

激突 スペインVSイングランド
無敵艦隊、壊滅への道(後編)
イングランドをカトリック教国へと回帰させたメアリー1世が逝去。これを継いで女王となったエリザベスは、再びイングランドを父ヘンリー8世が創設した英国国教会の国へと戻そうと画策する。
同時にエリザベスはスペイン領オランダで激化する宗教戦争で密かに新教徒側に援軍を送り、さらに西インド諸島ではドレークらを海洋に放ちスペイン船を襲わせては金銀財宝を奪わせて国庫を潤わせていた。
そしてある日、エリザベス暗殺を企てたスコットランドの元女王メアリーをエリザベスは処刑。
カトリック教徒であるメアリーのイングランド王位継承を支持していたスペインのフェリペ2世はこれに激怒。
イングランドに大鉄槌を下すため、ついに大艦隊出動の命を下した。
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部 手島 功
1588年7月19日。イングランド本土最南端、コーンウォールのリザード岬沖に130隻で編成された堂々たる無敵艦隊(アルマダ)が姿を現した。
メアリー・スチュアート処刑後も、エリザベス、フェリペ2世ともに直接対決には消極的であった。そのため、何とかオランダ(当時は北部ネーデルランド)に於ける和平の道を模索したりもしたが、それもままならぬうちに時だけは容赦なく流れ、遂に艦隊は決戦の場へと辿り着いてしまったのである。
この前年、「攻撃は最大の防御である。迎え撃つよりスペイン本土に攻め込むべし」と激しく迫るフランシス・ドレークに根負けし、エリザベスは『暗黙の了解』という形で敵地攻撃の許可を与えた。ドレークらはスペイン南西部のカディスという港町を襲撃し、イングランド侵攻に向けて集結していたスペイン艦船に大打撃を与え、悠々と帰国した。この攻撃で無敵艦隊の出撃は一年遅れたと言われる。
ドレーク襲撃の知らせに驚き憤慨したフェリペ2世であったが、その後はまるで離婚届を処理する役人のように淡々と襲撃模様の仔細に耳を傾け、無敵艦隊改革の号令を発した。少なくともフェリペ2世はドレークの襲撃から2つのことを学んでいた。
地中海の覇権を争って、教皇・スペイン・ヴェネチアの連合軍と
オスマン帝国海軍がギリシャのコリント湾口で激突。
オスマン帝国は戦艦300隻の9割を失い、
3万人近い死者を出して大敗した。
この時の主力艦は両軍ともに大勢でオールを漕ぐガレー船であった。
まず着目したのはドレークらが操っていたガレオン船という新タイプの帆船の快速性だ。この時まで無敵艦隊の主力となっていたのは「ガレー船」という、大勢の奴隷や囚人がオールをヨイセ、ヨイセと漕いで進む太古の時代と同じスタイルのものであった。ガレー船を敵船に激突させて接舷しては兵士が敵船に乗り込み、チャンバラの末に雌雄を決するやり方である。わずか17年前の1571年、オスマン帝国海軍を粉砕して地中海の覇権を奪い返したレパントの海戦でもスペイン軍とオスマン帝国両軍はこの手漕ぎの船とチャンバラで戦った。
ところがドレークらが操るガレオン船は人力の推進力を持たず、巨大な帆布にいっぱいの風を受け、迎撃に漕ぎ出したガレー船の間を高速でスルスルとすり抜けていった。まるで旧式艦隊をあざ笑うかのように。フェリペ2世は、ガレー船が既に時代遅れになっていることを悟った。スペインが縄張りとしてきた地中海は外洋と比較して遥かに穏やかである。ところがイングランド周辺の北方の海は天候も不順で荒れやすく、さらに潮流も激しいことで知られており、ガレー船ではまともに戦えまい。フェリペ2世はガレオン船導入を急がせた。
そしてもう一点。大砲だ。それまでのスペイン海軍の戦い方とは先述の如く白兵戦が主であり、大砲はせいぜい相手の動きを止める程度の役割としか考えられていなかった。ところがドレークの艦隊は船体両舷にズラリと大砲を並べ、それをドッカンドッカンとぶっ放しては停泊中の艦船を粉砕して去っていったのである。
