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不吉な挑戦状
「われ、南極に向かわんとす」
オーストラリアのメルボルンに寄港したロバート・F・スコット大佐(当時42)を待ち受けていたのは、一通の不愉快な電報であった。それはノルウェーの著名な探検家ロアール・アムンセン(同38)が、ポルトガル領マデイラ島からスコットに宛てて送ったものであった。
「彼は北極を目指していたはずではなかったのか…」
スコットは動揺した。もしこの電報が本物だとすると、スコットらが南極大陸で数々の科学的調査と並行して行う予定だった極点への旅が、にわかにアムンセンとの「大レース」になってしまう。しかもアムンセンとは、既に世界にその名を轟かせていた極地専門の大探検家なのである。
スコットが言うように、確かにアムンセンは長年、北極点を目指していた。首尾よくスポンサー集めにも成功し、大先輩である同郷の探検家、ナンセンから極地探検船「フラム号」を借り受け、北極を目指して最終準備を重ねていた。ところが1910年4月、アメリカ人探検家ピアリーが一足先に北極点に立ち、ここに星条旗をぶっ立ててしまったのである。
この当時、世界の探検家たちはこぞって北極点一番乗りを目指していた。そんな中で英国海軍、ならびに王立地理学協会はいち早く南極に目を向け、世界に先駆けて探検隊、ならびに科学調査隊を送り込んでいた。
1908年、前回はお荷物となってしまったシャクルトンは個人でこれを成し遂げようとし、シャクルトンの抜け駆けに不快感を露にするスコットを説得した上で、馬4頭と隊員4人で南極点を目指した。
全ての馬を早々に失いながらも、最後は人力でソリを曳き、シャクルトンらは南極点まであと160キロの地点にまで肉薄した。しかしそこで食料が尽き果て、やむなく南極点踏破を断念し、Uターンした。
南極点までわずか160キロに迫ったのは紛れもなく英国人であった。やがてこの160キロも征服し、南半球側の地軸に最初に到達する人間は当然英国人であり、またそこに翻るべきは英国旗でなければならない。英国人の誰もがそう信じていた。
アムンセンは違った。
子どもの頃から北極点一番乗りを夢に見、着々と準備を重ねてきたアムンセン。ところがいざ北極に向かおうとしていたまさにその時、アメリカ人に先を越された。北極点にも南極点にも、優先権などあるはずもなかった。
アムンセンは「北極圏にはまだ調査すべきことが多いから」と素知らぬ顔でそのまま準備を進め、やがて静かにオスロ港を後にした。ドーバー海峡を西に進む北極行きの規定のルートを経た後、船が大西洋に出るとすかさず進路を南へとった。乗組員たちも「フラム号」がマデイラ島に寄港するまで、真の目的地を知らされていなかった。それが南極であると知った時、船内には雄叫びにも近い歓声が上がった。
アムンセンが仲間に対してすら行き先を欺いたのには2つの理由があった。確かにこの時代、南極大陸に関してヨーロッパ諸国は時の大国、英国の調査隊に遠慮がちであった。アムンセンが矛先を南極に変更したとなれば、外交問題に発展するかも知れず、尻込みするスポンサーが現れる可能性もある。さらにアムンセンは、彼のレース参入が早い段階でスコットに知られることを恐れた。英国隊が南極点アタックの予定を繰り上げ、ササッとやり遂げてしまえば北極点に次いで南極点でも煮え湯を飲まされることになるのである。そのための隠密行動であった。後にアムンセンの変心を知らされた英国民は、当然これを「だまし討ち」と解釈し、激しく非難した。100年を経た今も、アムンセンは英国人に最も不人気なノルウェー人のはずである。
基地で日記をつける出発前のスコット