『ソルフェリーノの思い出』自費出版
3年かけて執筆した著作「ソルフェリーノの思い出」。
ソルフェリーノの戦いがもたらした壮絶な光景の記憶を心の中からぬぐい去ることができないままジュネーブに戻ったデュナンは、各界の要人たちに会い、戦場の悲惨さと救護の必要性を訴えた。デュナンの頭の中に、新たに取りかからねばならない仕事が、明確なビジョンとともに次々と浮かび上がってくる。しかし、アルジェリアでの事業の経営立て直しはどうするべきか…。理想と現実との相克に頭を悩ませながらも、デュナンはまず戦地の惨状とそこでの救助活動の経験を文章に綴ることにした。自分の目で見たものを世の中に広く訴えなければ、という焦燥にも似た思いでいっぱいだったのだろう。
3年もの年月をかけてようやく上梓したその本は、『ソルフェリーノの思い出』と題して自費出版された。同書は、それまで戦場の実態など知る手立てもなかった人々に強い衝撃を与え、その反響はヨーロッパ中に伝播。特に「戦時負傷者に対しては敵味方の区別なく救護すること」「それを実行するための団体を平時より各国に組織すること」「これらを実現するための国際的な共同規約を定めること」という提案は多くの人々に支持され、後にジュネーブ条約という形で結実した。
また、習慣や言語が異なる敵の陣地で、抵抗もできず捕らわれの身となっている捕虜に対して、デュナンは深い同情を寄せている。戦場で見たフランス軍の捕虜に対する好意的かつ紳士的な態度を讃えたうえで、生涯にわたって捕虜に関する国際条約の制定を訴え続けた(1929年のジュネーブ条約改訂時に「俘虜の待遇に関する条約」として最初の制定に至る)。ここにも、幼い頃から培われてきたデュナンの人権尊重の精神が垣間見られよう。
ナイチンゲールからの意外な反応
『ソルフェリーノの思い出』を讃えた著名人には、英国の作家チャールズ・ディケンズや、フランスの作家ヴィクトル・ユーゴーなどがいた。しかし一方で、デュナン自身がその活動を高く評価し、尊敬していたナイチンゲールからは、「そういった国際的な団体は、各国政府が設立すべきものであり、政府に自国の兵士を救う義務を果たさせるべきである」という意外な反応が返ってくる。あくまでも従軍看護師として、クリミア戦争で英軍兵士のみの看護にあたったナイチンゲールは、奉仕による援助活動は長続きしないという考えを持っていたようだ。つまり、こういった活動は経済的支援がない限りは成り立たない、という現実的思考の持ち主だったのである。プロの看護師として戦地の混乱を乗り切った、彼女ならではの意見だったともいえるだろう。
とはいえ後年、ナイチンゲールは、身を削るようにして根気よく続けていたデュナンの献身的な活動に賛辞を送り、やがては英国赤十字社の発展に協力している。
赤十字国際委員会の創設と確執
1863年2月17日、デュナン、法律家ギュスターヴ・モアニエ、アンリ・デュフール将軍、ルイ・アッピア医博、テオドア・モノアール医博の5人の同志がジュネーブに集まり、「5人委員会」(正式名称は国際負傷軍人救護常置委員会)なる組織が結成された。目的はもちろん、デュナンが唱えた国際的な救護団体の設立と条約の制定である。
4回にわたる5人委員会の召集を経た後、同年10月、ジュネーブでヨーロッパ16ヵ国の代表による国際会議が開催される。4日間にわたる議論の末、10ヵ条の赤十字規約に関する決議が採択され、晴れて国際赤十字という組織が誕生した。
実のところ5人委員会の設立以来、このプロジェクトの指揮を執っていたのは、法律家でもあり政治的手腕に長けていたモアニエだった。『ソルフェリーノの思い出』を読んで感銘を受け、自らデュナンに面会を求めたのがモアニエとデュナンの最初の出会いだったが、これだけ多くの人々の心を動かす大提案をしたデュナンが、その実現に向けて実は具体的な構想を持ち合わせていなかったことに驚いたという。
31歳でジュネーブ公益福祉協会会長に就任するほどの実力者であったモアニエは、堅実に仕事をこなす、聡明かつ抜け目のない人物。一方、デュナンは情熱あふれる理想家タイプ。彼は委員会内でもひらめきで行動して時に独走するようなところもあったようで、2人の間に確執が生じるようになるまで、あまり時間はかからなかった。


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