過ぎていた。モンティーグルの手紙を受け取ったセシル国務長官は間髪いれずに国王に報告。国王の指揮のもと、謀反者一味を逮捕すべく、この日まで犯人たちを『泳がせ』て逮捕の機会をうかがっていたのである。議事堂にいたメンバーは全員逮捕された。激しく抵抗した者はその場で殺され、フォークスをはじめ、生け捕りにされた者たちは王の前に突き出された。
数日間の間に他のメンバー全員も捕らえられた。11月5日早朝、フォークス逮捕の知らせを受けて、現場にいなかった共謀者たちはすぐさま馬に飛び乗りロンドンを後にした。2人、あるいは3人1組になって、信頼できるカトリック系住民の多いウォーリックシャーやスタフォードシャーに向かった。しかし捜査の手はすぐに伸びてきた。7日から8日にかけて、イングランド中央部の大規模な捜索が行われた。逃亡者の中には重傷を負っている者も少なくなく、抵抗し切れず全員が逮捕された。彼らは、ウスターシャーの牢獄に入れられた後、ロンドン塔に移された。

陰謀事件を題材にしたDVD

◆Gunpowder, Treason And Plot

2004年公開(テレビドラマ)
ロバート・カーライル、クレメンス・ポエズィ、エミリア・フォックスほか出演

テレビで放映された長時間スペシャル・ドラマ。タイトルは、まさにガイ・フォークスらの陰謀事件のことなのだが、前半は、ジェームズ1世の母であるスコットランド女王メアリー、後半はジェームズ1世(ロバート・カーライルの怪演が光る)に重きを置いた人間ドラマに仕上げられている。もちろん、後半はガイ・フォークスたちも登場。

◆V for Vendett

2004年公開(テレビドラマ)
ロバート・カーライル、クレメンス・ポエズィ、エミリア・フォックスほか出演

同名のコミックが原作。舞台は、ファシスト政権による恐怖政治が敷かれている、近未来のロンドン。ガイ・フォークスの仮面をつけた「V(ヴィー)」と呼ばれる人物、「V」と関わりを持つに至った、イーヴィーという女性の人間ドラマを織り込みながら、自由と尊厳を取り戻すための戦いが描かれる。全編にわたって、ガイ・フォークスの陰謀事件の引用がちりばめられている。

死力を尽くした男

逮捕直後フォークスは身分を明かさず「ジョン・ジョンソン」と偽名を通した。共謀者をかばい何も喋らなかった。できるだけ時間を稼ぎ、仲間を逃がしたい一心だったのである。
国王がフォークスと共謀者達をロンドン塔に移送することを命じた。これは厳しい拷問が待っていることを意味する。フォークスは真っ暗で立つことも横になることもできないような独房に入れられた。日中は引きずり出されて拷問を受けるという日が続いた。
それでも口を割らないフォークスに、ロンドン塔で最も恐れられている拷問法が使われた。仰向けに寝かされた状態で両手両足を逆方向に引っ張られるという拷問だ。信念の塊のような人物であるフォークスにも、さすがに限界がきていた。共謀者の名前と知っていた爆破計画の全てを自白し始めた。フォークスは憔悴しきっていたのである。自白書に残る署名「Guido」の震えた文字が、それを物語っている。署名を命じられたがペンを持つのもやっとで、綴り終えるとペンが手からポトリと落ちたという。
フォークスは、主要メンバーのうち4人が実は既に射殺されていたことを聞かされて涙を流した。リーダーのケイツビー、パーシー、そしてライト兄弟だった。共謀者の中で最年長だったウィンターは重症を負い、後からロンドン塔に送られて来た。
ウィンターは傷が回復した後、11月の末に事件の全てを告白している。このウィンターの告白内容とフォークスの告白内容が最も信憑性があり、「議事堂爆破陰謀事件」の諸説の基礎となっている。また、密告犯として疑われたトレシャムもロンドン塔に送られて来た中の1人だったが、牢獄で毒死した時には誰も悲しまなかった。
明くる年の1月27日。
生き残った8人の謀反者の裁判が開始された。国家に対する反逆の罪を否定する者はなく、全員が死刑を宣告され公開処刑となった。1月30日にセント・ポール大聖堂の中庭で4人が処刑され、フォークスを含む残りの4人はウェストミンスターのオールド・パレスヤードで処刑された。
厳しい拷問を受けたフォークスの肉体は、絞首台の階段を1人で昇ることができず、刑執行人が手を貸さなければならなかった。しかし台上に上がるとフォークスは毅然と正面を向いた。「神のお許しを」と祈りを唱え、胸の前で十字を切った。そして「私は死を恐れない」と告げたのだった。

陰謀事件の遺したもの

議事堂爆破陰謀事件後のイングランドは、事件の話でもちきりだった。シェイクスピアは陰謀事件に因んで最新作「マクベス」を書き、王の暗殺を描いたと言われている。
フォークスらの処刑後、カトリック教徒の暮らしは、当然の事ながらますます厳しくなった。フォークスたちが目指した結果とは全く反対に、爆破陰謀事件がカトリック教徒にもたらしたものは、何世紀も続くことになる一層激しい弾圧だった。新しい法律が作られ、カトリック教徒は弁護士や軍人になることを禁じられた。ロンドンに住むことも禁止され、選挙権も無かった。英国国教会に改宗しない限り、死後の埋葬すら許されなかった。カトリック教徒が、法律上、イングランドで英国国教会の教徒と同等の権利を得るまでに、それから200年以上も待たねばならなかったのである。
そして400年経った今日も、爆破陰謀事件は、導火線をポケットに隠し、火薬点火の瞬間を待っていたところを逮捕されたフォークスに因んで「ガイ・フォークス・ナイト」として人々の間に語り継がれている。また、国会議事堂では陰謀事件以降、毎年欠かさず議会開催日の前夜に実施されていることがある。次なる爆破計画を未然に防ぐために、衛兵が議事堂地下室を見廻ることになっているのだ。こうした慣わしが、400年、変わらず続けられている事実が、この陰謀事件がイングランドに与えた衝撃の大きさを如実に伝えているといえる。
今年も、11月5日がやってくる。また、イングランド中で、冬の花火が夜空を焦がすことだろう。

週刊ジャーニー No.650(2010年11月4日)掲載