フェリペ2世は領内にあるガレオン船のみならず大型商船をも掻き集め、これに大砲を多数搭載させ、比較的短期間のうちにガレオン船主体の新艦隊整備に成功した。
王位継承問題、オランダの宗教戦争、経済摩擦など、要因は複数あったものの今回のイングランド侵攻、表面上の理由は宗教紛争である。イングランドの正当な王位継承者であるカトリックのメアリー・スチュアートを処刑したエリザベス。邪悪な手段を弄してイングランド王位を簒奪した忌まわしい女、エリザベス。この女を、そして英国国教とかいう邪教を信仰する連中をこらしめ、この世で唯一正しいローマ・カトリックに帰依させる、それがこの遠征の大テーマなのである。
ローマ教皇から正式に『十字軍』として承認された無敵艦隊。兵士や船員たちは万が一、邪教徒の汚れた砲弾を食らった場合に備え、告白と永遠の祝福の儀式を受けていた。艦隊には聖職者、修道士、異端審問官なども多数乗船していた。彼らは乗組員たちの心のケアをするだけでなく、イングランドが降伏した時、哀れな邪教徒たちを改宗させる任務も負っていたのである。
メアリー・スチュアート処刑後も、エリザベス、フェリペ2世ともに直接対決には消極的であった。そのため、何とかオランダ(当時は北部ネーデルランド)に於ける和平の道を模索したりもしたが、それもままならぬうちに時だけは容赦なく流れ、遂に艦隊は決戦の場へと辿り着いてしまったのである。
この前年、「攻撃は最大の防御である。迎え撃つよりスペイン本土に攻め込むべし」と激しく迫るフランシス・ドレークに根負けし、エリザベスは『暗黙の了解』という形で敵地攻撃の許可を与えた。ドレークらはスペイン南西部のカディスという港町を襲撃し、イングランド侵攻に向けて集結していたスペイン艦船に大打撃を与え、悠々と帰国した。この攻撃で無敵艦隊の出撃は一年遅れたと言われる。
ドレーク襲撃の知らせに驚き憤慨したフェリペ2世であったが、その後はまるで離婚届を処理する役人のように淡々と襲撃模様の仔細に耳を傾け、無敵艦隊改革の号令を発した。少なくともフェリペ2世はドレークの襲撃から2つのことを学んでいた。
地中海の覇権を争って、教皇・スペイン・ヴェネチアの連合軍と
オスマン帝国海軍がギリシャのコリント湾口で激突。
オスマン帝国は戦艦300隻の9割を失い、
3万人近い死者を出して大敗した。
この時の主力艦は両軍ともに大勢でオールを漕ぐガレー船であった。
ところがドレークらが操るガレオン船は人力の推進力を持たず、巨大な帆布にいっぱいの風を受け、迎撃に漕ぎ出したガレー船の間を高速でスルスルとすり抜けていった。まるで旧式艦隊をあざ笑うかのように。フェリペ2世は、ガレー船が既に時代遅れになっていることを悟った。スペインが縄張りとしてきた地中海は外洋と比較して遥かに穏やかである。ところがイングランド周辺の北方の海は天候も不順で荒れやすく、さらに潮流も激しいことで知られており、ガレー船ではまともに戦えまい。フェリペ2世はガレオン船導入を急がせた。
そしてもう一点。大砲だ。それまでのスペイン海軍の戦い方とは先述の如く白兵戦が主であり、大砲はせいぜい相手の動きを止める程度の役割としか考えられていなかった。ところがドレークの艦隊は船体両舷にズラリと大砲を並べ、それをドッカンドッカンとぶっ放しては停泊中の艦船を粉砕して去っていったのである。
フェリペ2世は領内にあるガレオン船のみならず大型商船をも掻き集め、これに大砲を多数搭載させ、比較的短期間のうちにガレオン船主体の新艦隊整備に成功した。
王位継承問題、オランダの宗教戦争、経済摩擦など、要因は複数あったものの今回のイングランド侵攻、表面上の理由は宗教紛争である。イングランドの正当な王位継承者であるカトリックのメアリー・スチュアートを処刑したエリザベス。邪悪な手段を弄してイングランド王位を簒奪した忌まわしい女、エリザベス。この女を、そして英国国教とかいう邪教を信仰する連中をこらしめ、この世で唯一正しいローマ・カトリックに帰依させる、それがこの遠征の大テーマなのである。
