事業失敗と破産宣告

 


1864年、ジュネーブ条約調印の様子。提案者であるにもかかわらず、デュナンはこの会議に出席しなかった。

  1864年、ジュネーブで再び国際会議が開かれ、念願のジュネーブ条約が調印されるが、この会場にデュナンの姿はなかった。この頃までにモアニエはデュナンを完全に見切っており、すでに委員会からの閉め出しが始まっていたようである。
また、デュナン自身も大きな問題に直面していた。後回しにしていたアルジェリアの事業経営危機が、いよいよ深刻な状況に陥っていたのである。赤十字の活動と並行して何度かアルジェリアへ足を運び、事態の収拾に努めようと奔走していた。しかしながら不幸は重なるもので、なんと事業に投資していたジュネーブ信託銀行が倒産してしまう。これが決定的な打撃となり、製粉会社を立て直せる見込みは完全に絶たれた。株主らから契約不履行で訴えられたデュナンは1867年5月、ついに破産宣告を受けた。
このニュースはジュネーブの新聞で大々的に取り上げられ、ひと騒動を巻き起こした。後に自身も「人のためによかれと思って誘ったことが、自分の無能と不明のために、かくも大きな損害を与えてしまった」と悔恨の念を口にしているが、デュナンを信じて大金を融資し、それを踏み倒された人々の怒りはそう容易に収まるはずもない。
さらに、ここぞとばかりにモアニエがデュナンを委員会から追放する動きに出る。友人だと思っていた仲間もデュナンのもとを去り、事態を収拾する手立ては何もなく、同年8月、デュナンは失意のままに委員会を辞するはめになったのである。体面や社会的信用を失ったデュナンの居場所は、もはやどこにもない。ひっそりと故郷のジュネーブを去るしかなかった。

 

 デュナンとともに赤十字を創設した
5人委員会のメンバー

アンリ・デュフール(1787~1875年)

ジュネーブで医学、パリで画法幾何学を学んだ後、士官学校を経て戦線へ。帰還後は、都市計画や地図製作などの事業に携わり、1838年にスイス連邦地理院総裁に就任。47年に勃発したスイスの内戦、分離同盟戦争では将軍として軍を率い、勝利を収める。また、ジュネーブ州代表としてスイス下院・上院議員も務めた。1863年、赤十字委員会の初代委員長に就任。

 

ギュスターヴ・モアニエ(1826~1910年)

 ジュネーブの裕福な家庭に生まれる。パリで法律を学び、法律家となる。1859年、ジュネーブ公益協会会長に就任。熱心なカルヴァン主義の信奉者で、約40もの奉仕団体や、刑務所収容者および孤児への待遇改善を目指す団体などで活動を行った。赤十字国際委員会の創設時は副会長に就任するが、翌年に会長となり、以来、1910年に他界するまでその役目を果たす。会長在任期間は歴代最長。

 

テオドル・モノアール(1806~69年)

ジュネーブ生まれの医学博士。英国およびフランスで医学を学ぶ。帰国後はジュネーブ公共衛生委員会のメンバーとなり、ジュネーブ病院の外科部長を務めた。 聡明でユーモアのセンスに富んだ人物と評され、フランスの政治家タレーランをして「外交官の才あり」とのお墨付きをもらうが、医学界に留まった。

 

ルイ・アッピア(1818~98年)

ドイツ・フランクフルト生まれの医学博士。1848年のフランス2月革命、ドイツ3月革命で負傷者の手当に携わって以来、傷病兵への治療の改善に関心を抱き、奉仕活動に熱意を注ぐ。 赤十字発足後も医師として積極的に戦地に赴き、担架を改善したことでも有名。赤十字委員会で、「戦地における救護者は兵士と区別するために白い腕章を着けるべき」と最初に提案した(後にデュフールが赤十字のマークを提唱)。