アルジェリアでの事業危機と皇帝への直訴

 


ナポレオンの甥、ナポレオン3世。伯父に憧れ、積極的に植民地政策などを行った。   1853年、YMCA世界大会の開催へ向けて精力的に動く中、25歳のデュナンは勤務先の銀行からアルジェリアへの出張を命じられる。  当時のアルジェリアは、ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)率いるフランス軍の支配下にあった。また同時にヨーロッパ各国からの植民活動も盛んに行われており、現地に住む多くのアラブ人やベルベル人らは迫害を受けていた。ヨーロッパとは全く異なるアフリカ大陸という地に初めて足を踏み入れ、その不平等さに衝撃を受けたデュナンは、再び大いなる熱意が湧き上がるのを感じた。  「アルジェリアの人々の生活と文化を尊重し、自らアラビア語を学んで、現地の人々を助けたい!」  新たな目標はまもなくして「彼らとともに農場を開拓し、製粉会社をつくろう」という一大構想へと発展。すでに銀行の仕事よりもキリスト教活動に重きを置き始めていたデュナンに、迷いはなかったと思われる。「思い込んだらまっしぐら」の彼を止められる人など誰もおらず、銀行もきっぱりと退職してしまう。  早速、デュナンは製粉会社設立に向けて始動する。まず19エーカー(約8ヘクタール)の土地を自費で購入。第1回YMCA世界大会が成功を収めると、一旦ジュネーブに戻り、会社設立のための融資を募って寝る間も惜しんで奔走したという。何とか資金を調達し、1858年、ついに念願の製粉会社をスタートさせた。  しかし、事業は思うように軌道に乗らなかった。デュナンはこの危機から脱するために、思い切って事業拡張に踏み切るが、逆に借金を重ねる結果となってしまう。何より水が不足しており、現地で水を自由に引ける権利が手に入らないことには、どうにもならない。追いつめられたデュナンは一念発起する。  「こうなったら、フランス皇帝に直接掛け合うしかない」  デュナンは水源利用の権利を嘆願する直訴状を作成して、ナポレオン3世のもとへと向かったのである。これが人生最大の転機になろうとは、この時、知る由もなかった。

 

実は1つではなかった!?
戦地での中立を示す赤十字の標章

  赤十字の標章といえば、文字通り、白地に赤の十字を思い起こす人が多いのではないだろうか。しかし、実際にはいくつかの種類の標章が存在する。
白地に赤の十字の標章(Red Cross)は、1863年の赤十字国際委員会で定められたもので、デュナンらが結成した5人委員会の祖国であるスイスの国旗の配色を逆にしたもの。ところが、この標章はキリスト教の十字架、十字軍を連想させるとして後にイスラム諸国からの反発を受けたため、同諸国の標章は白地に赤い新月とし、「赤新月社Red Crescent」という名称が与えられた。さらに2005年には、宗教的にどちらにも属さない国のために、白地に赤の菱形を象った第3の標章「赤水晶社Red Crystal」が誕生した。この標章では、中央の白地部分に独自のマークを入れてもよいとされている。
赤十字の旗にまつわる、こんなエピソードがある。

1888年に福島県の磐梯山噴火にともなう赤十字の救護活動を取材した青森県出身の新聞記者、三上剛
▲ロシアのアムール・コサック兵たち。
(1869~1964年)は、その後、家業の医業を継ぐため医師に転身し、軍医として日露戦争に従軍、満州に赴いた。極寒の黒溝台で仮包帯所を設営し、負傷兵の救護にあたっていたところ、ロシアのコサック兵に包囲されるという危機に瀕する。ジュネーブ条約が脳裏に浮かんだ三上は、咄嗟に三角巾2枚と赤い毛布を切り裂いて縫い合わせ、手製の赤十字旗を完成させてこれを高々と掲げた。するとロシア兵たちは、攻撃を止めて去っていったという。この激戦の中、三上はロシア兵1名を含む七十余名の命を救った。
この手製の旗は、「世界の宝」と呼ばれ、赤十字国際博覧会でも紹介されている。