ローマ教皇から正式に『十字軍』として承認された無敵艦隊。兵士や船員たちは万が一、邪教徒の汚れた砲弾を食らった場合に備え、告白と永遠の祝福の儀式を受けていた。艦隊には聖職者、修道士、異端審問官なども多数乗船していた。彼らは乗組員たちの心のケアをするだけでなく、イングランドが降伏した時、哀れな邪教徒たちを改宗させる任務も負っていたのである。
呪われた艦隊
(1550~1615)
シドニア公(アロンソ・ペレス・デ・グスマン)の
最高司令長官への抜擢には誰もが驚き、
首をかしげた。
その中で最も驚き、
困惑したのがシドニア公本人であった。
シドニア公はこの職から逃れるため、
考えられる限りの手を尽くしたが、
遂に逃がれることはできなかった。
フェリペ2世が指名した新しい最高司令長官はメディナ・シドニア公爵という人物であった。ところがシドニア公には海戦どころか、陸戦の経験もほとんどない。そのため「なぜ私なのでしょうか、私には実戦の経験もない上に船酔いが激しく、とても任務が遂行できるとは思えません。どうか別の方にこの名誉をお授けください」とフェリペ2世に宛てて嘆願書を出し、何とかこの恐ろしい大役から逃れようと試みた。フェリペ2世はこれを黙殺した。
シドニア公が選ばれた理由はたった一つ。彼が大貴族であり社会的地位が圧倒的に高かったからである。スペイン軍には貴族出身の者が多かった。金も土地も持たない名ばかり貴族も多かったが貴族は貴族、士官のほとんどが貴族であった。世はまだ封建の時代である。貴族たちの上に立つ者は絶対的に地位の高い貴族でなければならなかった。
一頭のオオカミに率いられた100頭のヒツジの群れは、一頭のヒツジに率いられた百頭のオオカミの群れに勝る―後にそう言って自画自賛するのはナポレオンだ。
戦争などしたこともなく船酔いまでするお人よしのヒツジが、世界最強と恐れられたオオカミたちを率いていく。オオカミたちもたまったものではなかった。
実はフェリペ2世にとって最高司令長官などある意味誰でも良かった。というのも戦争の作戦司令室は常にフェリペ2世の頭の中に存在するのであり、無敵艦隊は彼が立案した戦争のシナリオを忠実に実行するだけで良かったのである。
フェリペ2世の描いたシナリオ
フェリペ2世の頭の中にあった作戦とはこうだ。わが艦隊は英海峡に入ってのち常に風上の位置を維持し偏西風を受けて東進。敵は距離をおいて大砲を打ち込んで来るであろうが極力雑魚には関わらず、パルマ公が待つダンケルクへ直進。そこでパルマ公率いる3万の精鋭部隊と合流し、イングランド東岸のマーゲート付近に上陸。一気にロンドンまで攻めあげこれを陥落する。
見事な『絵に描いた餅』であった。
このシナリオ通りに事が運べば、なるほど無敵艦隊が運んでいる兵士約1万8000に、パルマ公の精鋭部隊3万(実際は戦死や病死のため1万8000程度に減っていた)が加わり、5万に近い大軍勢がイングランドに上陸することになる。ろくに王室正規軍も持たず慌てて市民を徴兵して作り上げた即席イングランド軍など、まさに赤子の手をひねるがごとし、の作戦であった。
しかし、フェリペ2世の台本には大きな欠陥が少なくとも3つあった。1つはイングランドの艦隊が決して雑魚程度ではなかったこと。2つ目はオランダの反乱軍と交戦中のパルマ公部隊が、上陸作戦に参加できないという不測の事態が発生することへの想像力の欠如。そして3点目に、このプランAに狂いが生じた場合の代替案、すなわちプランBが全く用意されていなかったことだった。
(1536~1624)
エリザベス1世のいとこ。
ハワード卿は海軍最高職の座にありながら、
