参政権を求めて活動するサフラジェットたち。街頭で女性らが次々と連行され、激しく抵抗する姿は多くの人に衝撃を与えた。
■ 現代女性が当然のように享受する参政権は、女性らが熱望した夢だった―。「Votes for Women(女性に参政権を)」のスローガンを掲げて闘った活動家らの闘争を、その中でも過激派と呼ばれた「サフラジェット(suffragette)」のメンバーだった女性の生涯を通して見ていこう。

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代・本誌編集部

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命を投げ出した女性

レース翌日の「デイリー・ミラー」紙では、表紙を使ってレース当日の事件の瞬間を伝えた。写真左端にデイヴィソンと、その隣に馬、旗手が横たわっている。
1913年6月4日、 それは一瞬の出来事だった。
イングランド南東部サリーにあるエプソム競馬場は、名門競馬レースのダービーを楽しむ人々で朝から賑わっていた。この年のダービーには、時の英国王ジョージ5世が所有する馬が出走しており、王は王妃メアリーと共にゴールを一望する特別席から観戦していた。
午後3時をまわった頃、いよいよジョージ5世注目のレースがスタート。競走馬がゴール前の最後の直線コースへ入るコーナーに差し掛かった、まさにその時――。ひとりの女性が防護柵をくぐり抜けてコースに飛び出し、全力で疾走する王の馬の前へ、その手綱に手を伸ばすように身を投げ出したのだ。そして次の瞬間、女性はあっけなく蹴り倒され、馬も転倒、騎手も投げ飛ばされてしまった。すべてはあっという間の出来事で、観戦していた人々も何が起こったのかわからないまま、その場に凍りついたことであろう。
この女性の名はエミリー・デイヴィソン(Emily Davison=当時40歳)。英国の女性参政権獲得を過激な手段を使って世の中に訴えていた政治団体、WSPU(Women's Social and Political Union=女性社会政治連合)の活動で知られた人物である。デイヴィソンはすぐに近くの病院に運び込まれたものの、頭蓋骨の骨折がひどく、治療の甲斐もむなしく意識を取り戻さないままに6月8日に帰らぬ人となった。王の馬の前に飛び出したそのとき、その手にWSPUのシンボルカラーである紫・白・緑の3色をあしらった旗をぎゅっと握り締めていた。
レース中の競走馬の前に飛び出すなど、自殺行為に等しいことは容易に想像がつくはず。デイヴィソンがこんな行動に出たのはいったいなぜなのか。その理由を探るべく、女性参政権獲得への闘いの歴史をたどってみたい。
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遅れを取っていた英国

英国で女性の参政権が法律によって初めて認められたのは今から100年前の1918年。しかし、この時はまだ、「ある一定以上の財産を持つ30歳以上の女性のみ」と条件がつけられていた。完全に男女平等の参政権が21歳以上のすべての女性に認められるようになったのは、それから10年後の1928年。他国の国政選挙における女性参政権の獲得年次を見るとニュージーランド(1893年)やオーストラリア(1902年)などと比べて、少々遅れを取っていたことがわかる。
しかしながら、英国において女性の政治参加が伝統的に否定されていたわけではない。女性にも「ある程度の財産を持っていること」などの条件つきで選挙への投票が認められていた時代の記録が残っている。おそらく、家族単位のビジネスが中心で職場と家の区別も明確でなかった時代には、女性も家事のかたわらで夫や兄弟に混じって働く主要な働き手であり、さまざまな場面での発言力もあったと考えられる。
男女のあり方と社会の構造に大きな影響を及ぼす転機となったのは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命だろう。一連の産業の変革が進んだ19世紀には工場や店、オフィスなど家庭の外へ通勤する男性が増加。妻や娘、妹といった女性たちには家庭を守ることが期待されるようになり、男女の役割がはっきりと線引きされるに至った。やがて男性たちは政治や社会問題も外の世界で話し合って決めてしまうようになり、家庭に取り残された女性が発言できる場は自然と失われていった。1832年に制定された「Great Reform Act 1832」法ではついに選挙権が男性にのみ与えられることが明記されてしまい、ここから英国での女性の参政権獲得への半世紀を超える苦難の道が始まったのだった。
英国で女性の参政権を求める動きが特に強まったのは1866年頃。1867年には国政選挙への投票権を男性と同様に女性にも与えようという議題が国会で話し合われている。だが、残念ながら結果は196票対73票の大差で却下。それから条件付きで女性参政権が認められる1918年まで、実に50年以上の月日が費やされることになる。

