一方、死の影すら見えた腸チフスから回復したトレヴィシックは、故郷コーンウォールに戻っていた。機関車は諦めたものの、新型のエンジンや高圧蒸気機関の改良作業は続けていたが、やはり経済的に貧窮し、新天地での事業を切望していた。
もはやスティーブンソンの独壇場となっていた英国に見切りをつけたトレヴィシックは、1816年に南米ペルーへと渡る。銀鉱山をまわって蒸気機関の導入を勧めるが、同行した事業パートナーと不仲になったうえ、経済面でも問題が発生し、喧嘩別れをしてしまう。折しも解放軍とスペイン王党軍との独立戦争まで始まってしまい、予定していた鉱山の整備・開発が大幅に遅れた。
19~20年にかけて、ようやく鉱山での蒸気機関運転が開始され、銀産出量の大幅な増産に成功したが、1年も経たずに鉱夫たちの暴動などに遭って事業が立ち行かなくなった。その後エクアドル、コロンビアなど南米を転々とするも、鉱山の開拓事業が実現することはなかった。
やっとの思いでペルーへ戻ったトレヴィシックに、運命の出会いが用意されていた。一文無しとなっていたトレヴィシックは、英国行きの船を待つ若い男に遭遇した。恥を忍んで、その若者に己の事情を説明し、英国までの旅費を借り、なんとか帰国の途についた。 なんとその男は、同じく鉱山技師としてコロンビアに滞在していた、あのスティーブンソンの息子ロバートだったのである。
1827年、新生活を夢見て出国してから11年の年月が経っていた。
リバプールとマンチェスターを繋ぐ鉄道を
25年に敷設されたストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業以降、人気の鉄道技師となったスティーブンソンは多くの仕事を抱えこみ、多忙な毎日をおくるようになった。その負担を少しでも軽減させようと、当時まだ大学在学中であったロバートも、徐々に父親のプロジェクトに参加するようになり、のちに親子で蒸気機関車専門の製造会社「Robert Stephenson & Company」を設立。同社は初期の蒸気機関車の大半を製造し、20世紀半ばまで活動を続けている。
なお、このストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、厳密にいうと、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道より創業が早い。とはいうものの、石炭輸送専用であったことと、所有者が有料で車両を持ち込んで同じレール上を運転することを容認していたり、運行ダイヤを定めずに場当たり的に列車の往来を調整していたため、運行管理体制のきちんと整ったリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が「世界最初の鉄道」とされている。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道のもともとの事業発起人は、リバプールの裕福な商人と、マンチェスター最大の紡績工場の所有者と推測されている。
イングランドの北西部ランカシャー地方は、湿潤な気候にめぐまれ、18~19世紀にかけて綿工業が栄えた。その中心都市がマンチェスター、英国最初の工業都市である。リバプール港を通じてインドから輸入された膨大な量の綿花は、マンチェスターへと輸送されていた。同鉄道は、このリバプール港とマンチェスターを結び、原料と製品がより安価かつ、スピーディーに往復できるようにと建設されたのである。

スティーブンソン親子が製作した蒸気機関車ロケット号。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道を走行。
しかし革新的なアイディアの常として、必ず反対意見が出てくるものである。このリバプール―マンチェスター間の鉄道開通においても、様々なトラブルが発生した。
まず、現在でもよくある話だが、鉄道建設に対して両端の都市からは支援が寄せられたものの、鉄道が通過することになる土地の所有者たちからは強い反対運動が起こった。これについては完全に解決することは不可能だったので、反対者の土地を避けてレールを敷設せざるを得ず、何度も調査と検討を重ねなければならなかった。
また、議会へ提出した建設法案が却下されるたびに、担当技師も挿げ替えられた。スティーブンソンも例にもれず、一度役職を解雇された後、後任の技師の失脚により再び現場に復帰している。
なかでも一番厄介であったのが、当時の一般大衆の先入観だ。一直線に突き進んでくる力強さと速度をそなえ、轟音(ごうおん)をとどろかせる蒸気機関車は恐怖感を抱かせるものであり、爆発の危険性がないとしても、「国中を有毒な煙で覆い尽くしてしまうかもしれない怪物」というイメージを持つ者が少なくなかったのである。
そのため蒸気機関車を導入するか、ケーブル牽引にするか、なかなか明確な決断を下すことができず、話し合いは開通の前年まで続けられていた。最終的に、前述の「レインヒル・トライアル」が行われ、スティーブンソン親子の圧勝で幕を閉じる。
こうして世界初の旅客鉄道開業という世紀の時を迎えるのである。
世界初!旅客鉄道の開通へ人生の明暗
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業記念式典は、リバプールのエッジ・ヒル駅にて盛大におこなわれた。政府や工業関係者のほか、当時の首相であったウェリントン公も出席し、国を挙げての祝賀となった。
この日マンチェスターへ向けて出発したのは、8台の蒸気機関車。先頭を行くノーサンブリアン号 Northumbrianを運転するのはスティーブンソン、次に続くフェニックス号 Phoenixを運転するのは息子ロバートだ。2人にとって、生涯忘れることのできない記念すべき日となったことは間違いないだろう。
その後10年間、スティーブンソンは休む間もなく新しい鉄道の設計や製作を意欲的に行い、商業的に大成功を収めた。その名は国外にまで届き、アメリカから派遣されてきた鉄道技師がスティーブンソンのもとに弟子入りするなど、名実ともに「蒸気機関車の父」として尊敬を集めた。
一方、トレヴィシックは1827年に南米から帰国した後、再び発明に取り組みはじめた。回転式の蒸気機関や垂直ボイラー、蓄熱式の室内暖房機などを開発するものの、どれも日の目を見ることはなかった。そればかりか貧困の中で肺炎を患い、床に伏せるようになってしまう。だがその傍らには、南米に旅立って以来、10年以上も別居を強いられた妻と4人の子供たちの姿はなかったという。
スティーブンソンの成功と鉄道開通のニュースを、トレヴィシックは一体どのような気持ちで聞いたのだろうか。経済状況から鑑みると、リバプールまで蒸気機関車を見学しに行ったとは考え難いが、おそらく彼の発明家としての人生のなかで最高の瞬間であった、ペナダレン号の走行時の雄姿を思い出していたのではないだろうか。
62歳の誕生日を迎えたその8日後、「蒸気機関車の発明者」は、孤独の中でひっそりと不遇の生涯を終えた。

1830年、旅客輸送用リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業。
このときの乗客の一人、リバプール出身の議員がロケット号にはねられ、
世界最初の鉄道事故の犠牲者となった。


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