身分の低い船員にすらへりくだった態度をとり、
戦後政府から船員たちに
十分な給料が出ないことを知るとそれを嘆き、
自分の財産を切り崩してまで給料を支払ったと言われる。
当初の作戦は、コーンウォール沖から英海峡に侵入してくる敵艦隊を海峡の中間地点あたりで迎撃。これと騎馬戦のように対峙し、敵よりも長い射程距離を持つイングランド軍の大砲で攻撃しこれを逐次粉砕していく、ということでほぼ一致していた。
これにたった一人、猛然と異論を唱えた者がいた。艦隊副長官に任命されていたドレークである。彼は、それでは偏西風を後ろから受ける敵艦隊が常に風上に立ち、我が軍は猛スピードで東進してくる敵に対し、正面から風を受けながらこれを阻止し続けなければならない。やがて押されてジリジリと後退を余儀なくされるは必至。そうこうしているうちにポーツマスやワイト島あたりに好き放題に上陸されてしまうだろうという、実に現実的なものであった。
ドレークの考えはむしろ逆であった。
ジョン・ホーキンズの指揮のもとに改良が施された我が軍の艦船の方が、敵艦よりも高速である。従ってわが軍は英海峡に入ってきた敵艦隊の背後にまわり込み、常に風上のポジションを確保、東進する敵艦隊に後方からカウンター攻撃を仕掛けるのがよかろうというものであった。そのため艦隊の一部をプリマス港に派遣するよう直訴する。
イングランド軍最高司令長官はチャールズ・ハワード・エッフィンガム卿。高貴な身分で統率力にも優れ、それでいて偉ぶったところがなく、一兵卒の健康にまで気を使う人格者として知られていた。合理的なハワード卿はドレークに絶対的な信頼を寄せていた。その申し出を了解するのみならず艦隊の約半分をドーバー海峡守備隊として残し自らもプリマスに入港、ドレークとともに敵艦隊を待つことにしたのである。
敵艦、見ゆ
(1565~1620)
幕府から所領を与えられ、名字帯刀を
許されて旗本となった初めての西洋人。
三浦按針(名字は所領を与えられた三浦半島から。
按針は航海士の意)を名乗ったアダムズだが、
家康の死後は冷遇された。
晩年はオランダやイングランドの商館があった
長崎県平戸に居を移し、
帰国することなく平戸で人生の幕を閉じた。
アダムズの墓はその後キリスト教弾圧時に
破壊されたが1954年、
平戸市内の高台にある公園内に建て直された。
迎え撃つイングランド軍は大小、さまざまな寄せ集めの武装船163隻。兵士約1500、船員約1万4400の総勢約1万6000と、無敵艦隊の約半分の人員であった。
イングランド側はカルバリン砲という中玉砲を多く搭載していた。砲弾はメロン程度の大きさで、破壊力ではキャノン砲に劣るが、有効射程距離は350メートル程度と有利であった。
イングランド側はこの戦いを砲戦と位置づけていたが、中世騎士の気風が残るこの当時のスペイン兵たちは白兵戦こそが武人の誉れであり、大砲などという飛び道具は邪道であるとこれを軽んじていた。ただし大砲を重視していたフェリペ2世の命により、搭載してきた砲弾の数は12万発強と少なくはなかった。それに引き換えイングランド側が用意したのはその約半分、それも補充はいつも小出しであった。理由は簡単だ。エリザベスが戦費を惜しんだためである。砲弾だけでなくイングランドの庭先での戦争にも関わらず、食料も慢性的に不足していた。エリザベスは、即位以来『倹約家』として知られたが、国家存亡を賭けた戦いの中において砲弾や兵士の食料すらも惜しむのは倹約家の域を超えた『超ド級のケチ』であり、この性癖は後にも遂に変わることはなかった。