穏健派と過激派

英国の女性参政権運動において大きな役割を果たした団体には、デイヴィソンが所属していた過激派団体のWSPUと、もうひとつ、穏健派のNUWSS(National Union of Women's Suffrage Societies=女性参政権協会全国連合)があったことがよく知られている。
先に始まったのはNUWSSで、1897年にミリセント・フォーセット(Millicent Fawcett)という女性が代表として活動を先導した。フォーセットは裕福な家の出身で、夫は国会議員。自身も女性の大学進学に尽力し、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジの設立に貢献した人物でもある。NUWSSは財産を持つ中流層の女性に参政権を与えることを目指し、その活動も国会議員へのロビー活動、チラシの配布や署名活動、静かなデモ行進や集会など、平和で穏健なものであった。フォーセットの考えは、女性にも政治に参加するだけの能力があることを証明して権利を勝ち取ること。そのためには、 知的で法に従った活動によって政府に訴えかけるべきというものだった。実際のところ、1900年までにはNUWSSの地道な活動と主張は国会の多くの議員に支援されるようになっていたのだが、正式に国会で認められるまでには至らず、活動家たちの苛立ちと不満は募るばかりであった。

演説を行うエメリン・パンクハースト。
1903年、いつまでも煮え切らない状況にしびれを切らした急進派の活動家らによって発足したのがWSPUだ。団体を牽引したのはマンチェスターで活動していたエメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)。パンクハーストもフォーセットと同様に裕福な家の出身だが、パンクハーストは教育を受けた中流層の女性だけでなく、劣悪な環境に苦しむ労働者層の女性も活動に取り込むことで、より活発な組織を目指した。世間の注目を集めるためには過激な手段も辞さない方針で、掲げたモットーは「Deeds not words(言葉より実行を)」。郵便ポストに発火物を投げ込んで中の郵便物もろとも燃やす、高級デパートや大手新聞社の窓ガラスに投石する、政府高官の家に放火するなど、世間からテロリストと非難されても仕方がない過激な活動を次々に展開していった。
こうした方針に批判的な大衆紙「デイリー・メール」はWSPUの闘争的な女性たちを、通常の女性参政権主義者の呼称である「Suffragist(サフラジスト)」をもじった「suffragette(サフラジェット)」と揶揄するようになった。ところが当のメンバーたちは逆にその名前に誇りを感じ、活動をさらにエスカレートさせていった。
パンクハーストの娘が1905年に逮捕、投獄されたのを皮切りにメンバーが続々と逮捕されるようになる。その数は1000人以上におよび、それぞれが逮捕されては投獄され、出所してはまた問題を起こして逮捕されるという、警察とのイタチごっこが続いた。
刑務所でのサフラジェットらは、単なる犯罪者とみなされることに反発し、自分たちが信念を持った政治犯であることを示すため、刑務所での食事を拒否するハンガー・ストライキを決行した。それに対して警察は、投獄中の「殉死」でサフラジェットが英雄視されることを恐れ、食事拒否で衰弱した囚人の喉にホースを突っ込んで無理やりに食事を流し込むという強硬策で対抗。こうした政府の対応は女性らの心をさらに頑なにし、サフラジェットは暴力の連鎖の泥沼に深くはまりこんでいくこととなった。

運動を支えた男たち

女性の活動家が目立つ女性参政権運動だが、その裏には男性支持者の応援もあった。
女性に参政権など認めないと主張する議員が国会の多数を占めていたものの、収監中のサフラジェットの扱いの酷さについて大臣たちに訴えたり、WSPUの会合に参加したりする議員もいたという。
例えば、ジョージ・ランズベリー議員(1859~1940年)は女性参政権を世間に訴えるために一旦議員を辞職して選挙に再出馬。残念ながら結果は落選だったが、その後も運動の援助を続けた。1913年には、サフラジェットによる放火を支援するWSPUのデモ行進で応援演説を行った罪で投獄もされている。
また、政治家フレデリック・ペシック=ローレンス(1871~1961年)は妻と共にWSPUの機関紙「Votes for Women」の編集に携わって支援。彼も過激な活動に手を貸したとして逮捕されたこともあるが、暴力的な活動には否定的でもあったとされる。

