日本でよみがえったトレヴィシック

 時は移り、明治5年(1872年)9月12日。
晴れやかな秋空が広がる下、東京・新橋駅で歴史的な鉄道開業式典が挙行されていた。天皇陛下をはじめ、政府の高官らが、日本初となる特別列車に乗車した。午前10時ちょうど。第1号機関車は勢いよく汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き出した。英国から遅れること42年、日本は近代化への第一歩をいま踏み出したのである。新橋駅周辺に集まっていた民衆が歓呼の声を上げるなか、特別列車は横浜駅へ向けて走り去っていった。
日本に鉄道が紹介されたのは、英国で鉄道が開通してから20年以上後になる。1853年、日露和親条約の締結のため、長崎に来航したロシア使節のエフィム・プチャーチンが、蒸気機関車の模型を日本人に見せたのが最初だといわれる。
そして、日本初の鉄道が新橋―横浜間に開業するまで、さらに約20年の歳月がかかった。しかし日本の鉄道技術力は低く、車輌はすべて英国から輸入し、汽車を運転する機関士も『お雇い外国人』であった。
鉄道開通から4年後、21歳になる一人の英国人機械技術者が来日した。彼は官鉄神戸工場に2年間勤務した後、78年、汽車監察方として新橋工場に移り、97年に帰国するまでの21年間、日本の機関車技術の向上につとめた。その男の名はフランシス・ヘンリー・トレヴィシック(Francis Henry Trevithick 1850~1931)。失意のうちに世を去ったリチャード・トレヴィシックの孫である。

 


1893年、トレヴィシックの孫リチャードの指揮によって製造された日本初の国産機関車「860型蒸気機関車」。

 

 フランシスは論文『日本における鉄道網の歴史と発達』を発表したり、自身でも経験がないにもかかわらず、難所といわれる急勾配の碓氷峠(うすいとうげ)にてドイツ製のアプト式機関車の運転を成功させたりするなど、日本の鉄道界に大きく貢献した。
さらにフランシスから遅れること12年、また一人英国から機械技術者が来日する。リチャード・フランシス・トレヴィシック(Richard Francis Trevithick 1845~1913)、同じくトレヴィシックの孫で、フランシスの兄にあたる。88年、官鉄神戸工場の汽車監察方に就任し、日露戦争が勃発する1904年までの16年間、日本で鉄道技術の指導にあたった。
とくにリチャードは、初の日本国産蒸気機関車となった「860型蒸気機関車」の製造を指導したことで知られている。その後も、彼独自のスタイルを用いた蒸気機関車を数種類、日本で製作している。
20世紀につながる日本人技術者の育成に尽力し、お雇い外国人の中でもかなり重要な地位にいたと思われる2人。彼らの父、つまりトレヴィシックの息子も蒸気機関車コーンウォール号を英国で発明するなど、父親の血を濃く引いていることがわかる。
蒸気機関車の実用化という大きな夢に向かって突っ走り、時代に翻弄され、家族も金も希望も失ったトレヴィシック。高圧蒸気機関を開発し、蒸気機関車を発明するという偉業を成し遂げたにもかかわらず、ワットとスティーブンソンの栄光の影に隠れ、その名が取り沙汰されることはほとんどない。あと10年生まれるのが遅かったら、まったく違う人生を歩んでいたのかもしれない。
その積年の想いは、死後40年以上経ってようやく、孫たちによって日本で叶えられたのである。

 

日 本 初 の 鉄 道 開 通 なぜ、新橋―横浜間になったのか?

 明治維新の翌年、1869年、日本の近代化政策の一環として、政府は官営による鉄道建設を決定した。
当初は東京と京都・大阪・神戸の間、つまり首都と日本の屋台骨といえる三府を結ぶ壮大な鉄道建設を目指していたが、資金不足や軍の強化を先に行うべき、といった反対の声が上がるなど、幾多の障害が起きた。国家事業の『目玉』として、一刻も早く鉄道開業を実現したかった新政府は、新橋(現在の汐留)を東京の玄関口とし、港がある横浜までの路線短縮に妥協せざるをえなかったのである。
新橋―横浜間の敷設作業が始まると、ほとんどの地主が土地の買収に応じず、立ち退きを拒否。もっとも困ったのは高輪にあった旧薩摩藩屋敷で、ここは測量さえ認めようとしなかった。明治維新の最大の原動力になった旧薩摩藩には手出しができず、建設が暗礁に乗り上げてしまった。
その打開策が「海上に路線を敷く」ことであった。海岸から50メートルほどの沖合に石垣を築き、その上にレールを敷設するのである。しかも新橋―横浜間を最短距離で走行でき、好都合でもある。こうして全線29キロのうち、3分の1にあたる約10キロが海上線路となった。