この限られた砲弾と食料を沿岸からせっせと艦隊に運ぶ輸送船団の中に24歳という一人の若い船長がいた。彼はこの戦争が終わってちょうど10年の後、一獲千金を目指してオランダ船に乗り込み、関ヶ原合戦の半年前という緊迫した日本の、現大分県臼杵の海岸に漂着する。カトリック教宣教師たちとは全く異なる世界観を持つこの男に興味を持った徳川家康はこの男を寵愛し、外交顧問に抜擢。帰郷を望む男に対し家康は三浦半島に所領まで与え旗本の一人として厚遇した。男の名をウィリアム・アダムズという。日本名、三浦按針。1620年、故国に思いを馳せながら平戸にて56年の生涯を閉じることになるのだが、もちろん自分がそのような数奇な人生を歩むことになるなど、この時は露ほども知らない。
半月型のフォーメーションを組んで侵略。
イングランド側にしてみると
攻略しづらい陣形だったが、
一旦戦闘が始まると、
艦と艦の間が狭いため、
スペイン側は味方同士の衝突が頻発した。
そして無敵艦隊がリザード岬沖にその姿を現した日の2日後、ついに本格的な戦闘が始まった。
まずはプリマス沖で、そしてその翌日にはポートランド沖でドレークらは後方からカウンター攻撃を仕掛け、双方距離を置いての激しい砲撃戦が展開された。しかしどちらも砲弾は容易に当たらない。被害はいずれも最小限で、無敵艦隊はほぼ陣形を変えずに東進を続けていた。
ドーセットを超えたあたりで、左前方にワイト島が見えてくる。シドニア公はオランダのパルマ公に「軍勢の準備、よろしきや?」との伝令を送り続けていたが、「港を反乱軍に包囲されており、困難」との回答が届くだけであった。
ここに来てフェリペ2世の描いたシナリオは、彼が描かなかった部分のシナリオによって乱され始めた。スペイン軍の上陸作戦の詳細はおおむねイングランド側に分析されていた。フェリペ2世は当然パルマ公部隊が乗船時に敵から妨害を受ける、と想定して手を打っておくべきであった。フェリペ2世はこれを怠った。
無敵艦隊とはパルマ公部隊の護送船団であって彼らの準備が整っていないとなると艦隊は無防備な洋上で敵の攻撃にさらされながら、部隊の準備が整うのをひたすら待ち続けねばならない。そのためシドニア公は、ワイト島上陸を模索し始めた。というのもワイト島を過ぎてしまうとそこから東の海岸は浅瀬が続き、大艦隊を収容できるだけの水深を持つ港がなくなってしまうのである。
無敵艦隊はワイト島に向けて舵を切った。しかしそれはイングランド軍にとっては想定内の行動であり、ドレークらは身体を張って無敵艦隊の前面に展開し、激しい砲撃戦の末、これを阻止した。
こうしてワイト島に上陸してパルマ公部隊の準備を待つというオプションは消えた。
結局、無敵艦隊は7月28日、フランス領カレーの沖合いに投錨。イングランド軍から丸見えの危険な海域でパルマ公からの朗報を待つこととなった。
翌日、カレー沖に追い込んだ敵を粉砕すべく、砲弾を満載した無傷のドーバー海峡守備隊がドレークらに合流してきた。
シドニア公らは当時定番となっていた火船攻撃を警戒し、艦隊の外側を囲むように小型船やボートを配置していた。そして夜陰、予想通りドレークらの放った火船が艦隊目がけてまっしぐらに突進してきた。
スペイン軍はパニック状態となり、
錨を繋いだロープをぶった切って逃走した。
のちに1ヵ月も続く『呪われた航海』では、
錨を失ったことで航海がより困難なものとなる。
夜が明けて、目の前に広がる光景にドレークらは思わず息を呑んだ。前日まで堂々たる威容を誇っていた敵艦隊が惨憺たる姿となってバラバラに浮かんで、あるいは座礁しているのである。ドレークらの期待を遥かに超えた成果が、闇の中で勝手に挙がっていた。
ついに無敵艦隊が誇る三日月形の陣形は崩れ去った。
この日、西からの風が一層強い。
イングランド軍は徹底的に風上側を維持し、大規模な砲撃を加えながらスペイン艦船を東に押しやる作業に没頭した。もちろんスペイン側もこのままではフランドル地方の浅瀬で座礁する危険性に気づいている。そのため、逆風の中必死に抵抗し、反撃を試みていた。これが無敵艦隊とイングランド軍の、事実上最後で最大の局地戦となるグラヴリーヌの戦いである。
これまで、単縦陣の艦隊運動を守ってきたイングランド軍であったが、