女性参政権、世界の流れ

女性参政権運動は18世紀から始まり、その後、社会主義運動や労働運動の高まりで動きが活発となった。世界で最初に女性に参政権が認められた国はニュージーランド(1893年)で、その後、オーストラリア、ロシア領フィンランドなどが続く。
英国は1918年に30歳以上の財産を持つ女性に参政権が認められたが、男性と同様に21歳以上のすべての女性に認められるようになったのは1928年。大正デモクラシーの時代から女性参政権が叫ばれていた日本も第二次世界大戦後の1945年にやっと実現している。

世界の主な国の女性参政権獲得年

1893年 ニュージーランド
1902年 オーストラリア
1906年 ロシア領フィンランド
1913年 ノルウェー
1915年 デンマーク、アイスランド
1917年 ロシア、カナダ
1918年 ドイツ、ポーランド、英国
1920年 米国
米国では州によって異なり、この年、すべての州で認められ、憲法も正式に書き換えられた。
1931年 スペイン、ポルトガル
1945年 フランス、日本
1991年 スイス

勤勉な教師から過激派活動家へ

「Votes for Women(女性に参政権を)」を主張してジョージ5世所有の馬の前に飛び出して亡くなったデイヴィソンも、郵便ポストへの放火など公共の場を荒らした罪で何度も逮捕され、刑務所には9回も収監されている。ハンガー・ストライキの数も7度に及び、ホースで強制的に食事を流し込まれた回数は49回を数えた。
1909年に当時の大蔵大臣の車に石を投げつけた罪で1ヵ月の重労働の刑を宣告された際には、独房に誰も入れないように封鎖してからハンガー・ストライキを強行。怒った看守が、ドアを開けさせるために大量の水を独房へと流し込むという策がとられた。
それにしても、このような激しい活動を行っていたデイヴィソンとはどんな経歴の持ち主だったのだろうか。

エミリー・デイヴィソン(1910年頃)。
エミリー・ワイルディング・デイヴィソンは1872年10月11日にロンドン南東にあるブラックヒースで、妻に先立たれた商人と後妻の間に生まれた。後妻が産んだ4人の子の中では3番目で、前妻の子も合わせると全部で13人兄妹の大家族。13歳からケンジントンにあった学校で学んだあと、1891年に奨学金を得て名門のロイヤル・ホロウェイ大学に進学しており、実家の暮し向きはそれなりに良かったと想像される。
しかしながら、2年後に父親が亡くなってからは状況が一変。残された母親ひとりでは学費がまかなえず、デイヴィソンは退学に追い込まれてしまった。それでもその後は住み込みの家庭教師をしながら夜学で勉強を続け、大学資金を蓄えたのちにオックスフォード大学のセント・ヒュー・カレッジに入学して、最後の試験では主席レベルの成績を収めた。これだけの苦学の日々を乗り越えたデイヴィソンだが、当時のオックスフォード大学は女性の学位取得を認めていなかったため、正式な卒業資格は得られなかった。それでも、学校の教師や家庭教師をしながらさらに学業を続け、1908年にはロンドン大学で学位を取得している。
勤勉で真面目な女教師だったデイヴィソンがWSPUに加入したのは1906年。自身の苦学の経験からも、女性が置かれていた立場に強い憤りがあったのだろう。3年後には教師の職を捨てて、 WSPUの活動に全力を注ぐようになった。
1909年、デイヴィソンはハーバート・ヘンリー・アスキス首相に訴えるデモ行進で警察と衝突し、警官への傷害罪で逮捕され、初めて投獄される。1ヵ月の懲役を終えたのち、デイヴィソンはWSPUの機関紙「Votes for Women」に「(この経験で)これまでに感じたことがないほどに、仕事へのやりがいと、生きる興味が得られた」と書いている。そして、女性参政権を勝ち取るという究極の目標のためには闘争的な行動も必要だと考えるエメリン・パンクハーストの方針に賛同した彼女の行動はどんどん大胆で無鉄砲になっていく。他のWSPUの仲間と同様に、投石や郵便ポストへの放火などを繰り返して、逮捕と投獄生活の日々を送ることとなるのだった。

