鉄道史上、最初の蒸気機関車現る
その頃、トレヴィシックはウェールズの町マーサー・ティドヴィル Merthyr Tydfilにあるペナダレン製鉄所で雇われることになった。この町では製鉄業が栄え、石炭や鉄鉱石を運搬するために、鉄道馬車と運河を使用していた。
当初は製鉄所で蒸気機関の製作のみに従事していたトレヴィシックであったが、鉄道馬車のあまりの効率の悪さに、馬の代わりに蒸気機関を用いた車をレール上に走らせて、運搬に利用できないかと考えた。
トレヴィシックは、蒸気自動車パフィング・デヴィル号に続き、小型ながらレール上を走る蒸気機関車コールブルックデイル号 The Coalbrookdaleも試作しており、実現に向けて好感触を得ていたのである。ペナダレン製鉄所の所有者であるサミュエル・ホンフレイ(Samuel Homfray)は、彼の提案を快く受け入れ、蒸気機関車を運搬に用いることに同意した。
1804年2月21日、こうして製鉄所から運河のあるアバーシノンまで、世界初となる貨物用蒸気機関車ペナダレン号 The Pen-y-Darrenが走行することになった。鉄道史上では、これが最初の蒸気機関車とされている。
それでは、なぜ「蒸気機関車の父」としてトレヴィシックは名を馳せていないのだろうか?
ペナダレン号における一番の難題は、レールのもろさだった。走行にはなんとか成功したものの、当時のレールは鉄道馬車用に作られていたため、機関車の重量に耐えられず、ほどなくして損壊してしまったのだ。また、高圧蒸気機関自体も回転にムラがあったり、動力伝達用の歯車が破損したりするなど、いくつか問題を抱えていた。したがって蒸気機関車による運搬は数回で中止され、再び馬車の牽引に戻されてしまったのである。このように本格的な鉄道の実用化までには至らなかったのが原因と考えられる。

マーサー・ティドヴィルにある、世界最初の蒸気機関車ペナダレン号のモニュメント。
しかし、トレヴィシックは諦めなかった。1808年、新たな蒸気機関車を製作する。キャッチ・ミー・フー・キャン号 Catch Me Who Canと名付けられたこの機関車は、動力伝達を前回の歯車式ではなく、動輪2輪ずつを連結棒で結んだロッド式に換えていた。トレヴィシックはこの機関車をロンドンで一般公開し、円形に敷いたレール上を走らせ、見物客から「運賃」を徴収した。
だがこの機関車も商業化には至らず、資金も底をついた挙句、トレヴィシックは腸チフスを患ってしまう。
また、短期間に次々と新発明を生み出すトレヴィシックに対して妬む気持ちもあったのか、ワットは引退してなお、脅迫状を送りつけたり、用心棒にトレヴィシックを襲わせたりするなど嫌がらせ行為を続けており、トレヴィシックの悩みの種となっていた。これまで己の信念と夢の実現のために、数々の批判や妨害にも屈しなかったトレヴィシック。資金を失い、病を患った今、恐らくこのあたりが潮時だと思ったのだろう。これ以降、彼は蒸気機関車の開発から身を引いてしまったのである。
時代の波に乗った努力家
トレヴィシックより10歳年下であったジョージ・スティーブンソン(George Stephenson 1781~1848)は、トレヴィシックが蒸気機関車の発明を断念した頃に、彼と入れ替わるようにその開発・改良に取り組みはじめた。
スティーブンソンは、英北部ニューキャッスルの近郊に、炭坑の機関夫の息子として生まれ、幼少時より父の助手をしながら技術を学んだ。彼は、ワットやトレヴィシックは当然のこと、それ以外の他の技師たちによる蒸気機関や機関車などの発明品も研究し、改良を重ねるという地道な努力を惜しまない人物であった。
そんな彼に、時代が味方した。
1814~15年にかけて、対ナポレオン戦争が再び勃発したのである。ウェリントン公率いる英国軍の快進撃により軍用馬の需要が増し、馬の価格が急速に高騰。これに相反し、各地の炭鉱開発が進むことによって石炭価格が下降。馬にかわる輸送手段として、蒸気機関車が求められたのである。
多くの関心や支援が寄せられる中、スティーブンソンはワットの蒸気機関を改良し、1814年、彼にとって初となる蒸気機関車ブリュヘル号 Bl・herの運転に成功。この功績により、スティーブンソンのもとには鉄道開業の依頼が多く舞い込んでくるようになった。
やがて、もう一つの転機がやってくる。ワットの死である。グラスゴー大学の法学博士号を授けられるなど、数多くの栄誉を受けた偉大な発明家が、19年に83歳でその生涯を静かに閉じた。これにより、蒸気機関発展の妨げとなるものは一切なくなったのである。
1825年には、ダラム州で開通した世界初の石炭輸送用蒸気機関車ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道 The Stockton and Darlington Railway (S&DR)の製作に技師長として参加。29年には、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車を選ぶコンテスト「レインヒル・トライアル」において、息子のロバート(Robert Stephenson 1803~59)と共同で設計・製作したロケット号が優勝する。
鉄道時代のはじまりである。
スティーブンソンは、まさに産業革命の寵児となっていた。

「蒸気機関車の父」として成功をつかんだジョージ・スティーブンソン(上)とその息子ロバート(左)。


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