最後は両軍入り乱れての大混戦となった。
やがて激しい砲撃戦の中で、ドレークたちはあることに気がついた。無敵艦隊からの砲撃が散発的となってきたのである。ドレークは結論を導き出し、確信した。
「敵の砲弾は尽きつつある…」
ドレークは躊躇せず敵艦の懐奥深くへと突っ込んでいく。それを見た他の艦もドレークに続いた。もはや敵兵の表情まで読み取れるほどの接近戦となり、火縄銃による銃撃戦も始まった。大砲はぶっ放せば面白いように命中する。弾切れとなったスペイン側にとってこれはもはや集団リンチであった。
西風にフランドルの海岸線まで押され、座礁するスペイン艦も多かった。そこもまた地獄であった。駆けつけたオランダ兵は降伏したスペイン人を捕らえ、その場で喉を掻き切り死体を海岸線に打ち棄てた。戦場は、もはや殺戮の場と化していた。
「もう何もかもおしまいだ」
シドニア公はつぶやいた。最高司令長官が部下に聞こえるように吐いてよい台詞ではなかった。しかし目の前で繰り広げられている現実は、艦隊の壊滅と自らの死を覚悟するのに十分な状況に過ぎる。
ところがここで海の神がこの『呪われた』艦隊に、たった一度だけ微笑んだ。突然、風向きが変わったのである。
この風を利用して無敵艦隊が取りうる道は2つあった。
一つはこのまま東からの風に乗って敵を押し返し、パルマ公部隊の到着を期待する。もう一つは、このまま戦場を離脱し、スペインに帰るというものであった。シドニア公は決断した。
「故郷に、帰ろう…」

英海峡における、スペイン無敵艦隊の進路
無敵艦隊壊滅

スペイン無敵艦隊の航路
送りオオカミ達の追撃から辛くも逃れた無敵艦隊であったが彼らが進むその先には、ドレークたちよりも恐ろしい悪魔が艦隊を丸ごと飲み込もうとその巨大な口を開けて待ち構えていた。わずかに残っていた水も食料もほとんどが腐敗し、船内には食中毒やチフス、赤痢、壊血病が蔓延、それに飢餓が加わり船員たちはバタバタと倒れた。
さらに艦隊は嵐に翻弄され、スコットランド沿岸やアイルランド西海岸の岩礁などに激突して沈没する船が続出した。多くの陸兵が溺死。辛うじて海岸に辿り着いた者も警戒中のイングランド兵に捕らえられ、ほとんどがその場で縛り首となった。世界最強と恐れられた陸兵たちの多くは敵と一度も剣を交えることなく病死や溺死、あわよくば縛り首、といった悲惨な最期を遂げざるを得なかった。
数字に関しては諸説あるが、グラヴリーヌの戦いにおけるスペイン側の戦死者は約600、重傷者は800前後、沈没した艦船はわずかに2隻でその他、座礁あるいは行方不明となったものが十数隻と壊滅と呼ぶにはほど遠い状況であった。無敵艦隊が真の意味で壊滅するのはこの戦いの後、およそ1ヵ月に及ぶ『呪われた航海』によるものである。残りの艦船の多くはスコットランドかアイルランド沿岸で沈没、座礁あるいは行方不明となり、この航海だけをとっても8000人前後が命を落としたと言われる。
最終的にスペインまで逃げ帰ることができたのは、出発時の約半分に相当する67隻とする資料が多い。やっとの思いで祖国に逃げ帰った後も力尽きて命を落とす者が続出。この年の終わりまで生き伸びた者は1万人程度と、出発時の3分の1にまで減っていた。生還者の中には精も根も尽き果ててボロ雑巾のようになったシドニア公もいた。彼は同国人の軽蔑を一身に浴びながら故郷セビリヤへと帰っていった。たった一人、シドニア公を咎めるどころか、公の健康をその後も気遣い続けた人物がいた。フェリペ2世である。彼はこの敗北を驚くほど冷静に受け止め、責任を負う覚悟をし、生存者たちにできる限りの救いの手を差し伸べたと言われる。
一方のイングランド。無敵艦隊敗走後も警戒を解かず、しばらく洋上に留まったため、赤痢やチフス、そして飢餓から命を落とす兵を多数出すことになった。ただ少なくともこの戦闘においての戦死者は100人に満たず、重傷者400程度、喪失艦船は火船攻撃で犠牲とした8隻のみであった。一体、無敵艦隊がぶっ放し続けた約12万発の砲弾はどこへ消えたのであろうか。