時代の犠牲者たち

「Prisoners Temporary Discharge for Health Act 1913」法では、ハンガー・ストライキで衰弱した収監者は釈放され、再び問題を起こせばすぐに逮捕されることが決められた。しかし、これでは逮捕と投獄が繰り返されることから、この法は「Cat and Mouse」(イタチごっこの意)の通称で呼ばれた。© Women's Social and Political Union, 1914
サフラジェットの女性たちがこれほどまでに極端な道へと進まざるを得なかったのは、ヴィクトリア朝時代に女性が置かれていた状況が非常に息苦しいものだったからであろう。
19世紀の末、産業革命により英国が経済的に成長していたのとは裏腹に、女性の立場や地位は非常に低いものだった。参政権がないばかりか、苦情を訴えたり、財産を所有したりすることも許されていなかった。未婚女性の立場も弱いが、結婚したところで何も変わらなかった。外で働き、社会の将来を決める政治的な事柄にも責任を持つのは男の役割。女性が政治に口出しをする必要はなく、女性の能力は子どもを産んで家庭を守ることに活かされるべきだ、という考え方が根強かった。夫婦はひとつのまとまりとみなされて、女性の権利は結婚前からの財産を含めたすべてが夫である男性の手に委ねられた。妻は夫の所有物であり、従って妻が生み出すものもすべてが夫のもの。女性自身の体や産んだ子どものほか、外で働いて得た給料ですら夫に所有権があるとされたのだ。男性が経済的に安定し、社会的立場を確立する一方で、女性は経済的にも性的にも権利のない立場にあり、夫婦の離婚においても法律は夫に有利なように作られていた。たとえ肉体的苦痛を与えられようとも、男性の支配から逃れることはほぼ不可能だった。

サフラジェットを揶揄するポストカードも出回った。
その上、生活の苦しい労働者層の女性は家事のかたわら工場などで働いたが、その賃金は男性の半分以下。産前産後の保証もなく、出産後、動けるようになればすぐに仕事に戻らざるを得ないという過酷な状況だったという。
とにかく、現代では理解できない女性に不利な法律が当時は数多く存在していたが、フェミニズムの思想が教育を受けた中流層の女性らに広がったことで、自分たちが置かれた理不尽な状況に女性たちも気づき、次第に声を上げはじめるようになった。そうして生まれた女性参政権運動の波ではあったが、活動の成果は思うように上がらなかった。
前へなかなか進んでくれない現実に疲れ果てた女性らが、世間があっと驚くような激しい行動に出なければ誰も自分たちの声に耳を傾けてくれないと思い込んでしまったのも無理はなかったのかもしれない。それまで辛抱強く勉学と勤労の日々を送ってきたデイヴィソンも、政府や警察との激しい衝突をきっかけに心の中で抑えてきたものが大きく弾けてしまったのだろう。

ブラック・フライデー

刑務所で食事を拒否するハンガー・ストライキを行う人に対し、所内ではホースを使って強引に食事が流し込まれた。© The Suffragette, ©1911
1910年 、女性参政権運動に大きな影響を与える事件が起こった。女性参政権活動家と政府との折衷案として財産を持つ女性限定で選挙権を与えるという議題を議会で話し合うことが提案されたものの、最終的に当時のアスキス首相が却下して、すべてが白紙に戻ってしまったのだ。これに対してWSPUは11月18日の金曜日に300人のメンバーで首相に直談判の抗議に向かったが、警察の激しい反撃に遭い、参加者の多くが逮捕されてしまった(ゆえにこの事件はブラック・フライデーと呼ばれている)。デイヴィソンはこの日は逮捕されなかったものの、サフラジェットの同志に対する警察の仕打ちに怒り狂い、翌日、裁判所の刑事部に石を投げつけ、懲役1ヵ月の判決を受けた。実際にこのブラック・フライデー事件では、非武装の女性に対する警察の対応があまりにも暴力的であったため、メディアですらサフラジェットを擁護し、政府を強く批判したという。しかしながら、この暴力にまみれた事件をきっかけに、国会議員は女性参政権運動と距離を置くようになり、結果として運動自体をも後退させることとなった。

死の真相は…?

