
■ 第135話 ■ロシア人になった静岡の男
▶何とか日本と良好な関係を築きたいロシアは遣欧使節を丁重に迎えた。提供した宿泊先は迎賓館。破格の厚遇だ。40日ほどをロシアで過ごす一行。毎食、西洋料理の他、塩ジャケや大坂漬け、大根おろしや芋の煮っころがしなどが添えられた。英仏蘭で出されたなんちゃって和食と違って完ぺきな和食。食事だけではない。各人の部屋には日露辞典、筆や墨から半紙、封筒、日本産タバコ等々、細やかなアメニティグッズが置かれ、部屋の隅々に至るまで細やかな気配りが施されている。随行員の誰もが「迎賓館の中に絶対日本人がいる」と睨んでいた。福澤諭吉も日記に「こんなん絶対ロシア人が思いつく訳がない。どこかに絶対日本人が潜んでいるはずだ」と書き残した。
▶柱の陰から使節団の様子をジッと見つめる男がいた。男の名はウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ。ロシア人じゃん。いや日本人なの。日本名は増田甲斎、または橘甲斎。1820年の生まれとあるから遣欧使節をもてなしたのは42歳の頃。掛川藩士(静岡)の次男として生まれたが脱藩し、ばくち打ちの親分となって度々投獄された。その後、出家して修行僧(雲水)となりあちこちさまよううちに伊豆に辿り着いた。戸田(へだ)にたまたまロシア艦が逗留していた。そこで通訳官ヨシフ・ゴシケーヴィチ(後の函館ロシア領事)と知り合った。ゴシケーヴィチからロシアのことをあれこれ聞いているうちに外国への興味爆上がり。「私をロシアに連れてって」と頼んだ。一般人の海外渡航はご法度の時代。しかし昔も今もロシア人に他国のルールは通用しない。当時の日本にはロシア語を理解する者はほとんどいなかった。「英米仏蘭に後れをとってはならぬ。ロシア通の日本人は将来きっと役に立つ」と考えたゴシケーヴィチは増田を積み荷に隠してロシアに密航させた。1855年のことだから増田甲斎、35歳。バレたら死罪。吉田松陰はアメリカ密航が失敗し、後に処刑される。

▶増田らを乗せたロシア艦は樺太近海で英海軍に見つかり拿捕された。なんせこの時、クリミア戦争の真っ最中。敵対するロシアとイギリスは日本近海でも交戦状態にあった。捕らわれの身となった増田とゴシケーヴィチは抑留時間を利用して辞典編纂に没頭。のちに世界初となる日露辞典を完成させた。遣欧使節が泊った部屋に置かれていたのがそれだ。増田はロシアで東方正教会の洗礼を受け、ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフとなり、外務省で通訳官の職を得た。日本から使節が来ると中国人貿易商らに頼んで日本食材や小物を輸入してこっそりともてなし、遠来の同胞を喜ばせた。1873年(明治6年)、岩倉使節団がサンクトペテルブルクを訪れた。岩倉具視は増田に面会し「幕府は既になし。新政府が脱国の罪を問うことはない」と約束し、帰国を促した。増田は約18年に及んだロシア生活を切り上げ帰国した。ロシア政府は増田の労をねぎらい、勲章と年金1000ルーブルを授けた。
▶帰国後、再び仏門に入り、ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフは増田甲斎に戻った。明治政府より芝の増上寺の片隅に住居を与えられ、ロシア情勢を聞きに来る政治家や学生相手に嬉々としてロシア談義を披露した。1885年、日露の関係が悪化する前に65歳で死んだ。幕末、日本中が攘夷だ開国だと大騒ぎしている最中、ロシアにこんな日本人がおったんじゃのうと少し感心したところで次号に続く。チャンネルはそのままだぜ。
週刊ジャーニー No.1255(2022年9月1日)掲載
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