こうして無敵艦隊は自滅した。戦場の指導者たちはフェリペ2世の作戦に縛られ続け、過去の栄光に浸る余り、すでに海戦のスタイルが様変わりしていることを受け入れられず、イングランド上陸作戦最大の要となるパルマ公部隊合流作戦の危うさに何の危惧も抱いていなかったなど、艦隊壊滅の要因は少なくない。ただ、これら大失策の責任は、自身も感じていたようにフェリペ2世が負うべきものであった。全てを現場監督たちに丸投げしたエリザベスが偉大であったかどうかの評価は避けるが、フェリペ二世は『机上の大将』でありながら戦争行為に口を挟みすぎた。無敵艦隊というオオカミの群れを率いていたのは実はシドニア公ではなく、宮殿の執務室にいるフェリペ2世というヒツジだったのである。
太陽没して、現れた者
確かに、この戦争においてスペインはイングランドに大敗を喫した。しかし、喪失した艦船や兵士の数から言えば、スペインという大国をそのまま衰退に追いやるほど大きな損失ではない。事実、英西戦争はこの後もしばらく続くこととなる。次に仕掛けたのはイングランド軍であった。無敵艦隊壊滅の翌年、ドレークは140隻からなる大艦隊を率いてリスボンを目指した。ところが期待していたポルトガルの義勇軍が決起せず、約2ヵ月の遠征でほとんど戦果を得ることなく帰還した。それどころか、まるで前年のワンサイドゲームの代償を払うかのように、イングランド軍は1万の兵の約半分を病気や飢餓という下らない理由で失った。
時の大蔵卿ウィリアム・セシルが約5000人分の給与の支払いがなくなったと喜び、顰蹙を買った。イングランドも極度の財政難に陥っていたのである。
(1533~1603)
通称「アルマダ・ポートレート」と呼ばれる、
無敵艦隊に対する勝利を記念して制作された肖像画。
背景には無敵艦隊が描かれている。
エリザベスの右手は地球儀の上に置かれ、
いずれ世界をその手中に収めるという決意が表されている。
各地で同時多発的に起こった宗教紛争への介入にことごとく失敗したスペインの財政は危機的状況にあった。広大な土地を持つものの、新大陸の銀山程度しか頼れる収入がなくいつしか『太陽の没することのない帝国』は大借金帝国へと、転落の道を歩んでいく。
1598年、数々の戦争を宮殿の執務室で指揮し続けたフェリペ2世死去。その5年後、宿敵エリザベスもまたこの世を去る。
エリザベスからイングランド王位を継承したのは皮肉にもメアリー・スチュアートの一粒種ジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)であった。理想主義者であり平和主義者でもあった「友愛」の人、ジェームズはフェリペ3世と和平を結び、英西戦争はスペインとイングランド、両国を財政的に疲弊させただけで終結した。
この隙をついて台頭して来るのがオランダだ。オランダは東インド会社を中心に海外で勢力を拡大し、以降約五十年に渡り海洋王国として君臨する。イングランドの東インド会社がインドに拠点を移して綿花と出会い、産業革命を経てやがて七つの海を制する大英帝国に成り上がっていくにはまだこの先、200年も待たなくてはならないのである。(了)
【参考文献】
マイケル・ルイス著『アルマダの戦い』新評論
青木道彦著『エリザベス1世』講談社現代新書
杉浦昭典著『海賊キャプテン・ドレーク』講談社学術文庫
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』原書房
永積昭著『オランダ東インド会社』講談社学術文庫
浅田實著『東インド会社』講談社現代新書
ジャイルズ・ミルトン著『さむらいウィリアム』原書房
白石一郎著『航海者』文春文庫 他