デイヴィソンは帰りの列車の切符を持っていたことから、「死ぬつもりはなかった」と見られているが、真実はわかっていない。
この事件後もさらなる過激な活動を続けたデイヴィソンがジョージ5世の馬の前に身を投げるのは、それから2年半後のことである。あの日のデイヴィソンの行動があらかじめ死を覚悟していたものだったかどうかはわかっていない。彼女は自分の計画を事前に誰とも相談しておらず、計画についてのメモ書きなどもみつからなかった。遺品の中には帰りの列車の切符や翌週の予定を書いた手帳なども残されていたため、警察はデイヴィソンの死は自殺ではないと結論づけた。
自殺説をはじめ、世間の関心をWSPUの活動に向けるために王の馬にWSPUの旗を掲げようとしたのが失敗に終わったのだとか、単純にコースを横切って注目を集めるだけの計画だったが後続の馬がまだ残っていることに気づかずに飛び出してしまったのだとか、さまざまな憶測はある。しかし真実は謎のままだ。
WSPUはデイヴィソンを女性参政権運動の殉死者として扱った。ロンドンへ戻ったデイヴィソンの遺体は、5000人の女性たちと数百人の男性支持者に付き添われてロンドン市内の教会まで運ばれ、そこで簡素な葬儀が行われた。その後、イングランド北部の教会墓地へ運ばれ、埋葬された。墓石には、WSPUのモットーであった「Deeds not words」の文字が刻まれた。

活動の果てに

こうして、世間に衝撃を与えたデイヴィソンの死であったが、残念ながら、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、英国の女性参政権運動はしばらくの間、棚上げとなった。穏健派のNUWSSは政府への地道な働きかけを続けていたが、WSPUのリーダー、エメリン・パンクハーストはWSPUの過激活動の中断を宣言。その代わりに戦場への女性派遣などで政府に全面的に協力し、政府との良い関係を築き上げた。
そして第一次世界大戦が終了した1918年、英国でようやく一部の女性の参政権を認める法律が国会を通過。女性参政権活動はついに、その大きな目的のひとつのゴールへ到達することができたのだった。
女性参政権認定までの経緯を考察すると、第一次世界大戦前のサフラジェットの過激な活動やデイヴィソンの命がけの行動は女性参政権獲得に大きな意味をなさなかった、いやむしろ、邪魔になったのではないかとする意見も多い。暴力に訴えた活動方針が共感を得て、称えられることは難しいと言えるだろう。
事実、英国での女性参政権100年を記念してロンドンの国会議事堂前にあるパーラメント・スクエアに今年建てられる初の女性像は、WSPUのエメリン・パンクハーストではなく、地道な運動を続けていたNUWSSのミリセント・フォーセットのものである。
それでも、サフラジェットの苦闘が無意味であったというのは少し酷だろう。女性の権利獲得のために人生を投げ打ち、人々に後ろ指を指されながら闘った『悲しきヒロイン』らの活動が、少しずつ男女平等への道を塞ぐ重い石を動かしたことは否定できない。
フォーセットの像はまだ一般に公開されていないが、フォーセットがデイヴィソンの死に際して行ったスピーチの中から取られた「Courage calls to courage everywhere(勇気はいたるところで勇気を呼ぶ)」という言葉が書かれたサインボードが像の手に抱えられているという。現代では当たり前のものとして存在する女性参政権が、多くの女性の尽力と犠牲によって得られた大切なものだということが伝わる像となることを願う。
女性参政権100年

特別展「Votes for Women」

収監されたサフラジェットの名前は旗に記され、メンバー同士で称え励ましあった。© Museum of London
英国で初めて女性の参政権が認められてから今年で100年。ロンドン博物館(Museum of London)では50年以上にわたる英国の女性参政権獲得までの厳しい道のりを紹介するエキシビション「Votes for Women」を開催する。
特にサフラジェットに関する展示が充実し、投獄されたサフラジェットの獄中生活をとらえた写真や、 闘う勇気の証として刑務所から持ち帰られた堅い黒パン、収監中に家族と交わした手紙、獄中でのハンガー・ストライキに耐えた証としてWSPUから贈られたメダルなど、自己を犠牲にして女性の権利獲得のために闘ったサフラジェットらの苦悩を示す品々が紹介される。また、郵便ポストを燃やすために使われた発火装置入りの潰れた箱からも闘争の激しさを垣間見ることができるだろう。
展示会場ではサフラジェットのメンバーの中でこれまであまり名が知られてこなかった女性らの紹介や、当時の過激な闘争手段と現代の政治的活動との類似性を考察する映像などの上映も予定されている。

Votes for Women 2月2日~3月27日

Museum of London
150 London Wall, EC2Y 5HN
入場無料
www.museumoflondon.org.uk/museum-london

週刊ジャーニー No.1020(2018年2月1日)掲載