人道思想が芽生えた少年時代

 

デュナンの父ジャン・ジャック(上)と母アンヌ・アントワネット(右)。   美しいレマン湖の南端に沿うようにして広がり、遠方にジュラ山脈などの山地を望む風光明媚なスイスの都市、ジュネーブ。
デュナンは1828年5月8日、地元では名の知れた旧家に生まれた。同共和国代議員だった父ジャン・ジャックは孤児収容所の所長も務めており、母アンヌ・アントワネットは名門コラドン家の出身。コラドン家の先祖は、16世紀にジュネーブで活動した宗教改革の指導者ジャン・カルヴァンに率いられた新教徒であり、その血を継いだアンヌもカルヴァン派の敬虔なクリスチャンだった。日々、慈善活動に勤しみ、幼いデュナンを連れて貧民街を訪問したり、孤児を自宅に招いたりしていた母の影響力は多大だったようで、この頃の体験がデュナンの価値観を築いたともいえるだろう。
なかでも彼の心を大きく揺さぶったのが、母とともに叔父が暮らす南フランスを訪れた際に、慰安で立ち寄った監獄で目にした光景だ。苦難の表情を浮かべながら、足を鎖で繋がれた囚人たちが、石切り場で重労働を課されていた。切り出された重石を運ぶ歩みが少しでも遅れると、獄吏の怒声とムチが飛んでくる。
「なぜ人間が、こんなにも虐げられなくてはならないのか?」
弱冠9歳のデュナンに、「人間はいかなる時でも人間らしく扱われるべきである」という人権尊重の精神が芽生えた瞬間であった。

 

 

青年期のキリスト教活動


1838年、デュナンはジュネーブの名門校、カルヴァン学校に入学する。しかし学業成績は思わしくなく、宗教の科目でやや好成績を残した以外は、どれもパッとしなかったという。特にラテン語などは何度履修し直しても『不可』となるような有様で、勉学に楽しみを見出せなかったデュナンは、結局5年課程のところを3年で退学。家庭教師による補習授業などで学業と教養を身につけ、やがて慈善団体のメンバーの一人として、貧しい人々や身寄りのない老人などのために働くようになった。
1849年、21歳になったデュナンは、2年前より始めていたポール・ルラン・エ・ソテ銀行での見習い期間を終了し、正社員となった。当時のジュネーブにおいて、銀行への就職は典型的なエリートコースでもある。デュナンは銀行員として熱心に仕事をこなす傍ら、キリスト教活動にもますます尽力。西ヨーロッパ諸国の若い福音運動家たちとも交流を図るようになっていった。
当時、ロンドンではジョージ・ウィリアムズを筆頭とする12人のキリスト教青年によって、奉仕組織「YMCA」(キリスト教青年会)が創設されていた。青年キリスト教徒たちの合同集会などを開催していたデュナンは、このYMCAを「各国のキリスト教団体が連携を図れるような国際的な組織にしよう」と提唱する。その実現のためにYMCAの活動家とともにヨーロッパ各国をまわり、また米国とも連絡を取り合って「世界同盟」づくりの働きかけを行うなど、骨身を惜しまず自ら現場に足を運んだ。
1855年に第1回YMCA世界大会の開催をパリで実現させるまで、デュナンはこの世界的運動の要となって活動し、見事な手腕を発揮して国際提携に多大な貢献をしたが、彼がその後、YMCAの表舞台に立つことは二度となかった。第1回大会を成功させたことで満足し、興味の対象が他に移ってしまったのか? あるいは、提唱から開催までわずか2年程で急進的に成し遂げたゆえに、組織内で何かいざこざが起きたのか?――その理由はわかっていない。