製造修理・技術者として働きだして数年が経ったある日、その後の産業界、いや、ひいては人類の日常生活を大きく変えるきっかけとなった出来事が起こる。ワットの工房にグラスゴー大学所有の、故障したニューコメンの蒸気機関が持ち込まれ、その修理を任されることになったのだ。ワットが蒸気機関に接したのはこの時が初めてで、その仕組みや稼働法についてほとんど知らなかったといわれている。
ワットはニューコメンの蒸気機関の修理をしながら、指摘されていた熱効率の悪さを払拭すべく、様々な実験を重ね、改良に没頭した。そして29歳にして、近代の幕開けを導いた新方式「ワット機関」を誕生させたのである。
苦闘を重ねた結果、彼は動力機関すべてを自主製作できるまでになったが、この活動には多額の資金が必要だった。商品化するための特許取得の手数料なども高額だったため、ワットは測量士や土木技師の仕事なども兼務しながら、金策に走った。一方、公の場での研究成果の発表を面倒臭がり、代わりに特許でアイディアを表明することを好む傾向は、生涯変わらなかったという。
バーミンガムで鋳造工場を経営するマシュー・ボールトン(Matthew Boulton)という協力者を得て、業務用の新蒸気機関の製作に着手できたのは、それから約8年後のことだった。94年にはボールトンと共同でボールトン・アンド・ワット社を設立し、商業的に大成功を収めた。

 

効 率 を 追 求 ワットによる蒸気機関の発展

 ニューコメン式蒸気機関は、ボイラーから熱い蒸気を注入してシリンダー内の温度を沸点まで高めた後、冷却水を送り込んで一気に冷やし、蒸気が水に戻るときに生じる気圧差によって、ピストンを上下に動かすという方式であった。しかしこの方法だと、次に蒸気が入ってくる時にはシリンダー内が冷えきってしまっており、ボイラーで作られる蒸気の大部分は、シリンダー自体を温め直すために使われることになる。
「これでは効率が悪すぎる!」*
この原因は、シリンダーの温度の高低差にあるとワットは考え、これを解消すべく、様々な実験を重ねていく。「シリンダーは温まった状態のままで、ピストンを上下に動かすには―」。こうして、シリンダー内の蒸気を、水を入れて「冷ます」のでなく、別の場所に「逃がす」ため、「復水器」をシリンダーの外に設置することを考え出す。
これによってシリンダーを常に高温に保ったまま、ピストンを動かすことに成功。この発明で熱効率がなんと4倍近くも向上したという。

ニューコメン式の基本動作

 

ボイラーからシリンダー内に蒸気が注入

ピストンが持ち上がり、ポンプが下が

シリンダー内に冷却水を噴射する

シリンダー内の蒸気が冷やされ水となり(負圧)
ピストンが下がり、ポンプが上がってくる

石炭鉱山の排水ポンプとして使われていた蒸気機関だが、掘り出した石炭の40%を、ボイラーの燃料として使わねばならないという、悪循環が起こっていた。


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天才肌の技師に与えられた苦難

 ワットは、視野を広げるべく仲間と語り合うのが好きで、豊かな想像力をもつ熱心な発明家であった。そうした側面は、産業革命の推進に取り組む多くの有能な人物たちの尊敬を集めたが、一方で若いときに発明にかける資金繰りで苦労したせいか、自身が得た特許にまつわる収益状況には神経質で、たびたび小競り合いを起こした。「ワット機関」を超える新しい技術の開発に対して常に監視を怠らず、特許侵害の訴訟や妨害工作に余念がなかったという。
しかし、停滞していた蒸気機関の技術的進歩も、1800年にワット機関の特許権の期限が切れ、ワットが第一線から退いたのを機に、大きく進んでいった。
その流れを先導したのが、本稿の主役とも言える、リチャード・トレヴィシック(Richard Trevithick 1771~1833)その人である。

 


挫折続きの数奇な人生をおくったリチャード・トレヴィシック。
彼に足りなかったのは運か忍耐か?

 

 前述したように、ワット機関の登場以降、幾人もの技術者たちが蒸気機関のさらなる改良に挑戦したが、いずれもワットらの強い妨害に遭い、失敗していた。ワットは特許侵害の懸念を抱いていただけではなく、実際問題として、こうした技術者たちの試作による爆発事故などが続発していたため、自分の発明した蒸気機関が危険だと思われるのを恐れていたのである。トレヴィシックも1790年代後半から何度か実験を行っていたが、ワットらの介入によって挫折していた。
トレヴィシックは英国南西部のコーンウォール出身で、鉱山会社の技師としてボイラーなど高圧機関の開発に携わっていた。彼は蒸気機関を自動車や機関車など移動機関の原動力として利用できないかと考え、なかでも危険度が高いとして手がつけられていなかった、小型の高圧蒸気機関の製作を目指していた。
1801年、トレヴィシックは、ワットが考案した蒸気機関を、ついに5分の1サイズにまで小型化することに成功する。彼はさっそく鉱山技師の経験を活かし、新しい蒸気機関を用いた世界初の蒸気自動車パフィング・デヴィル号 The Puffing Devilを試作。残念ながら同車は過熱によりエンジンが破損したが、03年には改良版の自動車、ロンドン蒸気車 The London Steam Carriageを再度製作し、ある程度の距離の走行を成功させた。
しかし、この開発過程で蒸気機関の爆発により死者を出すなど、性能の安定性に欠けるという深刻な問題を解決できずにいた。高圧蒸気機関への批判が一気に噴出したが、トレヴィシックはそうした非難に屈することなく、改良作業に励んだ。

 


コーンウォールの町、ウェイドブリッジで毎年6月に行われる、
「ロイヤル・コーンウォール・ショー」で展示される
パフィング・デヴィル号のレプリカ。