致命的な決断
アムンセンたちが早々に勝利を収め、帰り支度を始めているころ、スコットたちはまだ氷河の中間地点を登っている最中であった。アムンセンたちが42匹の犬たちに曳かせてサッサと登った急峻な氷河を、12人の男たちが4人一組となって3台のソリを曳いている。食料や燃料などが大量に積まれたソリの重量はそれぞれ240キロほどもあった。大変な重労働である。
12月22日、遂に一行は大氷河を登りきった。ここに新たなデポを築いた後、登攀に必要だった4人がその役目を終え、基地に帰還した。残りは8名。
25日、8名はささやかなクリスマスを祝い、12月31日、87度デポを設置した。極点まで300キロ。
年が明けて1912年1月4日。
本隊が基地を出発してから既に2ヵ月が経過している。急がねばならない。南極の夏は決して長くないのである。
スコットはここで大きな決断を下さねばならなかった。残った8人の隊員の中から、スコットと共に南極点まで行く3人を選ぶのである。選ばれなかった4人はここで回れ右をして悔しさを手土産に基地に戻らなくてはならない。誰もが極点に行きたい。スコットにもそれは痛いほど分かっていた。誰にとっても酷な瞬間が迫っていた。
そしてスコットは遂に決断を下す。
しかしその決断とは、実に不可解極まるものであった。その決断がなぜ、そしてどういう経緯から下されたのか、100年を経た今も、濃い霧に包まれたままである。そしてその不可解な決断が、これから選ばれる隊員全員を壮絶な遭難死へと導いて行く。極地隊全滅に向けて絶望のカウントダウンが始まった。
後編に続く。

1911年12月14日、南極点に到達したアムンセン一行。
終わってみれば、レースはアムンセンらの一方的勝利であった。
勝利の女神はただひたすら、彼らにだけ微笑み続けた。

極点でくつろぐノルウェー隊員とエスキモー犬たち。
|
南極(Antarctic)とは
|
|
 南極の夜空を縦横無尽に駆け回る「オーロラ」。神出鬼没な「自然の芸術」は、神秘的で見るものを一瞬で魅了する(写真提供:産経新聞) 地軸の南端である南緯90度の南極点を有する、面積約1400万平方キロの大陸とそれに隣接する諸島をいう。大陸としては2番目に小さいながらも、最小のオーストラリア大陸のほぼ倍。かつてはアフリカ、オーストラリア、南米の大陸らと一塊のゴンドワナ大陸を形成していたと言われる。露出している大陸部はわずか1%程度で、99%は分厚い氷河に覆われている。大陸の平均標高は2200メートルと、他の大陸中群を抜いて高く、最も高い山脈は標高4000メートルを優に超える。大陸を覆う氷の厚みは平均2000メートルと、めまいがするほどに分厚い。南極は地球上で最も気温が低い地域であり、ロシアの南極基地では過去に零下90℃を記録した。真夏でも氷点を上回ることはなく、内陸部の平均気温は夏で零下30℃程度、冬季には零下70℃程という。 英国、ノルウェー、豪州など、各国が領土権を主張しているが、南極大陸はどこの国にも属さない。オーストラリアやアフリカ大陸と地続きだったことからも、地下資源が豊富とされているが、生態系保護のため、採掘は禁止されている。 アムンセンとスコットの大レースから100年。現在では日本を含む世界各国が南極大陸に基地を設け、夏季には4000~5000人が様々な観測を行っている。
|
|
レースには第3の男がいた 白瀬矗のお話
|
|
 アザラシの毛皮でできた極地探検服に身をくるんだ白瀬中尉。 スコット、アムンセンと時を全く同じくして南極点一番乗りを目指していた人間がもう1人いた。秋田県出身の陸軍中尉、白瀬矗(ノブ) である。白瀬は幼少期に北極探検に命を賭ける男たちの話を聞かされ、いつか自分も探検家となって北極点を目指したいと夢描くようになる。やがて陸軍に入隊した白瀬は千島探検隊に参加、着々と北極行きの準備を進めた。1909年、ピアリーの北極点踏破のニュースに触れ、北極点行きを断念。目標を南極点に変更した。ここまでの動機はアムンセンと奇妙なくらいに一致している。しかし、日本の政府は探検事業に全く無理解で、白瀬の資金集めは難航する。結局、新聞社などが中心となって義援金が集められ、1910年暮れ、中古のエンジンを取り付けたわずか204トンの木造漁船を購入、「開南丸」と名づけ、樺太犬29頭を積んで日本を発った。 南極圏到達時には1911年の冬が始まろうとしており、上陸を断念。オーストラリアのシドニーに引き返し、ここで越冬した。 同年11月末に再びチャレンジし、遂に翌1912年1月16日、南極大陸上陸を果たした。ただこの時、既にアムンセンが南極点にノルウェー国旗を立ててからほぼ1ヵ月が経過していた。白瀬突進隊は結局、南緯80度5分まで南進。ここを「大和雪原」と命名し、日章旗を掲げ、帰国した。 政府の理解を得られず常に資金難に苦しみ、また装備も稚拙、さらに経験もおおいに不足しており、英国やノルウェー隊と比較すると随分幼稚な探検隊ではあった。しかし、その不撓不屈の精神が、その後の我が国の南極観測事業に、多大なる貢献をしたことは紛れもない事実であり、世界に誇れる日本人の1人である。
|
後編に続く…